ボーイ・ミーツ・ガール! -7-
恵とエリゼは、体育の授業を男子と行う。何らかの問題がある訳でもない限り、男子か女子好きな方を選べる。
いわゆる配慮の一つ、だ。もっとも、着替えは別の場所で済ませる事になっているが。
今日は百メートルの計測だ。俺としてはただ単純に短距離を走るだけなので、非常に楽である。
「なあ、花房、少し気になってたんだけどさ」
細川が俺に声をかける。
「どうした細川」
細川は俺の右手を指さし、渋い表情をする。
「その手、どうしたんだ。放課後にはそんなのなかったよな」
「ん、これか?」
俺は右手を上げてみせる。やっぱり気になるか。逆に、三限になるまで訊かなかった細川が不思議に思えるくらいだ。
他の皆は教室に入るや否や訊いてきたというのに。
「ちょっとぶつけたんだよ。で、割と血が出てたから恵が手当てしてくれた」
昨日の事を馬鹿正直に言うのは好ましくない、と思っていた。それに、回り回って皆に「あの頃」の事を知られたくない。
恵も、「あの頃」の事を隠しているし。
「かあーっ!」
俺の返答を聞いた細川は、言葉通り地団駄を踏み、嫉妬の視線を俺に浴びせる。
「何なんだ! 何なんだよ花房! モテモテエピソードはもうたくさんだっての!」
「いや何だよそのモテモテエピソードって!!」
第一俺そんなにモテてねーし! 誰にも告白された事ねーし!
「だから訊きたくなかったんだよ! 『は? 当然じゃん?』みたいな感じで高梨さんに介抱してもらったとかなー!」
「うるせえ! お前には服を剥ぎ取られる俺の気持ちが分かんねえだろ!」
細川は地団駄を踏み続けていた足の動きを止める。
「……誰に?」
あ、まずった。俺の焦りを気にかけず、細川は詰め寄ってくる。とんでもなく顔が怖い。
待って。昨日の白マントよりもある意味怖い。
「あ、えーと、だな」
「誰に?!」
近い。顔が近い。そして怖い。
「ハヤトさん、細川さん、何してるんですか?」
エリゼがとことこと俺と細川の方に駆け寄ってくる。細川は血走った目でエリゼの方を向く。
「エリゼちゃん! こいつ、服を剥ぎ取られたって――」
エリゼはたちまち頬を赤く染め、目を逸らす。紅潮した頬を隠すように両手で顔を支える姿は、まるで純情な乙女そのものだ。
「……す、凄かった、です、よ? その、凄くたくましくて、引き締まってて……」
いやだからどうして赤くなるの!? おかしいだろ! じゃなくて! 誤解生むような言い方しないで! 俺が殺される! 社会的に殺される!
「……花房」
細川がゆっくりと振り向く。なんだその脱力したような怒っているような悲しんでいるような、一概に何ともいえない微妙な表情は。
「テメエ、今度という今度はぶち殺されても文句ないよな?」
ああっ、やっぱり! 盛大に誤解してらっしゃる! 散ってない! エリゼの純潔まだ散ってないから! 手出してないから!
「ダメですよ細川さん! ハヤトさん凄く強いんですから!」
エリゼ止めてくれ。俺と恵は「あの頃」の事を隠しておきたいんだ。
「な、マジか!? ぎゃ、逆に入れられちまうのか!?」
何だかよくわからない誤解された! どうしてそうなるんだ! コイツの頭の中は万年お花畑か!
「はーちゃん、どうかしたの?」
「おおっ、恵! 助けてくれ!」
今や希望はお前だけだ!
「高梨さん! その、花房のアレは凄いって――」
話題すり変わっちゃっているんですけど。つーか訊いてどうすんの?
「ん? はーちゃんの何?」
恵は首を傾げる。絶対わかっててやってるだろ。笑いを堪えきれてないじゃん。
「い、言えない! 高梨さんに向かってそんな事言えない!」
話題さっさと戻せよ。全然違う話になってる。
「何だか、ハヤトさんが服をケイさんに剥ぎ取られた話をしていて」
「は、はななななななな,花房が、高梨さんにいいいいいいいいいいいい!!!!!!????」
細川が頭を抱えながら絶叫する。
確かに話題は戻ったけど! 戻ったけど! エリゼ! やっぱり戻さなくてもよかったよ!
「あー、あの事」
恵は恵で納得したように声を上げないでくれ。細川は絶望と憤怒が入り交じった顔を見せる。
「花房――」
「おーい花房、次はお前だー」
体育の担当教員である明石先生が、細川に被せるような形で俺を呼ぶ。よかった、取り敢えず延命だろうか。そそくさと白線で作られたレーンの元に向かった。
俺は軽く百メートルを走る。十四秒後半。狙い通りのタイムだ。
もう少し速く走ろうと思えば走れるが、あまり脚光を浴びるのも気が引ける。なんとなく、「あの頃」に繋がりそうな気がしてしまう。
「花房」
明石先生が皆の元に戻ろうとする俺を呼び止める。
「何ですか」
いやそのな、と明石先生はスキンヘッドを撫で回しながら複雑そうな顔をする。
「一年の頃から思っていたんだが、本気で走ってもいいんじゃないか?」
やはりばれてしまうか。
「俺は本気ですよ?」
取り敢えずすっとぼけてみる。明石先生は唸りながら腕を組む。
「その割には全然息を切らしてないじゃないか。息を切らさずに百メートルを十四秒台で走れるなら、陸上部に推薦するぞ先生は」
ぬう、そういえば息を切らす振りをするのを忘れていた。確かに、これじゃ明らかに手を抜いているように見えかねない。
「……何か理由でもあるんだろうが、もう少しズルの仕方を上手くしろよ」
明石先生は、ちらりと談笑する恵の方を見た。そして俺と恵の「あの頃」の事を知ってか知らぬか、明石先生は肩をすくめてため息をつく。
「すみません、ズルが下手くそで」
俺が謝ると、いいさいいさ、と明石先生は苦笑した。軽く先生に会釈し、皆の元に駆け戻る。
「お、花房が戻ってきた」
さっきとは打って変わって、穏やかな調子の細川が迎える。よかった、俺のいない間に収拾がついてたらしい。
「どうだったよ」
「まあ普通ってところだな」
ふーん、と細川は訝しげに俺を見る。
「何秒?」
「十四秒七。普通だろ?」
細川は肩をすくめた俺を睨むが、ため息をついて頭をかく。
「お前何にもスポーツやってない割には、運動神経いいよな」
意外と痛いところ突いてくるな、コイツ。もう少し遅くした方がよかったのか?
「おーい、次はエリゼの番だ」
明石先生がエリゼを呼ぶ。エリゼは勢いよく立ち上がると、緊張した面持ちでスタートラインに駆けていく。
「……なあ、花房。何かエリゼちゃん、緊張してね?」
「奇遇だな。俺も気になってる」
ただ走るだけなのに、何を緊張してんだろうか。肩に力が入っており、顔は不安げだ。
クラウチングスタートのやり方が分からないのか? いや、俺教えたよな?
ほら、きっちり形は出来ている。まさか、百メートル走りきれないとか? いやいや、昨日は引っ張られながらも走ってたよな?
ほら、特に問題なく走り出して――。
「なあ、花房。エリゼちゃん、遅くね?」
「奇遇だな。俺も驚いてる」
まるでもって、子供が親の後をつけて走っているようだ。クラウチングスタートの勢いが死んでしまっている。
えっ、何これ。全然脚が動いていない。下手すると女子よりも遅いんじゃないのか、これ。
明石先生も困惑した面持ちで、視線をストップウォッチとエリゼで往復させる。
「……二十四秒……」
耳を疑う。細川もきょとんとしている。腕を引っ張っていたが、その脚力でよく昨日俺について行ったな。当の本人は膝に手をつき、肩で呼吸をしている。
手を抜いて、わざと遅く走った訳ではない、とはいえ。明石先生は難しい顔でスキンヘッドを撫で回している。
「は、ハヤト、さん、きついですね、ひゃ、百メートル走は」
よろよろとおぼつかなく歩いて戻ってきながら、エリゼはいっぱいいっぱいに話しかけてくる。まるで長距離を走り終えたかのようだ。
「いや、えっと、そう、か?」
俺は細川を見る。細川はいかにも迷惑そうな顔をする。まあ、答えにくいよな。
「ひ、人には得意不得意があるしね? 俺も長距離走苦手だしね?」
細川は探り探りに答える。だが、それが返ってエリゼには良くなかったのだろうか、表情に陰りが出る。
「あ……。あまり、きつくない、んですか」
エリゼは体の力が抜けたようで、上体が後ろに倒れこみそうになる。とっさにエリゼの左手首を掴み、引っ張る。
思わず強く引っ張り込んだようで、エリゼはそのまま俺の胸板に顔を埋める格好になる。
「うおっ、悪い!」
自分でも驚くほど素っ頓狂な声を上げてしまう。
「花房……てめえ!」
「いや待て細川!」
事故だから、これ事故だから! 思ってたよりエリゼが軽かっただけだから! エリゼはエリゼで、胸板に顔を埋めたまま呼吸するのやめてください!
何この……何!?
「ハヤトさんの胸板……しっかりしてるんですね……」
「おおおーい!!」
また細川の視線が痛くなってきた、というか男子の視線がすげえ痛い!
「おお、何だかすごい事になってる」
恵が呑気な調子で戻ってくる。助けて、本当に助けて。俺の必死の懇願が通じたのか、恵はエリゼを俺の胸板から優しく引き剥がす。
「はーちゃん、エリゼちゃんに何したらそんな事になっちゃったの? まるで少女漫画みたいだったよ?」
「あの、ボクがバランスを崩して」
エリゼは顔を赤くして答える。恵はエリゼの言葉を聞くやいなや、身を前に乗り出す。
「どうだったどうだった!?」
「いや、感想聞かなくてもいいだろ!」
「その、えっと」
エリゼは顔を紅潮させたまま手を腰の前で組み、体を小さく揺らす。反応を見た細川は再び、鬼ののうな形相で俺を睨みつける。
「花房、久々にキレちまった」
いや、昨日同じような事言ってたよね君!