6.帰り道
かつかつと靴音が遠ざかり、耳を澄ましても聞こえなくなるまでアレクシアは頭を下げ続けた。
「…っは!」
俯き奥歯を噛みしめ耐えていたアレクシアは、完全に足音が聞こえなくなるのを待って吐き捨てるように笑った。誰が名前など呼んでやるものか。
騎士団では武の家門の出身者が多く姓で呼ぶと被ってしまうことも多いため、名前や愛称に『卿』をつけて呼ぶことが多い。アレクシアなら『アレク卿』だし、ポーリーンなら『ポール卿』だ。
だが、アレクシアは基本的に第一騎士団の騎士を名前や愛称で呼ぶことはしなかった。仲良くするのはもちろん、同じ種類の人間だと思われるのもまっぴらごめんだったからだ。
平気で他者を踏みにじり、嘲り、表に見える肩書や容姿でしか人を判断できない愚か者ども。自らの力ではない、御先祖の功績に胡坐をかいて自らを高める努力もしない、自分を正しく評価することもできない間抜けども。アレクシアはそういう連中が大嫌いだった。
もちろん、第一騎士団にも尊敬できる人たちは居たし、今の第一騎士団長はその筆頭だ。弱きもの、民を守ることこそが貴族の本懐と言って憚らないイーグルトン公爵家当主でもあるその人は、言葉だけではなく常に行動でも示しアレクシアたちを導いてくれる。なぜあの人の背中を見ながらああも愚かでいられるのか。
尊敬できる先輩方には裏ではこっそり名前呼びを許していただいているが、表向きには第一に所属する全ての騎士を姓で呼んでいる。大切な先輩方は皆そんなアレクシアに理解を示し、そしておかしな人間に絡まれやすいアレクシアをありがたいことに心配してくれてもいた。
「はあー…帰ろう」
とんだ事故にあってしまったがこれはもう仕方がない。運が悪かったと思ってさっさと寮に帰って寝よう。ポリーが居たら一緒にお酒を飲みながら愚痴をこぼせたのに…と、アレクシアは天を仰ぎため息を吐いた。
アレクシアからポーリーンを奪ってしまった腹黒秘書官が恨めしい。気が付けば、空腹を訴え騒いでいたはずのお腹もすっかり大人しくなってしまった。
寮へ向かう道をとぼとぼとひとり歩く。ポーリーンが寮を出てしまってから三日。どうとでもなると思っていたが、あの動きの少ない表情の向こうにある豊かな感情に存分に触れることのできない毎日はやはりどうにも寂しくて。
特にこういう日はポーリーンの不在が妙に心に沁みて目頭に直撃し、アレクシアは困ってしまう。
またため息をつき俯いていた視線をふと前に向けると、男子寮と女子寮の分かれ道、街灯の下に見知った顔が見えた。ブーツの紐を結び直していたらしいその影がこちらを向くと「あっ」という顔になり、そして破顔した。
「お疲れ様です、アレク卿!!」
にかっと歯を見せて笑ったのは今日の鍛錬場で話をしたあの第二騎士団の若手君だった。地面に置いていた荷物を持つと立ち上がり、アレクシアに寄って来た。
「今帰りっすか?」
にこにこと屈託なく笑うあどけなさの抜けきらない青年の顔に、アレクシアはほっとした。
「ああ、ちょうど帰りだよ。君もかな?」
アレクシアが答えると「はい!」と元気な返事が返って来た。眉をハの字にして目を細める青年は、なんだかとても嬉しそうに見える。
「そうか、お疲れ様。この時間に上りということは明日は中番かい?」
騎士は基本的に交代制で任に着く。警護の騎士であれば四交代制で、担当時間によっては夜も寝ずに勤務することになる。
その他の騎士は、六時から二十一時までの間の九時間を基本とし、二十一時までの勤務だった場合翌日は休暇、もしくは中番と呼ばれる十時からの勤務となる。
今日のアレクシアは二十一時までの勤務だったので、明日は順当に中番の十時からとなっていた。
「そうっす!アレク卿もっすか?」
「うん、そう。最近は変則勤務だったから、久々のまともなシフトだよ」
そう言ってアレクシアが笑うと、青年は眉を下げて「大変そうっすね…」と労わってくれた。アレクシアを不躾なくらい真っ直ぐに見つめる青年の琥珀の瞳は不思議とアレクシアを落ち着かせてくれた。先ほどまで事故の余韻で催していた吐き気も気づけば治まっていた。
「ねぇ、君、ワイト男爵家のご子息だったよね?失礼だけど、名前を聞いても良いかな?」
覚えていなくてごめんね、とアレクシアが苦笑すると「いえ、むしろまともに自己紹介もせず勝手に愛称で呼んですいません!!!」と両手のひらをぱたぱたさせた。そして、右手を左の肩に当て、騎士としての自己紹介をしてくれる。
「第二騎士団第五隊所属、ワイト男爵家第四子、デイル・ワイト!来月で二十歳になります!!」
元気に言うとまたにかっと歯を見せて笑った。本来、貴族が歯を見せて笑うのは『はしたない』と言われるのだが、騎士団では様々な階級のものがいるためアレクシアは全く気にならない。むしろ、彼の屈託のない笑顔は今のアレクシアにはとても好ましく映った。
「デイル・ワイト卿…デイル卿と呼んでも良い?」
アレクシアが言うと、デイルが琥珀の瞳を嬉しそうにきらきらと輝かせた。
「もちろんっす!!あ、俺、勝手にアレク卿って呼んじゃってますけど…」
「ふふふ、かまわないよ。みんなそう呼ぶから」
表情のコロコロ変わる青年にアレクシアは思わず本当に笑った。ここ最近はポーリーンの前以外では本当には笑えなかったのだが。
「良かったっす!よろしくお願いします!!」
またにかっと笑ったデイルに、アレクシアの口からするりと言葉が滑り落ちた。
「デイル卿、私とつきあってみる?」
「は!?!?」
微笑んだまま数秒、自分が何を言ったのかにやっと気が付きアレクシアがぎょっとしてデイルを見ると、デイルも目を見開いて固まっていた。




