第八話
翌日、自室で――大体の生徒達は共同で使用される食堂で食事を摂るが、一定以上の地位を持つ貴族や王族には直接部屋に運ばれてくる――朝食を食べ終え、教室に向かう為に廊下を歩いていると、ティアナはふと、違和感を感じた。
――なにかがおかしい。
教室に向かっている生徒達はいつもと変わりない姿で、それでもティアナは、この違和感を拭えなかった。そしてその正体を、ティアナは薄紫の瞳を通して知った。
メイベル・コームとその取り巻き達が、昨日の仲違いなど微塵も考えられないような様子で、廊下の中央を歩いていた。
それも、取り巻きの男たちは、明らかに恋慕が見え隠れする瞳をメイベルに向けておだてるような笑みを浮かべている。
(――どうして)
ティアナからすれば助かったとも言える状況だが、だからと言ってこれを見逃すわけにはいかなかった。
(いくらなんでも不気味すぎるわ。……一体、どうして急に仲良くなったのかしら。これではまるで――彼女に好意を向けるように操られているみたいじゃないの)
「っ!」
操る? 一体誰が?
この場において一番怪しいのはもちろんメイベルだ。
しかし果たして、何の力も持たない男爵令嬢にそんなことができるのだろうか。彼らを操っているのはメイベルかもしれないが、メイベル自身を操っている人間がまた別にいるのかもしれない。
ティアナはそんな考えを一旦振り払い、『操る』という言葉が正しかった場合の仮定を組み上げる。
人をあんな風に操るのは話術では不可能だろう。それ以外に考えられるものと言えば、様々な力が秘められているという疑惑のある神聖力か、科学が徐々に発達してきた世において開発の余地が残されている薬剤ではなかろうか。
しかし神聖力であれば例の靄が視えるはずだ。そうなると薬を使ってメイベルが彼らを操っていると考えられる。でも、どうやって?
当たり前だが彼らは高貴な血筋を引く王族貴族だ。中身はどうしようもない馬鹿でも周りは厳重に固められている。毒見の者だっているはずだ。そんな簡単に薬を盛れる訳がない。ましてや軋轢が生まれていた状態でメイベルが彼らを垂らし込むのには無理がある。
そこでティアナはふと、毒見、という言葉に引っ掛かった。
毒――つまり害のある薬を盛るとすれば一番単純なのは食事に混入させることだ。ここで重要なのは、どうやって彼らの食事にピンポイントで薬を入れるのか、なのだが……
(もし――もし『ピンポイント』である必要がなかったら?)
そう考えれば、食堂のシェフを懐柔でもして厨房に入り、朝早くからつくられていたであろう、どのメニューにも含まれている野菜のスープにこっそり薬を入れたという方法もあり得る。全体的に行き渡るようにするためにどんな工夫を凝らしたのかは分からないが、透明な粉状の薬をたっぷり入れ、その後シェフによってしっかりと混ぜられたのであれば可能かもしれない。そしてそれは汲み上げられ、生徒達に食べられる。平等を掲げたこの学園では食事メニューの一覧は皆同じだったはずだ。
メイベルが盛った薬が「自分に対する評価を操る」もしくは「自分に対して好意を持たせる」等のものであった場合、毒見役がいたとしてもその場にメイベルがいなければ体に何も変化はないだろう。そしてこの国は勢力争いが少なく、メイベル達のいざこざを除けば平和なので暗殺なども殆どなかったではないだろうか。温室育ちの子息達は自分達が精神系の薬を盛られるなど思いもしないだろう。周りもしかりだ。
そして基本的に貴族間での共通の概念として、朝食は健康の為にも必須だ。女性用にはカロリーが控えめな食事が用意されているので、食事抜きで授業に赴く生徒はまずいないだろう。
牢獄の中で、エリーザはこんなことを言っていた。
『社交界から見放されたあの舞踏会の時……あの女を憎んでいた人達が手のひらを返して私を侮蔑し罵倒する目を向けたんです。今考えれば、流石に一人くらいは反論してくれてもよかったのではと思ったのですが、私って本当は、自分が思っていた以上によく思われていなかったのかもしれませんわね』
少し寂しそうに微笑んだ彼女を本当の意味で慕う子息令嬢が多いことは、数日学園にいて十分伝わってきた。それなのに、全員から見放されただなんてあり得ない話だ。
あの舞踏会は学園主催だった。食事をつくったのはもちろん、学園お抱えのシェフだろう。全員が食べたとは限らない。でも、もし、全員が食事をするようなきっかけがあったら。そうでなくとも、開催される前の食事に薬が盛られていたとしたら。
それは、即ち。
「メイベル・コームは――この学園にいる者達全員を、操ろうと画作していた……?」
メイベルは最初から、この強烈なまでの切り札を手にしていたのだ。使うべき時に使う為に。
嘘であってほしい。そうでないと、事態はもっと複雑になってしまう。そんな思いに駆られながら、ティアナは近くで歩いていた三人の女生徒に駆け寄り、声を掛けた。
「ねえ、貴女達、少しいいかしら?」
「? はい、構いませんが、どうされましたか?」
「メイベルさんのことなんだけど――」
「ああ、メイベル様のことですか! 本当にあのお方は素晴らしいですわよね!」
ティアナは思わず絶句した。彼女の「嘘でありますように」という願いは、いとも容易く砕かれる。
三人は一様に瞳を輝かせ、彼女らにとって当然の認識であるかのように『メイベル様』について語り始めた。
「今日も見目麗しい方々に囲まれて、羨ましい限りですわ」
「でも嫉妬など微塵もわきませんわ。だってメイベル様はああなるに相応しいお方ですもの!」
ティアナは早くこの会話を切り上げたくて、辛うじて声を絞り出した。
「え、ええ、そうね。彼女は素晴らしいご令嬢だと思うわ。――ところで、今日の朝、みなさんは野菜のスープは食べたかしら?」
「野菜のスープ、ですか?」
すると三人はさっきとは一転した、驚いたような顔を見せる。
「実はさっきまで、私達もそのスープについて話をしていたんです」
「どうして?」
「だってあのスープ、とっても美味しかったんですもの」
「――え、?」
「いつもなら――わたし、菠薐草が苦手なので――微妙な味だと思っていたのですけど、今日のは格別に美味でしたわ。野菜が入っていないのかと疑ったくらい」
「蕩けるように甘くて、思わず体を持っていかれそうになりましたわ。先ほどシェフに尋ねたところ、いつも通りにつくったのだそうです。どんな隠し味を入れたのか、非常に気になりますわね」
「王女様も、そう思われたのでしょう?」
「――」
ティアナはそんなことを一切感じなかった。スープは普通に美味しかったが、それ以上に何か思うことはなかった。しかしティアナの分だけ薬を抜くなんて無理にも程があるし、そもそもティアナから好意を得ることができた方がメイベルとしては都合がいいだろう。
(神聖力のお陰――かしら)
恐らくそうなのだろう。となると、フローラも無事かもしれない。
ますますこの力についての効力が示されたが、今はそんなことを考える暇はなかった。そして――何故前のようにティアナの神聖力が薬を無効化しなかったのかという、そんな疑問はもちろん、一度として頭の隅に残ることすらなかった。
三人にお礼を言って、ティアナはフローラに薬が効いていないかの確認の為にも教室に向かう。
メイベルが策士なのか、それとも裏で操っている者がいるのか。どちらにせよ厄介だ。
これで報復がかなり難しくなった。また一から策を練らなければならない。
そう思っていると、後ろから声を掛けられた。
「王女様、教室までお供いたしますわ」
「――エリーザ、さん」
そうだ、エリーザは? 彼女は大丈夫なのだろうか。
ティアナは振り返った。そこにはいつも通りのエリーザが立っていた。
恐る恐る、声を掛ける。
「エリーザさん、メイベルさんに関して、どう思っているの?」
「? 何故、そのようなことをお聞きになるのですか?」
(――そうよね。エリーザが、こんな洗脳に呑まれる訳が、)
「寛大でお優しいお方ですよ。メイベル様は」
「――っ」
どうして。
そんな疑問を投げかけることすら、ティアナにはできなかった。
「もしや、メイベル様と殿下が懇意にされていらっしゃることを気にして下さったのですか?」
「……ええ」
場を保たせるために頷く。
すると、エリーザは静かに微笑んだ。
「――殿下があの方の虜になってしまうのは、仕方のないことなのです。お気遣いいただき、ありがとうございます」
その時、ティアナは思わず、息を呑んだ。
笑顔でそう語るエリーザは、軋轢に潰されてしまいそうな表情をしていた。
彼女は、心の中で薬の効力と葛藤しているのだろうか。それとも、好意を操られているからこそ前以上に苦しんでいるのだろうか。
そういえば、と、ティアナは思う。
――どうして、なのだろうか。
どうして前の時間軸の、回帰前のあの時、エリーザには薬が効かなかったのだろうか。
(それは、恐らく)
わざと薬を混ぜなかったのだ。どうやったのかは定かではない。仮定だらけの仮説だから、もしかしたら最初から最後まで誤りかもしれない。
しかしティアナには、報復を願い自ら断罪する少女には、容易に想像がついてしまった。
彼女がどうすれば絶望する顔を見せてくれるのか。最も傷つく方法は、一体何なのか。断罪の場において自分に好意を抱かせるのは逆効果で、「あのお方が愛しの人と結ばれるのであれば仕方がない」と思わせるのはあまりに生ぬるいとでも、あの女は考えたのだろうか。
エリーザは何も悪くないのに。
メイベルに対する怒りが炎のように広がっていく。赦さない。赦さない赦さない赦さない赦さない赦さないゆるさないゆるさないゆるさない絶対に殺してやる――。
――それを一気に鎮火させたのは、ふとティアナの頭をよぎった最悪の考えだった。
(じゃあ……アレクシス様は?)
――アレクシスは、神聖力を持っていない。薬の効果を食らっている可能性は十分にある。
メイベルに好意を抱いているアレクシスなんて、ティアナには想像がつかなかった。
でも。
もし、アレクシスがメイベルに惚れていて、自分から離れて行ってしまったら――?
息ができない。教材を持つ手が細かく震えた。
嫌だ。そんなの、絶対に嫌。
今までティアナから距離を取っていたのに離れてほしくないなど、酷く自分勝手であることは分かっている。
(でも、そんなの――耐えられない)
教室に着いた。後は扉を開けるだけだ。後ろでエリーザが「どうかされましたか?」と心配そうな声色で尋ねる。これを開けた先に答えがあるのだ。震える手を伸ばし、取っ手を掴んで――
――しかしティアナは何も言わずに、気が付けばくるりと踵を返して駆け出していた。




