31.九日目 ~ 食べて、寝る
部屋へ戻ると途端にそれまで王妃の微笑みを浮かべていたセシリアの表情が崩れた。
「素晴らしかったけれど疲れたわ…」
普段なら大したことのない装いだが、この視察中は移動も多く品性を損ねない程度の軽装が多かったせいで余計に堪えるのだろう。
苦笑しているルイザを後目に久々に着た豪奢なドレスのスカートを片手で持ってセシリアがげんなりとした顔でひらひらとさせていると、規則正しいノックの音が響いた。
「夜分遅くに失礼いたします。連絡係が到着いたしましたのでお手紙をお持ちしました」
「あら、早かったわね?」
セシリアは来るのが分かっていたようにルイザを見ると、ルイザがドアを開け手紙を受け取った。王宮との距離が近くなったことで往復が早くなったせいか、封筒の数が少ない。
ルイザが一通をすぐにセシリアに渡し、残り数枚をぱらぱらとめくり片眉を上げた。
「ハリエット、手紙よ」
「え、今ですか!?」
慌てて受け取り封蝋を見るとやはり緑。ハリエットの役目は終わりだと書いたはずなのだがまさかの六通目だ。もしかして陛下に何かあったのだろうか。
「あの、失礼して今読んでもよろしいでしょうか?」
不安と困惑で何とも言えない顔をしているハリエットをちらりと見ると、セシリアは自分に渡された手紙を読みながら「いいわよ」と手を振った。「ありがとうございます」と言うと、ハリエットはいそいそと封筒を開いた。
・・―・―――・―――・―・・
親愛なるハリエット
今はもうブリックスの街に入っている頃だね。本当にお疲れ様。雨のせいで道もあまり良くなかっただろうが特に何事も無く過ごしているだろうか。
王妃殿下からの手紙、届いたよ。陛下が喜びすぎてインク壺をひっくり返していた。中身は拝見していないけど、陛下の様子を見るに悪いことは書いていなかったんだと思う。これで一安心かな。
どうしてだろう、僕たちの目的は達成されたはずなのに、君に『役目は終わった』と書かれてどうしても手紙を出さずにいられなかった。ちょうど陛下が王妃殿下に早馬で手紙を送ると言っていたので便乗して送らせていただいた。
あの騎士たちは君の友人だったんだね。大雨を駆け抜けて疲労困憊だった彼らは無事を喜ぶ周囲に『赤い女神の祝福を貰ったんだ』と笑っていたそうだよ。僕にはもう手紙が来なくなるのに彼らには君の祝福があるのかと思うと何とも言えない気持ちになった。僕は何が言いたいのだろう。ごめんね。
明日、君を城で迎えられることを楽しみにしている。どうか無事で戻ってきて欲しい。
愛をこめて ダレル
P.S.
黒猫、付けてくれてありがとう。とても嬉しい。
・・―・―――・―――・―・・
「ええと……」
ハリエットは手紙を握りしめたまま固まった。ハリエットは書いたことももらったことも無いけれど、これはまるで本物の恋文のようではないか。固まったまま、ハリエットの目が左右に泳いだ。
「ハリエット?」
セシリアに呼ばれて振り向いたハリエットの顔はまるで迷子のようだった。
「セシリア様…」
不安げに瞳を揺らしセシリアを見るハリエットにセシリアが困ったように眉根を寄せちらりとルイザを見ると、ルイザは首を横に振って苦笑し「まずは明日ですよ」と言った。「そうね、明日よね」とセシリアも苦笑すると、ハリエットに向き直った。
「ハリエット、今日はもういいから休みなさい。明日も早いから明日の朝に人一倍頑張ってちょうだい」
「ですがセシリア様」
「いいから。まずは厨房で軽食を貰っていらっしゃい。それを食べたらお風呂に入って。荷物だけ詰めたらさっさと寝なさい。これは私の望みよ」
セシリアの望み。そう言われてしまえばハリエットに拒絶する術はない。被せるように言われたハリエットは眉を下げてぐっと押し黙った。
「ハリエット……その手紙、私が預かった方が良いかしら?」
セシリアが小さく小首をかしげた。ハリエットはちらりとまた手紙に目を移し、そして途方に暮れたようにセシリアを見た。
「どうしましょう…?」
昨日セシリアに宥めてもらったはずなのにまたもハリエットはあっさりと揺れている。こんなに不安定な自分は生まれて初めてで、ハリエットはどうしたら良いのか分からない。
「そうね、寝なさい、とりあえず。手紙は…ルイザ、どう思う?」
「預かった方が安眠には繋がりそうですが正しいとは言えないですね」
「そうよね、まぁどちらにしろ明日の朝返すなら大差ないから手紙は封筒に入れて鞄の奥にでもしまっておきなさい」
セシリアが困ったように笑い、そしてハリエットをぎゅっと抱きしめた。
「食べて、寝なさい。まずはそれからよ」
ハリエットはこくりと頷くと、「申し訳ありません、おやすみなさいませ」と言ってカーテシーをした。皆が口々に「おやすみ」と返してくれたが、誰の目もとても優しく細められていた。
セシリアに言われた通り、ハリエットは軽食を受け取りるためにまずは厨房へ行った。厨房メイドにそれだけで良いのか?と心配されたが、小さめの丸パンをひとつと燻製肉入りの滋味深い野菜スープの盆を礼と共に受け取った。部屋に戻って盆を見ると丸パンの横に隠すように小さな焼き菓子が添えられており、ハリエットは思わず笑ってしまった。
スープをひとくち口に含む。燻製肉の塩味と野菜の甘みがじんわりと広がって、ほぅ、とハリエットはため息を吐いた。丸パンは温め直してくれたらしい、ほのかに温かく、指でちぎるとふかっとした感触と共に割れ目からふわりと小麦の良い香りが立ち上った。
「ちゃんと美味しいわ…」
ひとくち、ひとくち、食べ進めるたびにハリエットのゆらゆらと不安げに揺れていた心が落ち着いていく。喉を通らないかと思った食事はあっさりと空になり、お茶を淹れて最後に食べた甘い焼き菓子は涙が出そうに美味しかった。
盆を持って厨房へ戻るとハリエットに盆を渡してくれた厨房メイドは居なかったが、美味しかったと伝えて欲しいとお願いして食器を返した。
大きなホテルだけあり自由に使える男女別の大浴場が用意されており、ハリエットはそのまま大浴場へ足を延ばして湯をいただいて部屋に戻った。その間、ポケットにはずっとダレルからの手紙を入れたままだった。
「…」
湯冷めせぬうちにと寝間着に着替えてベッドにぽすりと仰向けに転がると、ハリエットは腕を上に伸ばして封筒を眺めた。じっと見つめていてもセシリアの部屋で手紙を読んだ時のあの動揺はもうない。
「よし、考えても仕方がない!!」
ハリエットはがばりと起き上がりセシリアに言われた通り新しい手紙も鞄に詰める。そうしてベッドに戻ると「寝ます!おやすみ!!」と誰に言うでもなくごろりと転がった。ちらりと目をやると、サイドボードに置いた懐中時計に黒猫が寄り添っている。
「………おやすみなさい」
ハリエットは呟くと小さな燭台の火を消し深呼吸をひとつ、目を閉じた。




