第零話 エリーザ・ヴァーネイドの一回目
「エリーザ・ヴァーネイド! 貴様との婚約はこの場をもって破棄する!!」
いつも通りエスコートすらしてもらえなかった学園主催の舞踏会で、愛する婚約者が私を冷酷な双眸で見下した。
彼の隣では平民出身の男爵令嬢であるメイベル嬢が、その豊満な胸を押し付けて涙を溜めた瞳で怯えたように体を震わせていた。
――しかし、王太子殿下の婚約者であり、侯爵令嬢でもあるこの私がワインまみれで床に這いつくばっている時点で屈辱なのに、婚約破棄とはどういうことだろうか? と、この時はまだ、私は現実を受け止めきれていなかった。
「で、殿下! これは、もしや新しい類の遊戯でしょうか? それとも、何かの間違い――」
「何を馬鹿なことほざいているんだ! 貴様の罪、牢獄でしっかり償ってもらうからな!」
「――――は?」
何度も結婚やその先を夢見た相手に告げられたのは、『牢獄』という、あまりにも非現実的な言葉で。
私はそのまま動けずに、呆然と彼を見上げていた。
「私の愛しのベルに、散々酷いことをしたそうじゃないか! 挙句の果てに、ベルを殺そうとして!!」
「ッ!? ち、違います、殿下、それは誤解――!」
私は、メイベル嬢を殺そうとしてなんかいない。メイベル嬢が紅茶を飲んで倒れたという噂は耳にしたけれど、それに一切関与はしていなかった。
確かに、多少のいびりをしたことはある。
でもそれは、本人の体を大きく傷つけるような範囲に入るものではなく、陰で悪口を言ったりだとか、わざとぶつかったりだとか、そういう些細な類のものだった。
メイベル嬢が嫌い、若しくは苦手なのは、ダライア王国の貴族の子女達が通う聖アマーリア学園の女生徒共通で、彼女をいびることに異議を唱える方は一人もいなかった。寧ろ、退学させた方がいいのではないかと言う人の方が多かったくらいだ。
それも当然の反応で、メイベル嬢は平民出身であるのにも関わらず婚約者がいる子息の方々を誑かして、何より殿下の寵姫になろうと取り入っていた。
でもまさか、王妃の座を狙っているとは――そんな馬鹿なことを企んでいるとは、私でも思わなかったのだ。
「誤解だと!? 誤解なわけがないだろう!! 貴様があの紅茶に毒を入れたという証拠は、全て揃っているのだぞ!!」
メイベル嬢を悪く思っていた令嬢達も、遠巻きに見るだけで私に手を差し伸べてはくれない。むしろ嘲笑ってすらいた。
幼馴染で入学当時まで仲の良かったアルも、常に私に優しく接してくれたお兄様も、メイベル様の虜となって、私の罪を信じ切って私を冷たく見下ろしている。
私は絶望して、立ち上がる気も失せたまま、ぽつりとつぶやいた。
「そ、んな…………」
私を非難する、今まで味方だった令嬢達と、アルと、お兄様の視線が痛い。メイベル嬢の嘘泣きに隠れた勝ち誇ったような笑みが怒りを誘う。
――でもなにより、幼い頃は優しく微笑んでくれたのに、今は憎悪の瞳で私を睨みつける殿下の視線が辛かった。
殿下と結婚する為に、辛い王妃教育も、嫉妬と憎しみの視線も、自由の規制も何もかも全て耐えたのに。
友達すら自分で選べなくて、日々の苦痛を話すことが出来る人すらいなくて、孤独で孤独で死にそうになって、社交界が息苦しくなっても、殿下がいたから、全てを堪えられた。
それなのに。
―――それからは記憶がどうも朧げで、どうやら他国の監獄に連れてこられたのだということだけは分かった。
他国というのはダライア王国とは比べものにならない程の大国であるベルティーユ王国で、顔すら見たくもないと私を嫌悪した殿下達が決めた処遇であり、それを聞いた時は思わず笑ってしまった。
あの人を愛したのが間違いだった。さっさと婚約を破棄していれば、自分を愛してくれる人を見つけていれば、こんなことにはならなかったのに。
監獄の中はとても不潔で、私は性に飢えた男ばかりの檻の中に入れられた。囚人達は私を思いのままに犯し、殴り、辱め、挙げ句の果てには看守にでさえも同じことをやられた。私が泣き叫んでも、正気を失っても、毎日毎日避妊薬を飲まされ、それが止むことはなかった。
初めては殿下と、と夢見ていたことが馬鹿らしくなるくらいに処女は簡単に奪われた。私の自慢だった髪は邪魔だと言われて切られ、陶器のようだとメイドや友人に褒められた白い肌は穢れていった。
週に一度、死後無事神のお元へゆく為に、囚人に読み書きやなどの勉強をさせるようなことがあるのだけれど、その時だけは、私は誰にも犯されることも殴られることもなかった。
そう、その時だけが、私にとって唯一の救いだった。
そんなことが続いて数年が経ったある日、同じ檻の中に新しい女の死刑囚が入ってきた。彼女は白金の髪に薄紫の瞳をした、可憐で美しい少女だった。彼女は殿下達を篭絡したあのメイベル嬢とは比べ物にならないくらいの、人形のように美しい人で、薄汚い囚人服が驚くほどに不釣り合いだった。
彼女は監獄特有の悪臭に鼻をつまみながら檻に入ってきて、私を見た瞬間に頬を綻ばせた。
「あら、女の方もいらっしゃったのね!」
どうやら男ばかりの監獄に入ってきて不安だったらしい。彼女は私の元へ駆け寄り、にっこりと微笑んだ。
「これから宜しくね、お名前は?」
「――――エリーザ、です」
「そう、エリーザと言うのね! ところで貴女、どこかの貴族なのかしら?」
「………元、侯爵令嬢ですが」
「まあ! それなら王女であるこの私が話すに相応しい方ね!」
「……王女?」
「ええ! 私はこの王国の第一王女、ティアナ・アルテネ・フォン・ベルティーユよ」
私は呆然と胸を張る彼女を見つめた。
大国の王女が死刑囚だなんて、この人は一体、どんな罪を犯したのだろうか。
新しい女の、しかも私よりも遥かに見目麗しい死刑囚に興奮した囚人達や看守が近づく中、彼女は彼らに向かって声を張り上げた。
「卑しい身分で私に近づかないで頂戴!!」
囚人たちやその言葉を聞いた看守が、不快げに眉を顰める。
まずい、この人たちの機嫌を損ねたら―――!
慌てて彼女を黙らせようとしたけれど、次に彼女が言ったのは思わぬ宣言だった。
「もし、貴方達が私に触れることも話しかけることもしなければ、私がここを出ることができた暁には、一緒にここから出してあげるわ。もちろん、生活費も住む場所も全て保障することを約束して差し上げるわ! そこの看守も同じよ。希望があればいい職にも就かせてあげる!」
その言葉に、その場にいた男たちが目の色を変える。
彼女は更に続けた。
「もちろん、侯爵令嬢であるエリーザに関与するのもやめて頂戴! そんなの、貴族に対する酷い冒涜だわ」
―――『貴族に対する』という言葉で、私の頭は一気に冷えた。
この王女は、私が貴族だから私に優しく接しているんだ。
「どうかしら? お互い損のない取引でしょう?」
――その取引は無事成立したらしく、その日私は一度も男達に触れられることはなかった。
隅で座り込んでいると、案の定彼女が近づいてくる。
「暇だから、話し相手でもしてくださらない?」
「……あの、ふざけてるんですか?」
「え?」
思わず言ってしまった言葉は、とどまることを知らなかった。
「酷い罪を犯した死刑囚の癖に、ここに来ても傲慢に貴族を重んじて、私が今まで受けてきたことを冒涜だなんて言って。
『私がここを出ることができた暁には』? そんなこと、叶うわけがないでしょう!? 私達は一生ここを出ることができない。殿下に罪を犯したと誤解され、あの女には馬鹿にされたまま、無様に死にゆくのよ……っ」
涙がぽろぽろと零れていった。溢れて、溢れて、口元からは憎悪と嫉妬の言葉が吐かれる。
気が付けば、隣でそれを聞いていた彼女は、私の背をさすっていた。傲慢な王女だから、薄汚い私の背を撫でることさえ嫌悪を感じると思ったのに。
「辛かったのね……」
そんな同情の言葉にいらついて、声を荒げる。
「呑気に生きてきた王女様なんかに、この気持ちが分かるはずがないでしょう!!」
そう言ってハッとした。彼女は死刑囚なのだから、なんらかの大きな罪を犯しているのだ。呑気に生きてきた、とは思えない。
「あの、その……」
「――――それじゃあ、次は私の話をしましょうか」
私の声を遮って、彼女は静かに語り出した。
これまでの自分の愚行と、大切な周りの人達のことを。
最期まで自分に優しくしてくれたメイドのこと、自分を庇って死んだ兄のこと、家族想いだった妹のこと、病弱で優しかった母のこと、愛する婚約者のこと、――そして、いつか迎えに来てくれると言った、帝国のある皇子のことを。
「ふふっ、この取引のことも、そのお方に助言されたのよ。『絶対に迎えに来る』とおっしゃられて――とても嬉しかったわ」
「エリーザのこともよく分かるわ。私も、あの人のことが忘れられない。いつか助けに来てくれるんじゃないかって、そう心の隅で思っていたりするの。
――でも、無駄なのよ。きっと、あの人は助けに来ない。だから、やっぱり私が信用できるのは、あのお方だけ」
そう言う彼女からは、先ほどまでの自分勝手な印象は、既に消え失せていた。
それからは、檻の中では常に彼女――ティアナと共に時を過ごしていた。
ティアナは世間知らずで、尚且つ我儘で、いかにもな高貴な貴族の典型的なタイプだった。
それなのに、何故だか憎めなくて、元貴族だからという理由で私に接してきたことが嘘のように私達は仲良くなった。少なくとも、私には仲良くなったように見えた。
次期王妃という茨に囚われて、友人という友人ができなかった私にとって、ティアナは初めてできた、大切な友達だった。
そう、ティアナは友達で、
唯一の親友だった。
ティアナがここに来て一年も経たずに、『処刑の日』が訪れた。
遥か昔の聖女が定めた、年に一回だけ人を一人処刑してもいい日のことだ。
そして、今年の処刑には――何故か、一番監獄にいた時間が短いティアナが選ばれた。
どうやら、貴族達の間で彼女を早く処刑しろという声が多く上がっているらしく、彼女の処刑が予定よりも大幅に早まったらしい。
「しえる、しえる……、はやく、むかえにきて……っ」
体を丸めて、何度も何度も誰かの名前を呼ぶティアナの姿が痛ましくて、そんな彼女を救えない自分に悔しくて、私はかつてと同じように彼女の背を撫でながら、必死に打開策を考えていた。
『シエル』というお方がティアナを迎えに来るまで、どうにか時間を稼がなければ――
「――そうだ」
そうだ、私が死刑になれば、ティアナの処刑は来年に延ばされるのでは――?
それを思い付いたのは、処刑当日の早朝のことだった。――否、正確に言うと、”決心がついたのは”だ。
死ぬことが、怖かった。まだ生きていたかった。
どれだけ犯されようと、心を壊されようと、まだ私は生きたかった。
でも、それ以上に、ティアナに生きていてほしかった。幸せになってほしかった。
私の髪は黒色だけど、身長はティアナと同じ位だから、煤けた長い金髪のウイッグを被って下を向いていればなんとかなる。
だから私は早速、看守に処刑の前に私を気のすむまで犯すことと引き換えに金髪のウイッグを要求をした。看守はだいぶ性欲が溜まっていたらしく、二つ返事で了承してくれた。
看守がウイッグを買いに行っている間、私はティアナが起きないようにするように他の囚人達に言った。これもまた、体と引き換えだ。
看守が帰ってきて、私は別室に移され、十二時の処刑の刻まで心を無にして犯された。
これも全て、ティアナの為だ。
縄で両手を縛られ、私は断頭台に首を固定された。あとは刃が落ちて、私が死ぬだけだ。
私をティアナではないと疑う者は一人としていなかった。それくらい、周りの者達は”ティアナ”ではなく”誰か”の死に興味があるのだと分かる。
「―――最ッ低」
そう呟くも、その声は誰の耳にも届くことはない。
国王も、貴族も、平民も、誰もかれもが、ティアナを見ていない。
彼らは単に、人の死に群がっているだけだ。
こんな世界で、誰かを愛すなんて――本当に、私が馬鹿だった。
殿下のことも、メイベル嬢のことも、幼馴染みもお兄様も、今は全てもうどうでもよかった。
一縷の望みをかけた家族も、ついに助けにくることも手紙をよこすこともなかった。だから、もう、いい。
心残りがあるとすれば、それは、唯一の親友のことで。
「――ごめんなさい、ティアナ」
私の――正確にはティアナの処刑に対する、民衆の拍手喝采が巻き起こる中、私は死を覚悟して――そして、ふと、目を見開いた。
私の視線の先には、檻の中で寝ていたはずのティアナがいた。
「どう、して……」
騎士達の槍に行く手を阻まれたティアナは、私に向かって叫んでいた。
「エリーザ、エリーザぁああああ!!」
涙を零して、髪を振り乱して、必死に私の名を叫んでいた。
その様子に周囲がざわつく。慌てて騎士達が私の首を断頭台から外そうとするものの、もう刃は私の首に向かって動き始めていた。
私は、本能的に死を悟って、せめて最期にと、唇を動かした。
「大好き」
―――――その瞬間、ぐるりと視界が回り、私の意識は底へ底へと落ちていった。
「いや、いやぁあああああああああああああああああああああああああ!!」




