彼の望みと彼の望み
何かを憂うような風が、窓を出入りする。
扉がしっかりと閉められた白の部屋には、紅蓮と梓火の二人だけがおり、酷く真剣な様子で、一つの巻物を見つめていた。
其処には多くの国の名や人の名、年号や日付、その時に起きた出来事が事細かに書かれているだけでなく、これから先に起きることも書かれている。
紅蓮達は「未来」と言える部分の事柄を食い入る様に見つめ、時折一文、一文を指でなぞった。
「……変わっている」
溜息とともに吐き出された言葉に、梓火が顔を上げる。
どの部分だと目で問えば、紅蓮は指先でその場所を示した。
「……本当だ」
疑った声のままで吐き出された言葉に、紅蓮は大きく頷く。
彼がなぞったのは、たったの一文。
だが、それが変わったことで、これから先の事が大きく変わる事を、彼らは知っている。
「主……紅蓮様……!」
興奮した梓火の声が、瞳が、白いだけの部屋に彩をもたらす。
「これで、雷供は……あの子達は無事だ。アシエの民や出撃する兵達には申し訳ないが……あの男の目論見を崩す為には、やむを得ん」
唸る紅蓮に、梓火は力強く首肯する。
これ以上、足掻く術が無いことを、彼は良く知っているのだ。
「……厄介な置き土産だ」
「紅蓮様」
「事実だろう。これさえなければ、私はこの場にいない」
茶を運んだ梓火は、天井を見上げる紅蓮に掛ける言葉を探すが、良い返しなど見つかるわけもなく、再び首肯するに留まった。
「……紅蓮様」
茶を一口飲み、書面に目を戻した梓火の硬い声。
先程の興奮した声とは全く違うそれに、紅蓮は表情を引き締め、「どうした」と彼に問う。
「こちらを」
梓火が指差したのは、書き記された未来でもかなり後ろの行だ。
結局辿る道が変わっただけで、結末は変わらないのかと不安を覚えた紅蓮だが、示された文を読み、ホッと息を吐いた。
「特に問題は無いように見えるが?」
「いえ、大問題です」
厳しい表情で告げる梓火の目に、ゆらりと怒りの色が浮かぶ。
まずい。と紅蓮が察すのとほぼ同時に、彼の両手が机を強く叩き、「どういうことですか!」と怒りに染まった声が部屋に響き渡った。
「梓火」
「紅蓮様! 説明を!」
何故私をお連れ下さらないのですか!
涼し気な見目をした青年の姿から、真っ黒な龍へと姿を戻した彼は、困ったように、愛しそうに自分を見る紅蓮の腕に巻き付く。
「紅蓮様!」
「……そう耳元で叫ぶな、梓火。鼓膜が破れる」
「そうなりましたら、医務官を呼びます」
「いや、自分で治せ……」
「それよりも、何故お一人で行かれるおつもりか! 私は貴方の龍なのでしょう?」
「ああ、だからこそ、置いていこうと思ってな。私の代りにあの子達の傍にいて欲しい」
「何を馬鹿な……! 御自分が何を言っているか、お分かりか?」
「落ち着け、梓火。私は……」
「私は落ち着いています! 貴方は馬鹿なんですか? 私が貴方の代わり? 冗談ではない! 私は梓火、貴方の龍。緋龍の長は……私の主は貴方しかいない! 代わりなどいらない! 代りになどなってやるつもりはない!」
目の前にある現実、これから起きる未来、それを知ることでもたらされた心の痛みが、ただただ耐え難く、彼は涙を零しながら、じっと己の唯一を見つめた。
「……梓火」
「私は、私は紅蓮様の、貴方の、貴方だけの龍だと思っていました」
「ああ、お前は私の龍。私の半身、それに変わりは……」
「ならば! ならば、どうしてお連れ下さらないのですか! 何故、残れと……何故、私を一人に……ついてこいと、何故仰って下さらないのですか!」
紅蓮様! と叫ぶ梓火の体は震えていた。
龍にとって、主は唯一無二の存在だ。
だからこそ、その存在が無くなる時が己という存在を無くす時だと決めているモノは多い。
無論、たかだが数十年、長くても百年生きられるかどうかの人間と違い、龍の生は遥かに長く、主が無くとも生きられる。
主に代わり、一族を見守る為に己の存在を残すモノもいるのだから、紅蓮の願いを梓火が聞き入れ、生き続けることは可能だ。
だが――
「私は、貴方と共に逝きたいのです。紅蓮様」
「それが、お前の願いか? 梓火」
ただ静かに頷く梓火。
彼の願いは、生きて欲しいと願う紅蓮とは真逆の位置にあった。
「梓火。確かに私はお前の主だ。だが、だからといって、無理に最後まで付き合うことはない。自由に生きて良いんだ。お前には、お前の……」
「私の生は、貴方が私に名を下さった時から始まりました……緋龍として生まれながら、黒しか持たず、周囲から疎まれていた私を、紅蓮様。貴方だけは、私を否定せず、受け入れて下さった。その後、閑雅や疾風、奏樹様達と会えました。生きる楽しみも、大変さも……全て貴方が教えて下さった。だから、私は貴方の龍として最期までありたいのです」
「お前は、それで満足なのか?」
「はい」
迷うこと無く頷く梓火に、紅蓮は唸る。
生きていて欲しい
それが、自分勝手な願いであることは分かりきっている。
彼の意思を尊重するならば、己と共に黄泉路を渡るべきなのだろう。
「……分かった。共に来い、梓火」
「はい!」
力強く頷く梓火に、紅蓮は心の中でそっと「すまない」と呟く。
目の前で変わっていく書面を見ながら、彼はただ次の一手を打つべく動き出すしか無かった。




