脅しと軽口と炎
「一瞬の遅れ」というものは、時に大きな違いを生む。
服屋の安売り然り、食料品店の安売り然り……戦場など、その最たる場所だろう。
一瞬でも遅れれば、判断を迷えば、そこに待つのは「死」のみ。
人を殺める道具を手にし、その意志を持った瞬間に、己が「殺される」という可能性も考え、実際に命を落とすというのならば受け入れなければならない。
少女はそう考えている。
だからこそ、自分を殺そうと刃を向けて来た者達への手加減などしない。
それは、覚悟を決めている人間にとって、最大の侮辱だと考えているからだ。
だが、己の愛刀をにぎったまま、彼女はただただ困惑していた。
その理由は、今回の襲撃の責任者であろう腕章を着けた兵士が体を震わせ、泣きながら自分に命乞いをしているからだ。
他の兵士達も同じなのか、背後で聞こえていた剣戟も、人々が上げる声も、弓鳴りも……全てが途絶え、すすり泣く声が聞こえている。
「殺しに来たくせに」
温かさなど微塵も感じられない瞳で、少女は兵士を見下ろす。
勢い良く抜かれた兵士の剣は美しいまま彼の手中にあるが、その剣から振るわれる覚悟は見られない。
対して、彼女の愛刀は元の緋色が見えないほどに赤く染まり、何時でも振るわれる覚悟を決めていた。
沈黙を守る大地は所々赤黒く変色し、彼女達を見下ろす木々の幹もその色を変えている。
緑や白といった鮮やかな色をしていた名も知らぬ草や花は皆赤い雫を落とし、物言わぬ兵士や肉塊を受け止めていた。
様子を窺っているのだろう。雪華達が肉を食らう音も止んでいる。
「……お腹はいっぱい?」
「まだ入るな」
「余裕です」
「本来の大きさに戻して頂けるならば、食らえます」
少女の問いに素早く答える疾風達。
その言葉に、兵士の誰かが「ひぃっ」と悲鳴を上げた。
「……兵士が情けない声を出さない。にしても、そっか……空腹は辛いモノだし……まぁ、獲物が逃げてしまえば仕方ないけれど」
態とらしく頬に手を当て、口元に笑みを浮かべる少女。
その姿に、腰を抜かしていた兵士は「撤退!」と声を張り上げた。
蜘蛛の子を散らすように悲鳴を上げ、逃げていく兵士達。
その後を追うような事はせず、少女は疾風達に手招きをした。
「……水魔法で丸洗い、その後、風魔法で乾燥。ブラッシングと蚤がいないかもチェックしようね。特に雪華」
名指しで指名された雪華は、思い切り嫌そうな顔をすると「姫様にそのような手間を掛けさせる訳には……」と清華の背に降りた。
「普段からそう言って逃げるんだから……今回は徹底的にするからね。清華、疾風、逃さないように」
「了解」
「承知しました」
ギラリと瞳を輝かせる疾風と「諦めなさい」と目で訴える清華。
二対一では分が悪いと、雪華は早々に抵抗するのを諦めた。
「あ、雪華が諦めた」
「流石にこの二人から逃げるのは骨が折れますので」
「そっか。じゃぁ、全員で此処をどうするか考えようか。取り敢えず、死体は骨にして、この人達と一緒に弔って貰うのがいいよね。本当は別々の方が良いんだろうけど……」
少女の言葉に頷きつつ、清華は己の腹に半分ほど収めた、最早肉塊という言葉の方が似合う兵士の遺体を見た。
他の獲物を喰らう時同様、腸から食らいつく為、その形が変化してしまうのは、仕方のない事といえば仕方のない事だ。
だが、一時的とはいえ、翔狼として、生きる者として、本能を剥き出しにした痕を見るのは、あまり好みではない。
人の言葉を与えられ、人と共に生きるようになってから、群れで生きていた頃は平気だった事が妙に耐え難いことがある。
少女と旅をするようになって早四年。
最初は生意気な人間と蜥蜴、そして、面倒な鷹だと彼らを疎み、何処かで新しい群れを作ろうと思っていた。
しかし、今ではこの賑やかさと温かさを手放せなくなっている。
王城で少女に「丸くなった」と言われたが、その実、彼女の考えや彼女の生きる世界に身を置き続けた結果、人間臭くなっただけだろう。
でなければ、自分にとってはただの餌である人間に情を抱く事も、こうして餌になった者を悼むような真似をすることも無かったはずだ。
「清華、どうしたの?」
「いえ、少し考え事を」
「そう。何処か痛むとかじゃなくて?」
「はい。ただ月日の移ろいの早さに驚いていただけです」
「そっか。なら、良いのだけど……」
怪我をしているならちゃんと言ってね? と頭を撫でてくる少女の手の温かさに、清華は心まで温かくなるような気がした。
「姫様」
「なに? 清華」
「それで、この地をどうなされるのですか? こうも血で穢れていては……」
「あ、それなら大丈夫。エアに貰った聖水を使って清めることにしたから」
「そうでしたか。それならば、この近くに生きる者達も安心ですね」
ホッと息を吐く清華に、少女も嬉しそうに頷くと「エアにお祈りして貰ったやつだから、効果抜群だよ」と付け足した。
「エア女王の……」
「そう。穢れを祓うどころか、今までより良い環境になるっていう魔法のお水」
「酒じゃないよな?」
「そんな訳無いでしょう? 失礼なこと言うと、今度から疾風のことは蜥蜴って呼ぶからね」
「やめろ」
「口を慎まぬからだろう。蜥蜴」
「んだと? この鳥」
「なに?」
バチバチと火花を散らす疾風と雪華。
その様子を「またか」と言わんばかりの顔で見た少女と清華は、特に二人に声を掛けることもなく作業を始めた。
一番血穢れの酷い場所に死体や肉片を集め、聖水を撒き、教わったという呪を紡げば、血による汚れも、死による穢れも綺麗に消えていく。
その様子に驚きつつも、鼻を動かし、血を浴びた植物の位置を伝えていく清華と一つの穢れも残さぬよう清めていく少女。
そんな二人の様子に気づかないまま、二匹の雄は喧嘩を続ける。
互いに己の種族に対して強いこだわりと誇りがあるだけに、彼女達の作業が終盤を迎えても、争いが収まる気配は無い。
「……姫様」
「もう放っておこう。火なら私でも喚べるし」
心配そうに二匹を見やる清華の背を撫でると、少女は片手で印を組み、真剣な表情で小さな山を作っている死体と向き合った。
兜が落ちているせいで、何かを叫ぶような顔で固まっている兵士や恨みがましそうな顔をした兵士と目が合う。
だが、それも彼女が喚び出した炎によって、すぐに遮られた。
「一体、何を考えているのかな。あの人は……」
「姫様」
厳しい瞳で炎を見つめている少女の呟きに、なんと返していいか分からない清華はただ彼女を呼んだ。
呼んで良い名が無いというのは、こういう時に寂しく、不便だと思いつつ、「そろそろ二人を止めに行こうか」と歩きだした彼女の背を、清華はただ追うしか無かった。