8.学園の事件 はじまり 2
周囲から聞こえるひそひそと何かを囁き合う様子が煩わしくグローリアがそちらへちらりと視線を向ければ誰もがとたんに目を泳がせて黙り込んだ。
気まずいくらいなら大人しく我関せずで日和見だけしていれば良いものをと思うのだが、たとえAクラスに在籍できるような者たちでもそうはならないらしい。
「何か問題がございますか?」
グローリアが周囲から分からぬ程度に小さくため息を吐いているとドロシアが一限目の教科書を鞄から出し何食わぬ顔で淡々と言った。
今日の一限目は数学だ。数学と言ってもただ数式に当てはめて数を算出するのではない。領地経営や政治に必要な統計学を学ぶ基礎としての大切な学問であり、ここを理解できなければ二年目からの経営学や統計学は絶望的となる。
「グローリア様が離れろと仰るのなら考えますが…それでも考えるだけですわ」
デスクに一限目の道具を並べ終えグローリアの横顔をにこにこと見つめるサリーが心地の良い柔らかな声で歌うように言った。
サリーは少し数学が苦手だ。得意とするドロシアが日々教えているが、それでもサリーはこの教科だけは平均点を上回る程度にしか取れていない。その他の教科が優秀なためAクラスの中堅の位置にいるが、二年目からの経営学や統計学に少し不安を感じているようだった。
とはいえグローリアは一切心配していない。ドロシアが付いていることもあるが、サリーという同い年の少女そのものをグローリアは信頼している。
「そう、ならば良いわ」
婚約者のいないドロシアとサリーもあの茶会には参加していたが、伯爵家と子爵家のため歓談前の最初の時間は離れた席に座っていた。そのため実際にグローリアたちの間に何があったかを直接見てはいないのだが、噂を鵜吞みにするつもりは無いらしい。
「みなさん、席についてくださいね」
がらりと教室の扉が開き数学の教諭が入ってくると同時に始業のベルが鳴った。ひそひそと続いていた気持ちの悪いざわめきがぴたりと止む。グローリアたちもまた、背筋を伸ばし教壇に立った教諭に視線を向けた。
―――ああ、違うわね。
グローリアはふと思った。たとえあの茶会が噂通りであったとしてもこのふたりはグローリアを選んでくれる…そういうことなのかもしれない、と。
グローリアは周囲からは分からぬ程度に小さく目を瞠り、そうして何度も瞬いて少しだけ熱くなった瞼の裏の潤みをこぼれぬように薄く散らした。グローリアの口角が上がったことに、真剣に教諭の話に耳を傾ける左右のふたりは幸い気づかずにいてくれたようだった。
それからも、噂は消えないどころかどんどんと大きくなるばかりだった。今では、グローリアはティンバーレイク公女への暴言や嫌がらせを繰り返し自分こそが王弟妃に相応しいと豪語していることになっているらしい。さっぱりと記憶にないが。
十日も経つ頃には露骨に嘲笑したり声を大きくしてグローリアを遠回しに揶揄するものもあらわれた。何が至宝か、何が女神か、嫉妬に狂った顔ばかりの馬鹿な女ではないか、と。
「顔と名前は一致しております、お任せ下さい」
普段は物静かであまり大きく表情を変えぬドロシアが珍しく満面の笑みで言った時にはグローリアは思わず吹き出してしまった。隣で「絶対に許しません!!」と少し丸めの頬を更にぷっくりと膨らませて悔しそうにこぶしを握るサリーは愛らしい。ほんの少しささくれ立ったグローリアの心の柔らかい部分がふんわりと癒された。
「ふふ、お手柔らかにしてあげてちょうだい」
グローリアは公女だ。有象無象が何を言おうともグローリアの地位は揺らがないしイーグルトンの名に大きな傷がつくことは無い。父も母も兄たちも心無い噂に憤ることはあっても、度が過ぎれば対処をするがそれまでは放っておけと言うだけだ。
だが、グローリアの心は違う。表面上、どれほど気高く通常と変わらずあったとしてもグローリアの心には大なり小なり傷がつく。ひとつひとつは些細なひっかき傷だとしても、何度も同じ場所を抉られれば傷は酷く深くなっていくものだ。
それでも今、この学園内でグローリアが真っ直ぐに立っていられるのは彼女たちがいるからだ。
ふたりがどういう理由でグローリアの側に居るのかは分からない。だが、すでに彼女たちもグローリアの巻き添えでそれ相応の誹謗中傷を受けているというのに、恨み言ひとつ言わずにグローリアの側に居てくれる。変わらず笑み、自分のために怒ってくれるこのふたりこそ得難いとグローリアは強く思っている。このふたりが居ればそれで良い、とさえ。
ただの噂や誹謗中傷である間は好きにすればよいとグローリアは静観していた。王弟殿下に不敬を働いたことは事実だがそれ以外は事実無根であり、特にティンバーレイク公女に関することでグローリア側には何の瑕疵も無い以上、王宮から何のお達しも無いままに騒ぎ立てて事態を大きくするつもりはない。王宮に動きがあればそこで動けばそれで良い。両親や兄たちも今は好きにさせておけと、それはそれは大変良い笑顔で言っていた。




