32.十日目 ~ 信頼と尊厳の木
そうして―――。
やはりと言うか何と言うか。眠れない、などということも無くあっさりと意識を手放したハリエットがぱっちりと目覚めるとしっかりと夜が明けていた。セシリアの部屋から早々に追い出されてゆっくりと眠ったせいか今日も頭がすっきりしている。セシリアの言うことは今回も間違っていなかった。
「うん、大丈夫」
半身を起こしてぐーっと腕を伸ばせば徐々に頭が冴えて来る。寝台を降りてカーテンを開くとまだ薄暗い空には薄い雲の筋がひとつ、ふたつ。今日も良い天気になりそうだとハリエットは微笑んだ。
最終日は王都からそう遠くないこともあり特に視察は予定されていない。数度の小休憩と昼食をはさみ、午後の茶の時間の前には帰城予定となっている。
「ああ…自由な時間もこれで終わりね…」
大して自由でも無かった気はするが、大げさなほど首を横に振りセシリアが嘆息した。「ああ、動かないでください!」と髪を結っていたリビーに言われてしょんぼりと肩を落としている。
「そんなことを仰らないでくださいませ。王子殿下も王女殿下も、きっと首を長くしてお待ちでいらっしゃいますよ」
そこで国王陛下が、と言わなかったのはきっとルースなりの気遣いだ。現実というのはいつだって厳しい。
「分かってはいるのよ。嫌なわけでもないの。でもね、こう…どう言えばいいのかしら…」
複雑な気持ちなのよ!とセシリアは首を動かさず視線だけ俯かせてため息を吐いた。
セシリアは王妃だ。当然、自分の家である王妃宮であっても気を抜けない。王妃として常に人に見られることを意識している。気を抜けるのはセシリアの自室でハリエットたち気心の知れた侍女たちだけで過ごしている時くらいだろう。
もちろん視察中も人の目はあるが視線の質が違う。ましてや今回の視察はセシリアにとっては心を癒す、まるでご褒美のような旅だったのだからその思いも一入だろう。
「まぁいいわ」
リビーから渡された手鏡と鏡台で髪型を確認しつつ、セシリアがにやりと笑った。今日はサイドをいくつかに分けて編み込みにし、後ろで髪留めで留めてハーフアップにしている。
「お楽しみはこれからだもの」
「これからですか?」
ハリエットが茶器を片づけていた手を止めて振り向いた。今日は特に視察の予定は無いと聞いていたのだが、何かあるのだろうか。それとも帰城後に何か控えていたか…記憶を辿るもハリエットはどちらも聞いた覚えがない。
「ええ、これからよ。楽しみにしておきなさい、ハリエット」
「うん、良いわ」とリビーに微笑んで手鏡を渡し、立ち上がったセシリアがハリエットを見てにっこりと楽しそうに笑った。訳が分からずルイザをちらりと見ると、荷物の確認をしていたルイザが手を止めてハリエットを振り返り、こちらもまたにっこりと笑った。
「さあ、みんな、帰るわよ!最終確認をしてちょうだい!」
「「「「「はい」」」」」
セシリアの言葉と共に侍女たちが銘々に散っていく。釈然としないままハリエットも馬車の確認に向かった。
準備は滞りなく進み、予定より少し早い出発となった。
馬車ががたごとと進むにつれ、少しずつ見慣れた景色に変わり、細い道が合流するたびに道は広くなっていく。この丘を越えると向こうに王都が見える…そうハリエットが思ったとき、セシリアが「止めてちょうだい」と声をかけた。
馬車の横に控えていた騎士が大きな声で「制止!!」と叫ぶと、前方と後方で同じように「制止!」という声が何度か上がった。馬車がゆっくりと速度を落としていく。
「開けてちょうだい」
ハリエットが頷き内鍵を開けると外から騎士が外鍵を開けてくれる。ハリエット、ルイザが順に降り、最後にセシリアが降りた。手を差し出したハリエットに「ありがとう」と呟き一度小さく伸びをすると、セシリアは真っ直ぐに丘の頂へ歩いていく。ハリエットとルイザが少し遅れてそれに続いた。
「………王都ね」
丘の頂にそびえる大きなエルムの木。信頼と尊厳を司るその木の根元まで来るとセシリアはじっと王都を見据えた。亜麻色の長い髪がさやさやと穏やかな春の風に揺れている。
「ルイザ、ハリエット」
エルムの太い幹に左手をつき、セシリアは視線を真っ直ぐに向け振り向かずに言った。
「……着いてきてくれる?」
どこへ、とは言わない。どこまでとも言わない。セシリアの静かな問いに、ルイザが「はい」と目を閉じ、そうして微笑んだ。
「どこへでも、お望みのままに」
ハリエットも頷くと、満面の笑みで答えた。
「ご一緒します!どこまでも!」
セシリアは一度だけ遠くウェリングバローの方角を振り返った。静かに見つめるセシリアの瞳の奥にはどれほどの思いがあるのだろう。ハリエットにはその全てをうかがい知ることはできないけれど。
そうしてふっと息を吐くと、セシリアはハリエットとルイザに向き直った。
「行きましょう」
微笑み頷くと、セシリアはまた馬車へとまっすぐに歩き出した。ハリエットとルイザも頷くと、少し遅れてその後に続いた。
エルムの丘を越えて整備された広い街道を走り、市民街が広がる正門からではなく貴族街の奥、裏門から止められることなく王都の門をくぐる。そのまま一度も止まることなく馬車はがらがらと王宮への道を走っていく。王宮の門まではもう間もなくだ。
裏門をくぐる頃にはまだぽつりぽつりとあった会話も、王宮が近づくにつれていつの間にか無くなっていた。それぞれが物思いにふけるようにカーテンの向こうをじっと眺めていた。




