図書館の微睡みに誘われて
窓の外を眺めていたら、ふと思いついたお話。
楽しんでいただければ幸いです。
僕が図書館へ行くと、彼女はいつもそこにいる。声をかけて席に付けば、彼女は顔も上げないまま挨拶をしてくる。
窓辺の日の当たりのいい席で、細かな活字を目で追いながら。長い黒髪をひやりとした冷房の風に遊ばせて、眠そうな目をさらに細めて。
小さな町の寂れた図書館。
ここに毎日のようにいるのは僕と彼女、それから近所のお年寄りくらい。だから僕と彼女は、いつのまにか顔見知りになっていた。だけれど僕は、彼女の名前を知らない。きっと彼女も、僕の名前を知らない。
話すことはない、けれど毎日挨拶はする。それは遠くもなく、近くもない間柄。
不思議な距離が、僕達の間にあった。
それはまるで、春の微睡みのように淡い距離だった。
*****
照りつく太陽、そこから零れ落ちる光。
その光は冷たい雫のように輝いていているのに、空気はじっとりと蒸し暑い。茹だるような暑さの中、額に汗を浮かべつつ通い慣れた道を進む。
陽炎でも見えてきそうな暑さ。このまま溶けるのではないかと、割と本気で考えた。
坂道を一気に上って、見えてきたコンクリートの寂れた建物に、僕は思わず息をつく。
汗を拭いながらに大きなドアを押し開けると、冷房によって冷やされた空気が肌を冷やした。
何百冊、何千冊という数えきれないほどの本の匂い。
人が疎らなここは、ただ本の多さとその匂いで満たされている。
そんな図書館の一角。
読書スペースの一番端、勉強スペースも兼ねているのか区切られた部屋。
日の当たりがいいから本棚はないけれど、ここでも自由に本を読める。
その部屋の窓辺に、やっぱり彼女がいた。
流れるクセのない黒髪に、本を熱心に追う黒曜の瞳、ページをめくる白い指、進んでいく白い本。
彼女は白と黒が眩しい、綺麗な女の子だ。
「おはよう、今日も早いね」
いつもと同じ言葉、いつもと同じ動作。
そんな僕の言葉に、彼女も同じように目を細める。
細かい活字を目で追いながら、僕の顔を確かめることなく言葉を紡ぐ。
「おはよう……君も、早いね」
綺麗な澄んだ声は、どこか空白だ。彼女はいつだって本に夢中で、僕はそれを眺めつつ問題集を開いた。
何だかんだ大学受験を控えた身としては、この空間はありがたい。静かな空間、彼女が本をめくることで生まれる適度な音。
だけれど、彼女も同い年のはずなのに、本当に勉強は大丈夫なのだろうか。
いつだって本を読む様子に焦りはない。もしかして受験をしないのかと思うけれど、見たことのある彼女の制服は近くの進学校のものだ。
不思議な存在。それが僕から見た姿だった。
*****
そのまま勉強に没頭していると、不意に肩を叩かれる。
驚いて思わず肩を震わせると、相手もびっくりしたらしい。少しだけ後退る気配がした。
誰かと思って振り返って、更に驚いた。だってそこにいたのは、普段なら話さない彼女だったから。
普段ならお互いに合わせることもない、彼女の黒曜のように濡れた瞳が、僕を映している。
いつもは眠たげな目だって、今は戸惑い気味に眉が下がっていた。
「あ……今日は短縮時間で、もう閉館だよ」
その澄んだ声に、空白は見つからない。いつもの本に夢中の上の空ではない。それは紛れもなく、僕へ向けた意志のある言葉だった。
そういえば、と彼女の言葉で思い出す。今日は短縮時間だから早く閉まるのだったっけ。
「教えてくれてありがとう……ええと、いつもここにいる子だよね」
彼女のことをどう呼べばいいのか分からなくて、変な言葉になってしまう。
いつもここにいる人なんて、僕と彼女くらいなのに。
彼女もそれが可笑しかったらしく、くすりと笑った。
笑った顔は見たことがなかったけれど、やっぱり綺麗だ。
「私のことは月って呼んで。ニックネームだから」
月。
彼女のニックネームだというその言葉を、声に出さないで舌で転がした。
柔らかな響き。彼女にぴったりだと、漠然と思った。
「じゃあ、僕のことは……どうしよう」
彼女だけが名乗るのはおかしいと思ったけれど、僕には別にニックネームはない。
思い浮かばずに言葉を詰まらせると、彼女は吹き出した。
「ふ、ふふ……っ、面白い人だね、君は」
しばらく笑い続けられると、僕は恥ずかしくなってきた。それを感じ取ったのか、彼女は笑うのを止めてこちらを見る。
その真剣な瞳に、思わず吸い込まれそうだ。
「じゃあ君のことは、君って呼ぶよ。私だって、本名とは全く違うニックネームだしね」
彼女はそう言い残すと、軽やかにかけて行く。
通り過ぎた彼女からは、女の子らしい柔らかな匂いがした。
駆けていく彼女の背中を見ながら、耳に残っている言葉を呟いてみる。
すれ違いざまに聞こえた言葉。多分それは、聞き間違いではないと思う。
「……また明日、ね」
彼女が見えなくなると、図書館の門を出た。すっかり日が沈むのが早くなった空は、絵の具を垂らしたような紺色。
初冬の澄んだ空気に、星が鮮やかに浮かんでいる。
空にはちょうど綺麗な三日月。彼女に似合う夜だと思った。
帰り道をたどりながら、彼女とのやりとりを思い出す。
いつもとは違う、今日はなんだか特別な日。自然と足取りも軽くなった。
今日は少しだけ奮発して、美味しいものでも食べようか。それとも、少しだけテレビでも見ようか。
明日の図書館が楽しみだった。
明日の朝、僕と彼女はどんな言葉を交わすのだろう。
彼女の名前は、まだ知らなくていいかな。
いつかきっと、知る時が来ると思いたいから。
それはいつもとは少しだけ違う日。
これから何かが始まるような――そんな特別な予感と共に。
三日月の綺麗な冬の夜は、ゆっくりと朝へと近付いていった。
何かが始まるかもしれないし、始まらないかもしれない。
そんな小さな物語。
お楽しみ頂けたでしょうか。
それではまた、どこかで。