第二話
「その案件、朕が認めよう」
母達に会わないように注意深く父の――ジルベルト陛下の書斎まで訪れたティアナが婚約破棄を懇願すると、ジルベルトは思いのほかあっさりとそう答えた。
ティアナはそれが信じられなくて、思わず目を瞬かせる。
「ほ、本当ですか?」
「ああ。前々からそれも視野に入れていたからな」
「そう、なのですか……」
それは初耳だった。この婚約はベルティーユよりも権力が強い大国と交友を結ぶきっかけになるものなのに、利益主義のジルベルトがそれを破棄することを考えていたなんて、一体どうしたのだろうか。
「手紙を王太子殿下に向けて書いておけ。王令状と共に送ることにしよう」
「分かりました、お父様」
(そういえば、手紙を書くのは初めてね。何を書こうかしら……)
まだ我儘だった頃のティアナは手紙は愚か、字を書くことさえ苦手だった。
そもそも書くことに意味を感じていなかったし、どうしても書かなければいけない時は使用人に代筆を頼んでいた。
しかし、牢獄の中で聖書を写す機会が数多あり、そこで文字の書き方を改めて教わったのだった。
文字を書くのはティアナが思っていた以上に楽しく、一時期ティアナは写経に熱心に取り組んでいた。
(まぁ、それもあの人の死からはすっかりやる気が失せたのだけど……)
ティアナが前の時間軸のことを思い返していると、ジルベルトが厳かに口を開いた。
「ティアナ、何を思って朕に婚約破棄を申し出たのかは知らぬが、あの王太子殿下と婚約を解消することは勧めることが出来ないぞ。あの男は……」
「?」
「………いいや、なんでもない。それよりも、体調の方はどうなのだ?」
濁された言葉の続きが気になったが、ティアナはそれはまた後程尋ねようと思い直し、ジルベルトへの返答に努めることにした。
「だいぶよくなってきました。ご配慮ありがとうございます」
ティアナの畏まった言葉に、今更ながらジルベルトが呟く。
「随分変わったな、ティアナ」
「……そうでしょうか?」
変わったなんて、そんなの当たり前だ。
あれほどに心を折られ、自業自得でたくさんの人を失い、憎しみと後悔と懺悔と苦しみを抱えたまま牢獄に放り込まれて、最期には斬首刑になったのだから。
ジルベルトは小さい声のまま、ぽつりと言った。
「………ティアナ、悪かった」
――その突然の言葉に、ティアナは思わず目を見張る。
(お父様が……私に、謝っている? 突然、どうして……)
「『国王陛下』としての威厳を優先するあまり、実の娘を蔑ろにして、それどころか見下していて……朕は、父親失格だ」
「おとう、さま……?」
「……こんな不甲斐ない父だが、ティアナは許してくれるだろうか?」
真っ直ぐな瞳で自分を見るジルベルトを見て、ティアナはふと思った。
(……そういえば、お父様は前からこんな人だったわね)
利益に執着する一方、ジルベルトは非常に真っ直ぐだった。
『ジルは心根を誰にも見せようとしない、中身は臆病で、でも真っ直ぐな人なの。公平で、王としての役割を最後まで貫く凄い人。
――‘‘国王陛下としては‘‘、とても優秀な人なのよ』
――ふと、母の言葉が脳裏で反芻される。
(国王陛下、‘‘としては‘‘……)
無情にも自分に死刑宣告を下したジルベルト。彼はその時父としての心を、必死に押し殺していたのではないだろうか?
そんな馬鹿げた考えが頭に浮かぶ。
ティアナはそんな自分のあまりにも都合的な妄想を笑って振り払おうとして――それをやめた。
(お父様。……私は、お父様のこと、大好きだったのですよ)
小さい頃の温かい思い出が、微かに蘇る。
振り払おうにも振り払えないその少しの希望に縋るように、ティアナは微笑んだ。
「もちろんですわ、お父様」
では失礼いたします、と言ってジルベルトに頭を下げるや否や、ティアナは書斎を素早く去った。
なんだか少しだけ嬉しくて、少しだけむずがゆくて、ティアナは平民達のような温かい家庭での‘‘家族愛‘‘というものを感じたような気がした。
そんな中、『家族』と思い浮かべて、無性に母に会いたい気分になったティアナだった。
ディアランド王国、その国の王都の中心地に佇む煌びやかな王宮にて。
アレクシス・リオ・フォン・ディアランドは、積み上げられた書類を見て憂鬱げにため息をついていた。
その書類は大方が国務に関する物であり、御年十五歳の王太子にこの量の国務を任せるほど、この国は目まぐるしく経済を回していた。
そんな中、アレクシスはふと、先ほど執事が運んできた手紙を手に取った。
(これは……ティアナからの手紙?)
アレクシスはベルティーユ王国の紋章が描かれた便箋と封筒を見て、自身の婚約者であるティアナからの手紙であると確信した。
(珍しいな、ティアナが手紙を書くなんて)
ティアナは我儘王女だ。ディアランドの王宮に押しかけてきたことはあっても、手紙を送ってきたことは一度もない。前に、字を書くのは手間が非常に面倒くさいとティアナが言っていたことを思い出す。
アレクシスはそんな少しの疑問を抱えたまま、ナイフで封を開いた。
そして一通り手紙に目を通し――思わず、言葉を失う。
「…………は、?」
――そこに書かれてあったのは、アレクシスとティアナの婚約の破棄を要求するものだった。
アレクシスは念の為、もう一度手紙に目を通した。特に、二枚目のティアナからの手紙を、じっくりと、何度も読む。
今までのティアナの様子では考えもつかない美しい筆跡を疑問に思うこともままならず、アレクシスは自身の頭が真っ白になったような感覚を覚えた。
「どう、して……」
せっかく、ティアナと婚約を結ぶ為にここまで頑張ってきたのに。
せっかく、ティアナに好かれる為に優しい自分を演じてきたのに。
ティアナに愛想を尽かされてしまったのだろうか。そんな考えがアレクシスの脳裏を何度もよぎる。アレクシスは思わず、手に持っていた白金色の便箋を強く握りしめた。
くしゃり、と乾いた音が部屋中に響く。
「‘‘もう、会うことはないと思いますが‘‘………?」
ティアナからの手紙の一節を、アレクシスが恐る恐る読み上げる。
手紙には、こう書いてあった。
『もう、会うことはないと思いますが、貴方の幸福を心よりお祈り申し上げております』
この一言が、アレクシスには衝撃的だった。
「違う……僕の幸福は……ティアナが、いないと………」
(それよりも、僕の幸福なんてどうでもいい。ティアナは? ティアナは、僕と婚約を解消することで幸せになれるのか?)
この文面を見る限り、きっとそうなのだろう。
アレクシスは、感情のままに手紙を破いた。そして、もう一度力強く握り締める。
「………こんなの、僕は認めない」
アレクシスはガタンと立ち上がり、身だしなみを整えた後、廊下を飛び出した。そして、ちょうど近くにいた側近のキスアに声を掛ける。
「キスア、今からベルティーユ宮殿に行ってくる」
「あ、はい、分かり――って、は?」
「国務の代理を頼む。なるべく手短に済ませておいてくれ」
「……え? ちょ、殿下? 王太子殿下!?」
その慌てるような言葉も一切気にせず、アレクシスははやる気持ちのままに駆け出した。