幕間 平民メイドの忘れられた過去
エイミー・ララは、小さい頃に母に捨てられ、田舎の孤児院で育った孤児だった。
そんな彼女は内気な性格のまま育ち、孤児院で働く殆どの修道女達には存在すら忘れられているような子どもだった。
しかし、そんな彼女にも二人だけ、心を許せる人がいた。
それが、あの人――フェリシア・ララという若い見習い修道女と、同じ孤児院で彼女より一つ年上のジェネットだった。
フェリシアは高貴な方に仕えていた元メイドで、「死に別れた妹によく似ている」と言って彼女を大層可愛がってくれていた。
彼女も彼女でフェリシアによく懐いており、「シアお姉さま」と呼びながらよくフェリシアの後ろをトコトコと付いていっていた。
一方ジェネットは天真爛漫な性格をしていて、孤児院でも男女の中心にいるような子どもだった。彼女と一緒にいる時間が一番長かったものの、コミュニケーション能力が高く、優しくも気難しい修道女にも好まれるような性格をしていた。
そんな二人と過ごす時間は、彼女にとって至福であった。
親に捨てられた孤児とはいえ、彼女の日々は充実していた。――あの時までは。
程良い空気に包まれた、のどかでどこか安らぎを感じさせる陽が空を昇っていたある日のこと。
フェリシアが、修道院に戻ることに決まった。
彼女はそれを知って、声を枯らして泣いた。ジェネットは相当なショックを受けたのか、部屋に引き籠ってしまった。
――しかし、彼女には好機が訪れた。
フェリシアは彼女のことを本当の妹のように可愛がっていた。だから、「私と一緒に暮らさない?」と彼女に声を掛けた。
彼女は喜んだ。フェリシアと、シアお姉さまと一緒に暮らせる。だから、一つ返事で快諾した。
――そうして孤児院を出た二人が手を繋いで向かった先は、修道院の近くにあるフェリシアの実家だった。
「この人達が、エイミーの新しい家族よ」
――二人の仲睦まじい夫婦の前でそう言って微笑むフェリシアの顔からは、罪悪感など微塵もなかった。だから彼女は笑った。「こんにちは」と言って二人に頭を下げた。二人はにっこりと微笑み返してくれた。
彼女には分かっていた。この女性が――自分を捨てた、本当の母であることを。
『アンタなんて、生きてこなければよかったのに』
自分をボロ布一つで路地に置き去りにした、母の忌々しそうなあの顔。
そっくりだった。こんなにも慈愛に満ち溢れるような表情をしているのにも関わらず。
彼女はそれから、自分の顔さえ憶えていない母と、自分と血が繋がっているのかが怪しい父と、何も知らずに死んだと思っている妹に自分を重ねているフェリシアと時を過ごすことになった。
地獄だった。上辺だけの笑顔と喜びを取り繕うことがこんなにも難しいだなんて、彼女は知らなかった。
昔の、孤児院にいた頃に戻りたかった。そうして彼女は次第に、ジェネットは今頃どうしているのだろうか、と思うようになった。
そんな時だった。
―――――――ジェネットが、フェリシアを殺した。
突然家に押し掛けてきて、ナイフで心臓を刺して、殺した。
彼女は血が滴るナイフを手に握っているジェネットのことを泣き叫びながら責めた。どうして、こんなことをしたのかと。
すると、ジェネットはにっこりといつも通りの笑顔を浮かべてこう答えた。
「これもぜーんぶ、エイミーが悪いのよ。私を差し置いてフェリシアに媚売って、アンナの子どもになったんだから」
「私の、せい……?」
「そうよ、あの時にエイミーが死んでいれば、私があの人の子になったのに―――」
ジェネットが言う‘‘あの人‘‘とは、アンナ――フェリシアの母親であり、彼女の母でもある女のことだった。
実は、ジェネットは元は貴族の娘であり、アンナはジェネットの専属メイドだったのだ。
ジェネットはアンナのことが大好きだった。幼い頃からアンナによく懐き、血の繋がった家族と縁を切って駆け落ち同然で結婚した両親が交通事故で死ぬまで、二人はいつも一緒だった。
そして何より重要なのは――ジェネットが、アンナに‘‘恋慕‘‘という決して叶えられることのない感情を苛烈なまでに抱いていたことだった。
しかし、彼女がそんなことを知るわけもなく。
フェリシアの冷たくなった体を抱え、泣きながら「シアお姉さま、お姉さま……っ」とその肩を揺さぶる彼女は、その時確かな殺意をジェネットに向けていた。
だが、ジェネットは笑ったままだ。笑ったまま、娘が死んで呆然としているアンナの夫も同じく刺し殺した。
その行いにはなんの躊躇いもなかった。アンナが買い出しで不在であることが災いして、ジェネットは二人を殺した後、治安隊に捕まることもなく意気揚々と帰って行った。――最後に、こんな言葉を添えて。
「エイミーのことは、もう少し後で殺してあげるから。楽しみにしていてね?」
ジェネットの、憎しみに溢れた笑顔。――それを見た瞬間、彼女の心はいとも容易く壊れた。
アンナが帰ってきて、切羽詰まる表情で自分に迫った時も、彼女はぼんやりとどこか宙を見つめていた。
――ただ、彼女はこう、小さく呟いた。
「私のことは、捨てたくせに」
――それから、彼女は自身の頭から無意識に無理矢理記憶を消した。
都合のいいように記憶を書き換えて、孤児院のことも、ジェネットのことも、綺麗さっぱり忘れた。
アンナのことを「母さん」と呼び、フェリシアのことを「あの人」と呼び、親子共にメイドとして主人に仕えた人として尊敬した。
しかし、彼女の全てを忘れたその無邪気な笑顔を見ているのが辛かったのか、それとも昔憎しみを持って捨てた実子と二人きりという事実に耐えきれなかったのか、アンナはいつの間にか彼女の前から姿を消していた。
――彼女は、それを「母さんはメイドをやめたんだ」という体で受け取った。
彼女が何故そう思ったのか、その理由は誰も分からない。
ただ、フェリシアを心から慕っていたことと、フェリシアを奪う原因になったアンナのことを心から恨んでいたことだけは確かだった。
好き好き好き好き死ね好き好き好き好き殺したい好き好き好き好き死ね好き好き好き好き大好きっ!!!
混濁した記憶の中で、彼女が実母であるアンナに感じていた感情はこんな形をしていた。
一方的にアンナを愛し、フェリシアのことを殺したのはジェネットだ。そんな感情を抱くのは間違っていたのだろう。
しかし、彼女はまだ、内気だった自分に優しく声を掛けて笑ってくれたジェネットのことが忘れられなかった。例えそれが、アンナの娘であるフェリシアに近づく手段なのであったとしても。
それから彼女は、国有数のメイド学校に通うようになった。
そして、ただただひたすらに努力を重ねた。
記憶を塗り替えた彼女にとっても、昔の彼女にとっても、フェリシアは憧れであり、愛しの人だった。心から慕っていた。
でも、でも――――
あの人のようには、フェリシアのようには、絶対になりたくない。
――何故かは分からないが、昔からどこか心の隅で思っていたことがあった。
でも、彼女はその想いを心の底に閉じ込める。思い出してはいけないような、そんな気がして。
だから彼女は目指した。フェリシアのような、‘‘かけがえのないメイド‘‘を。
そして、アンナのような、‘‘望まれないメイド‘‘にはなりたくないと、より一層努力を重ねた。
普通は、反対のはずなのに。あれだけ主人に愛されていて、‘‘望まれないメイド‘‘のはずがないのに。
彼女はメイドのことを、‘‘かけがえのないメイド‘‘と‘‘望まれないメイド‘‘という二つの型に嵌めることしかできなかった。だって、メイドとしての在り方をそれしか知らなかったから。――それは、フェリシアからの受け売りだった。
だから、彼女は今日も自分の主人――ティアナの‘‘かけがえのないメイド‘‘になる為に生きる。その為には、なんだってする。
――今でも、記憶を阻害するように靄のかかった‘‘あの人‘‘が、自分を寝かしつけながらノイズ雑じりの言葉を添えて微笑んでいるところだけは思い出すことが出来る。
「エイミー、私はね、あの方に仕えていた頃、よくこう思っていたの。『―――――――』って。
……だから、決めていたの。‘‘望まれないメイド‘‘ではなく、必ずあの方の‘‘かけがえのないメイド‘‘になろうと。そして、最後には―――」




