少女と男
水の塊が、ふよふよと宙に浮いている。
月明かりを受けて僅かに光るそれは、注がれた魔力に反応し、大きな鏡のようになった。
「……聞こえる?」
問う少女の正面には、先程出来た水鏡。
声を受け、暫く波打っていたそれは、やがて少女ではなく、一人の男の姿を映した。
「聞こえているよ」
鏡の向こうにいる男は優しく微笑むと、少女の言葉を静かに待つ。
「……今日、翔狼の子を同行者に迎えたの」
「翔狼の? よく会えたな。名前に狼とつくだけあって、かなり警戒心が強いはずだが?」
首を傾げる男に、少女は「うん」と一つ頷くと、言いにくそうに視線を泳がせた。
だが、黙っていても意味が無いと思ったのか、再び口を開く。
「翼とか体とか傷だらけで……多分、群れの子達も見捨てたんだと思う」
視線を合わせないまま報告する少女に、男は目を見開き「そいつもだが、お前達も大丈夫だったのか?」と見える範囲で彼女に怪我は無いか確認する。
「まぁ、何回か思い切り噛まれたけど……その子も私達も治癒魔法で治したから平気」
「珍しいな。お前が自分に治癒魔法を使うなんて」
「疾風がへそ曲げたの。私がちゃんと傷を治さないなら、手当は受けないって」
「成る程。で、お前が折れたってわけか」
「そう」
その時のことを思い出しているのか、不満げに頬を膨らませる少女。
幼い子供のようなその仕草が可笑しかったのか、男は声を上げて笑う。
「兄さん!」
「おっと、すまん。それで? 俺に連絡を寄越したってことは、帰ってくる気になったのか?」
「ううん。その逆。このまま雷供に行こうと思って」
「雷供に? お前、まさか……」
「うん。王鷹が出たって、迅雷と万雷が言っていたから」
行こうと思う。と笑う少女に、男は大きな溜息を零し、頭を抱える。
「……あのな、チビ助。王鷹は龍も喰うって言われているほど凶暴かつ、巨大な……名前の通り、鷹、いや、この世界に生きる生き物達の王な訳だ。人間だって、時にはあいつらの餌になる。また大怪我する前に帰ってきなさい」
「王様なら、尚更見てみないと! 迅雷達が困っているなら、充分私が行く理由にはなるし!」
「お前な……」
はぁっと、溜息を吐く男の様子を無視し、少女は更に言い募る。
「疾風からも了承貰ったし、この件が終わったらちゃんと帰るから、行ってもいいでしょう?」
お願い! と両手を合わせ、頭を下げる少女。
長い黒髪がさらさらと音を立てて落ちる様は、月の光もあってか美しさと必死さが一層際立つ。が、相手はそれで惑わされる程単純ではない。
「一度戻ってきてからでも、遅くはないだろう」と、男は少女に帰って来るよう告げる。
お互いに頑固なのか、「行く!」「帰って来なさい」という単語ばかりが飛び交い続け、一向に譲り合う気配はない。
「……帰ってきたくないのか?」
高い位置にあった月が少し下へと降りた頃、男が不意に零した言葉に、少女は身を固くした。
恐る恐る水鏡を見れば、悲しげに眉を寄せ、グッと唇をかんでいるように見える男の姿が映っている。
「兄さ……」
「帰ってきたくないなら、帰ってきたくないと言っていいんだぞ? 確かに、此処はお前の本当の家ではないから、気を使うことも多いだろうし……マリアもお前を手伝っているつもりで、邪魔をしているようだしな。雷供の方が、居心地がいいなら……」
「違うってば! 別に兄さんの所が嫌ってわけじゃなくて……雷供の人を傷つけたら、王鷹の子は殺されちゃうでしょう? 私や疾風なら、説得できるかもしれないし、執拗に現れる理由が分かるかもしれないから、今すぐに行こうと思って……でも、これ以上帰らないのも良くないと思って……で、連絡だけでもって……」
段々と小さくなっていく少女の声に、男は小さく唸った。
頭の中では、「甘やかしては駄目だ」という声と「連絡を寄越したのだから、行かせても良いだろう」という声が響いており、心はだいぶ後者に傾いている。
しかし、此処で赦せば、悪しき前例となり、少女が帰ってこない可能性は更に高くなってしまう。
どうすべきかと唸る男だが、それをじっと見つめている少女の紅い瞳が潤んでいるのを見てしまい、揺れ動いていた心の天秤があっという間に傾いた。
「……終わったら、ちゃんと帰ってくるんだぞ」
負けを認めるように絞り出された男の声。
少女は先程まであった涙が嘘のように晴れやかな笑みを浮かべると「うん!」と大きく頷いた。
「ありがとう! 兄さん! 大好き!」
「……ああ。気をつけて。本当に、帰ってこいよ? まぁ、迅雷と万雷が相手じゃ、すぐには無理だろうが……」
「うん! ちゃんと王鷹の件が片付いたら疾風達と帰るね!」
華麗過ぎる掌返しに、一層やられた感を覚えながら、男は「ああ」と一つ頷いた。
こういう所ばかり、女らしくならなくていいのに。と思わず溜息が溢れるが、男にもこういった人間がいることを思い出し、彼は鈍く痛みだした頭を押さえる。
「じゃぁ、行ってきます!」
「ああ、いって……おい、今から行くのか? 夜中だぞ?」
「だって、今ウォル国にいるんだもの。エアに見つかったら、二、三日は移動できないし……だったら、今のうちに行くのがいいかなって」
「いいかな」じゃないだろう。や、お前、そこにいたのか。という思いが駆け巡るのを感じなら、男は泉の如く湧き上がる言葉を飲み込んで、たった一言呟いた。
「……ちゃんと寝ろよ?」
「うん。兄さんもちゃんと休んでね」
「ああ。またな」
「うん。またね」
この短いやり取りで男が普段以上の疲れと頭痛を覚えている事に気づくこと無く、少女はにこやかに「ばいばい」と別れの挨拶を済ませ、水鏡を消す。
再び周囲に静寂が訪れたのを確認した彼女は、「それじゃ行くよ!」と茂みに声を掛けた。