第三話
◇ ◇ ◇
「あの、ティアナ様」
「エイミー、どうしたの?」
「これは……その、どういう状況ですか?」
現在、ティアナは厨房で食器洗いを手伝っているエイミーの横に立って、スポンジから出る泡を眺めていた。
一度も食器洗いの様子を見たことがないティアナにはそれが非常に新鮮で、なにやら透明な液体をスポンジで泡立てているエイミーの手元を見ることは何十分経っても飽きなかった。その泡で食器が見る間に綺麗になっていくのだから驚きである。
ティアナはエイミーの問いに首を傾げながら答えた。
「? 貴女を守る為に、私が動いている状況よ?」
「……ティアナ様、僭越ながら言わせていただきますが、普通、メイドというのは、ご主人様の身の回りをお世話する為の職であって、ご主人様に守られる為の職ではないのですが……」
「じゃあ、私がそういう職にするように国にお触れを出すわ。それなら問題ないでしょう?」
「……」
ティアナの凄まじい執念を感じ取ったのか、エイミーはそれ以上声を出さずに黙って手を動かした。ティアナが異常なほどに変貌した日から十数日が経った今、エイミーはティアナには何を言っても無駄であると悟っていたのだった。
一方でティアナは、国にお触れを出すというのは少々我儘だったかもしれないと反省しつつも、警戒心をもって辺りに気を配っていた。
――それは、二日前にエイミーから聖女の噂を耳にしたからだった。
エイミーによると、周りから聖女だと囃し立てられているティアナと同年代の少女がいて、体の傷と心の傷を一瞬にして癒す神聖力を持っているらしい。
彼女がいる場所は、大陸の東に位置するビュッファ公国の都心にある、サンテクデュレイル神殿。間違いなくティアナを貶めた聖女だった。
このままではまず間違いなく聖女はこの国に訪れる。そして、皆が死ぬ。
それを危惧したティアナは、一番最初に死ぬであろうエイミーを助けるべく行動をすることを決意した。
……しかし、そんな中、様々な不安がティアナを付き纏った。
もしかしたらティアナの性格が変わったことにより、エイミーとティアナが危険にさらされる時期が早まるかもしれない。もしかしたら一回目で気づけていなかっただけで、もっと前から何らかの罠が仕掛けられていたのかもしれない。
そんな考えが頭をぐるぐると回り、ティアナを困らせていた。
そんなこんなで数日掛けて考えた結果……ティアナはエイミーに二十四時間付き纏うことにした。ティアナは周りのメイド達が引くほどに、付いて回った。
まぁでも、多分それはティアナの考えすぎだし、聖女がこの国に訪れるのはもっと先の話なので、ティアナが今から行動をするのは早すぎるかもしれないが、命の危険というのは警戒しておいて損はないことだ。
万が一の時はティアナがエイミーを庇うか、ティアナが命の危険に晒されても助けないように命令しておけばいいのではないかとも考えたのだが、仮にティアナが死んだあと、エイミーを始めとする他の人達が殺されてしまうかもしれないし、ティアナは聖女達に復讐をするまで死んでも死にきれない。
それに、あの中級メイドは古参のメイドだったので、今もこの王宮のどこかにいるはずだ。聖女に誑かされる以前にエイミーかティアナが(恐らくティアナだろう)個人的な恨みを買っているという可能性もあるので、危険だということに変わりはない。
ティアナの体力とこの我儘がいつまで続くかは分からないが、エイミーの幸せを願う以上、こういう無茶も必要なのではないかと思うティアナだった。
「ひ、姫殿下様!!」
突然厨房に響いた大きな声に肩を震わせて、ティアナは振り返った。
そこには、大きく息をついているメイドがいて、慌てた様子でティアナを見ていた。
「どうかしたの?」
「あっ、あのっ……ディアランドの王太子様が、東宮の応接間にいらっしゃっているのですが……」
いつものように罵声が飛んでこないかと体を縮こまらせながら言うメイドの言葉に、ティアナは愕然とした。
(一体どうして!? 婚約破棄の手紙は届けたはずなのに……)
もしや、婚約破棄が気に食わなかったのだろうか? と、そんな考えが頭をよぎるが、すぐに首を振ってそれを否定する。
(ディアランド王国とベルティーユ王国との交友を求めているのはベルティーユ王国だけ。国と国の関係はあまりいいものではなかったし、むしろあちら側からすれば万々歳だったはず)
ティアナは暫く苦悩していたが、結局答えは分からず、メイドに向かってこう告げた。
「帰ってもらって頂戴」
「…………へ?」
メイドが呆然とティアナを見つめた。しかしティアナはその様子に気づいていないかのように振る舞う。
「アレクシス様を……王太子殿下を追い払ってくれたら、私から計官に言って今月の給料は二倍……いいえ、五倍にするわ。だから、お願いね?」
「ごばっ……!?」
流石に給料の値上げを言い渡されたらやるしかないのだろう。メイドは口をポカンと開けていたが、少しすると行きと同じように慌てて厨房を去って行った。
「はぁ……」
ティアナが思わずため息をつくと、食器を洗う手を止めていたエイミーが尋ねた。
「ティアナ様、本当に宜しかったのですか……?」
ずっと前からティアナの身近にいたエイミーは、ティアナがアレクシスに恋焦がれていたことも、ジルベルトに直々に頼み込んで婚約を解消してもらったことも、……まだティアナがアレクシスを想っていることも、知っていた。
ティアナは、そんなエイミーの問いに向かって無理矢理笑みを浮かべた。
「いいのよ、これで」
「そう、ですか……」
エイミーはまるで自分のことのように苦しげな表情を浮かべた。
そんなエイミーを見て、ティアナは彼女を安心させるように笑みを強くする。そして心の中で、こう呟いた。
(きっと私は、彼と会ったら泣いてしまうし、もう一度婚約をしたいと思ってしまうだろうから、これでいいのよ。そう、これでいいの。これで……)
そんなことを考えているとふいに涙が流れそうになって、ティアナは誰にも見られないようにそっと目を伏せた。