第二話
ジルベルトは驚きのあまり持っていた杯を落とし、ロザーリオはぽかんと口を開けたまま動かなくなり、アレクシスといえば顔を真っ青にしてグラスを片手で握りつぶしていた。そしてカロリーヌはなぜか微笑ましげな顔をし、フローラはきゃーと頬を赤らめている。
予想していた反応とがあまりにも違くて、ティアナも再び呆然としてしまった。
(ま、まあ、お父様の反応はまだ分かるわ。私の想い人が誰かによって、この国が変わる可能性だってあるのだし……、それに、アレクシス様も何故か私に多少の興味を持たれているらしいからまだ分か……いやでも、グラスを割るのはやり過ぎではないかしら……?)
もっと素っ気ない反応を期待していたのに、ここまでオーバーな反応をされては逆に困る。これで大ごとになっては大変だし、そもそもティアナに好きな人はいない。あれは口からの出まかせだ。まあ、一人だけ思いつく人がいるが……。
「ティアナ、それは……誰のことだ?」
「……」
尋ねてきたロザーリオの言葉を突っぱねるように、ティアナは顔を逸らす。
(もし、この場で名前を出したら……シエルは怒るかしら)
ティアナがシエルと関係を持っていることを知られるのは、あまり好ましいものではない。シエルだってそう思っていることだろう。
失敗だった。もっと慎重に考えて、慎重に口に出すべきだったのだ。
「……教えられません」
「しかしそれだと、許可はできないぞ」
「はい……なので、同伴者は王太子殿下とフローラで構いません」
「……そうか」
少しだけ納得のいかないような様子でジルベルトが頷く。ロザーリオやフローラもティアナの想い人が気になっているようだった。
――一方、ティアナは激しい焦燥感に駆られていた。
エイミーがああなってしまった手前、このままでは不味いことが分かり切っているのに――なんの策も思いつきやしない。
(こんなことになるのなら、お父様と二人きりで話せばよかった)
そんな後悔の念に苛まれながら、ティアナは目を伏せた。
(…………こう、かい?)
――後悔する資格なんて自分にはないと、ティアナは気づいた。
――――ティアナは、本当はもう、知っていたのだ。
自分が幾ら無視しようが、相手を虚仮に扱おうが、どんな我儘を吐こうが、今ここにいる彼らは自分にしがみついてくれるのだろう、と。
知っているし、分かっている。
自分を処刑した父も、見捨てられたと思った婚約者でさえ、本当はちゃんとティアナを想ってくれていたのだと。
(――これでは、前と同じだわ)
大切な人達から優しさと愛を一身に受け、しかしそれを突き放す。
変わらない。今と前で、ティアナはまったく成長していなかった。
でも、だからこそ。
だからこそ、避けていたのに。
(優しさなんて、愛なんて、欲しくなかった)
「ティアナ」
アレクシスの声に、ハッと顔を上げる。
気が付けば、皆が食事を終えて席を後にしていた。食卓の上の銀食器は全て片付けられ、使用人の姿ももう見えない。
だからその場には、いつの間にか隣に立っていたアレクシスと、考え事に気を取られて座り込んでいたティアナしかいなかった。
「――王太子殿下」
「……もう、アレクシスとは呼んでくれないのかな?」
「……」
微かな沈黙が二人の間を漂う。
ティアナは小さく俯き、無意識に自身の服の裾をぎゅっと握った。
本当はもっと話がしたい。昔の話で仲良く笑い合ったり、庭園をまわって一緒に散歩したり、下町に降りてみたりして、アレクシスが考える今後の政治についてだって聞いてみたい。
そして、そして――――
(―――好きって、言いたい)
処刑されてその生涯を終えるまでに、ティアナはアレクシスにその心の内を一度たりとも言えなかった。
「好きです」も、「愛しています」も、「お慕い申し上げております」でさえも、一言も。
でも、彼の幸せのために、その気持ちは抑え込まなければいけない。
そう決めたではないかと、ティアナは想いをぐっと堪えた。
「ティアナ」
「……なんでしょうか」
「好きな人が、いるの?」
ティアナは思わず、体を硬直させた。
「…………い、いません」
「本当に?」
「……はい」
アレクシスは暫くティアナのことを見つめていたが、少し経つと小さく呟いた。
「……そう」
アレクシスはその言葉を最後に扉の方へと歩き出した。
そして、扉に手をかけたところで立ち止まり、ティアナの方を振り向く。
「次は、間違えてもそんなこと言っちゃ駄目だよ?」
肌が粟立つ。思わずティアナは、ピクリと体を震わせた。
パタン、と扉が閉まる音が聞こえ、ティアナはやっと裾を握るのをやめる。手が細かに震えていた。
(……変わられたわね)
前はこんな風ではなかった。ただただ優しくて、こんな私にも大事なものを扱うように接してくれるような人だった。
一時、もしかしたら彼は自分のことが好きなのかもしれない、という馬鹿みたいな淡い期待を抱いていたことはあった。
でも、彼は他の人にも優しかった。同じように接していた。そして――そんなふうに接された令嬢達は、必ず彼に恋をした。そして、自分を妬んだ。
だから、あの仕草に恋愛感情は含まれていないはずだった。ただの善意で、それとも何かの算段で、優しくしてくれているだけだと思っていた。
もしかしたら、自分を妬んだ令嬢達が、丸ごと聖女の大きな力になっていたことも全部、彼が仕組んだことなのかもしれないとも考えたくらいだ。
でも今は、彼が何をしたいのかがまるで分からない。
優しくないけれど、甘い言葉はちゃんと囁いてくれる。
今までの温かい面持ちは消えてしまったけれど、狂気と殺意とその他の何かが覗く、冷徹な言葉と表情が垣間見える。
――――自分が、彼の何かを変えてしまったのだろうか。
そう思うと、申し訳なさで頭がいっぱいになった。
(でも、大丈夫です、アレクシス様)
貴方のことは、私が幸せにしてみせるから。
「…………幸せ、ね」
一度、考えてみたことがある。
復讐なんてしないで、みんなの愛に素直に答えられたら、きっと自分は幸せになれたのではないか、と。
「――――そんなの、愚問でしかないわ」
◇ ◇ ◇
「キスア」
ディアランドの王宮に帰省して真っ先にキスアを呼んだアレクシスは、少しばかり焦燥した様子で言った。
「ティアナに少しでも近づいた男を今一度洗い直せ。これは命令だ」
「……ここ一年近く国務を俺に預けていた癖に、褒め言葉どころか更に命令を重ねるんですか?」
「それに関しては悪かった。だが、今回の命令は国務より重要だ」
「えぇ……殿下とベルティーユの姫さんの痴話騒ぎの方が、国務より大事なんて、そんな……」
「何を言っているんだ、そんなの当たり前だろう?」
さも当然かのように不思議そうにするアレクシスを見て、キスアはため息をついた。
「で、洗い直したらどうすればいいんすか?」
「片っ端から全員殺せ」
その即答と共に、キスアはゴンッと壁に頭をぶつけた。
「……はーあ、もう嫌だ、側近やめたい」
その様子にアレクシスが呆れる。
「お前、暗殺者なんだから、そのくらい慣れているだろう?」
「暗殺者といっても色々種類があるんですよ、殿下。それと俺は元ですよ、元」
「例え殺人が不得意だとしても、情報収集ならベルティーユの影よりもよっぽど速いんだから、別にいいじゃないか」
「残念ながら同期にもっと速い奴がいましたよ。ほら、殿下が名前を与えてやってた孤児です」
「……ああ、あの子か」
キスアがため息をついた。
「あいつ、何に関しても完璧で、情報を集めるのも馬鹿速いんすよ。同期だからって、いつも比べられて本当に俺大変で――って、聞いてますか?」
「聞いてない」
「酷っ! …………ちなみにそれ、なんですか? なんだか嫌な予感がするんですけど……」
「ダライア王国にある学園の制服だ」
「え、それまたなんで」
「留学するんだ」
「……はっ?」
「国務、続けて頼んだぞ」
「え、嘘」
「嘘じゃない」
キスアがアレクシスにまるで鬼を見るかのような目を向ける。
しかし、これもある意味日常茶飯事だ。きっと留学の件もベルティーユの姫が関わっているのだろう、とキスアは思い、そして抗議を諦めた。言っても無駄だからだ。
だからその代わりに、アレクシスに尋ねる。
「陛下に許可は取らないんすか?」
「……陛下が僕に無関心なこと、知ってるだろ?」
一瞬の沈黙ののち、キスアは小さく呟いた。
「…………ああ、そうでしたね」
※ここで指す国務は事務作業のことです。代理で済むようなもので、本人がやらなければならないような重要な仕事はベルティーユの王宮に届けられていました。




