前編
「どうした?」
校門の前で立ち止まった俺に気付いて、蒼が問う。
「なんでもねぇよ」
口ではそう答えるものの、校門を越えられなかった。
三年前、強張るほどの緊張の中でまたいだこの線は、今日限りもうまたぐことはない。少なくとも、生徒としては。
そう考えると、柄にもなく感慨深かった。
「お、なんだ? しんみりしちゃったか?」
「なんでもねぇって」
そういうお前だって、目の端は真っ赤だぞ。
言い返してやろうかと迷って、言わないでおいた。多分蒼自身も分かっている。
代わりにこう言った。
「海行こうぜ」
ぜ、のタイミングで校門を飛び越える。
「は?」
「海。電車なら三十分くらいだろ」
「いや、今日三月一日よ? 暦の上ですらまだ冬だよ?」
こいつ大丈夫かと言わんばかりの蒼はマフラーを巻いている。
やっと蕾が色付き始めた梅の花は、ずっと海の方まで吹く冷たい風に揺れていた。
「知ってるけどさ」
「お前、今卒業したばっかりだけど、やり直してきたらどうだ?」
「やだよ、やっと高校生じゃなくなったんだから」
蒼がゲラゲラと笑う。つられて俺も笑い声をあげた。
全然大したことじゃないのに、一人だったら笑わないようなことなのに、蒼といると笑ってしまうのはなぜなんだろう。
「じゃあ行くか」
ひとしきり笑って、蒼が歩き出す。家とは反対の方向だった。
なんだかんだ行ってくれるんだよな。
「なにニヤニヤしてんだ、キモいぞ」
「うるせぇ」
寒いからコンビニで肉まんでも買って行こうか。
たかが三十分程度の電車の旅なのに、妙にわくわくした。
「その前に肉まん買うからコンビニ行こ」
「サンキュ」
「奢らないからな」
「えっ」
不満そうな蒼は無視して、俺は駆け出した。
雨風に晒されてボロボロの時刻表を見ると、次の電車は二十分も後だった。ちなみに前の電車は三十分前だったので、約一時間に一本。
田舎ならではの便の悪さに笑ってしまった。
野ざらしのベンチで蒼と二人、まだ湯気の立つ肉まんを頬張った。
「んで、なんで海なんだよ?」
「なんか遠出って感じだから?」
もごもご食べながら聞く蒼に、俺ももごもごと返した。
質問に疑問形で返すのも我ながらどうかと思うが、なんで海なのかは正直俺自身も分からなかった。
「思った以上にしょうもないな」
「そんなもんだって」
なんで遠出がしたかったのか聞かない蒼はいいやつだ。なんとなく察して、聞かないでおいてくれてるのかも知れない。
「そういえば見て」
「ん?」
蒼は俺に食べかけの肉まんを預けて、自分のコートのボタンを外した。
あらわになった学ランの連なったボタンがひとつ、見当たらない。上から二番目。そのボタンは好きな人に渡すと結ばれるとか結ばれないとか。
「第二ボタンないじゃん! 抜け駆けは許さねぇぞ」
「いや」
「誰? 後輩?」
しかもわざわざ見せるってことはもらってくれたってことだろ。
詰め寄って聞く俺に、蒼は困ったように笑う。
「強いて言うなら……経年劣化?」
「ケイネンレッカ?」
一瞬漢字に変換できなくて、カタコトに聞き返した。
蒼はコートのポケットを漁っている。しばらくすると見覚えのある金色のボタンが出てきた。
「取れた」
「まぎらわしいことすんな!」
俺の絶叫はホームに滑り込んできた電車にかき消された。そっちが勝手に勘違いしたのだと、蒼は腹を抱えて笑っている。
俺はドアの脇のボタンを押して、電車に乗り込んだ。都会の電車にはないのだという、北国の田舎ならではのボタンだ。
まだ笑っている蒼に意地悪く微笑んで、そのまま閉ボタンを押した。
「あっ、てめ! ふざけんな」
すっと笑いを引っ込めて、慌てて開ボタンを押す蒼。
その変わりように、今度は俺が笑う番だ。
電車内はスーツを着たおじさん一人だけだった。
四両編成で、一時間に一本なのにこの空き具合では心配になる。
「まあ電車に乗るくらいなら、圧倒的に車を使うよな」
「本数少ないしな」
納得はする。
ガラガラの車内で突っ立っているのもなんだか怪しいので、ボックス席に腰をかけた。
もちろん向かいに蒼が座ると思ったのに、蒼は横並びの座席の方に歩いて行ってしまった。
「なにしてんの?」
「疲れたなぁと思って」
「なら座れよ」
うーんと曖昧な返事が返ってくる。
「そこじゃちょっと狭いよな」
「なにが」
そもそも四人掛けのボックス席だ。二人分の面積は独占出来るのだから、むしろ広いのだが。ましてや俺も蒼も痩せ型だ。
「よいしょっと」
「は? お前今年いくつだよ」
「エロ本が買えるようになりました」
「バカだろ」
蒼は横並びの座席に寝転んでいた。
俺ら以外の唯一の乗客であるおじさんもウトウトしていて、誰も注意しないのがタチ悪い。
「せめて靴は脱げって」
「そこじゃないだろ! 脱ぐけど!」
笑いが治ったと思ったら、また別の笑いがやってきて。腹筋が保たない。
おじさんは俺らの笑い声で起きてしまったらしい。迷惑そうな顔でこちらを見ていた。
俺たちが乗って、二つ目の駅でおじさんは降りて行った。
なにが入っているのか、でかいスーツケースを抱えて降車する後ろ姿を見て、俺はポツリと言った。
「カツラかな」
「カツラならもっとふさふさなのにするだろ」
薄く肌色が覗いている。
そう言われてしまえばその通りなのだけれど、あえてカツラってことにするのが面白いんだろ。
「育毛中なのかも」
「なら大人しく頭出せって」
チッチッと人差し指を立てて揺らす。
「このド田舎に育毛機関があると思うか?」
「田舎ナメんな、薬局に発毛剤が売ってる!」
「夢がないな」
「無理矢理カツラにする方がよっぽど夢がないわ」
蒼は俺の暇を持て余した遊びにツッコミんで、苦笑いしている。
「ほら、きっと家族にもカツラがバレたくない系男子なんだよ」
「そんな肉食系男子みたいに言ってやるなよ」
「ちなみに俺は雑食系男子。選り好みはしない」
「ただの見境ないゲスだな。そんなんだからモテないんだよ」
俺のボケにまた慈悲のないツッコミが飛んでくる。小気味いいリズムで交わされる、なんでもない会話が楽しかった。
「んで、そのバレたくない系男子は?」
「ちょっとずつ髪の量が多いカツラに変えていく」
「くっそ、俺の負けだわ」
蒼の負けらしい。なにがかなんて野暮なことは聞かないお約束だ。
かかる金額とか、カツラ屋に通い詰めてるとか、交換する頻度とか言いながら、蒼は声なしで笑っている。
「使わなくなったカツラは押入れの奥底に隠してあるんだよ。たまに犬が引っ張り出してくる」
「もうバレバレだろ、それ」
追い討ちをかけるつもりで言いつつ、俺も笑ってしまった。
想像力の無駄遣いでしかない。
まだ笑っている蒼を目の端でとらえながら、外の景色をぼんやりと撫でた。曇り空なんて見慣れているはずなのに、少し寂しくなった
「お、次だ」
「ん」
それまでぽつぽつと家があるだけのつまらない風景だったのに、急に視界に鮮やかな紺が入り込んでくる。
『次は青梅川、青海川でございます』
いつの間にやら五つも駅を過ぎたらしい。
ホームのすぐそこに広がる海はザァザァと音を立てていた。
こちらの作品はカクヨムさん、エブリスタさんの方でも公開させてもらっています