30.九日目 ~ リーチ川と旧市街
九日目は良く晴れた気持ちの良い日となった。雨雲はハリエットたちの進行方向とは違う方へ進んでくれたらしい。道はまだぬかるんでいるが、昨日ほど酷いものでは無かった。
ハリエットはルイザ達が荷物の確認をしている間に今日も馬車の点検を始めた。少し周りを見てしまったのは、居ないと分かっていてもジャックとケネスを探してしまったせいだ。
ダレルからの手紙には連絡係は大変そうだったと書いてあった。けれど、怪我をした者がいたとも何も書いていなかったので彼らは無事に着いたのだろう。きっとそのうち王宮で会えるはずだ。
「よし、今日も大丈夫ね!」
馬車の前で腰に手を当て頷いていると、ピーヒョロロロロと空高くを鳶が飛んで行った。今日は一日、良い天気に恵まれそうだ。気持ちよさそうに旋回する鳶をしばらく眺めていると「ハリエット~!」と窓からエイプリルの声がした。
「はい!今参ります!」
たんたん、とドレスの上から叩いて左右の太ももの短剣を確認する。そうして走…ると怒られるので今日も速足で優雅に急いだ。こういうところが進歩がないとルイザには叱られるのだろう。けれど、間違いなくいつものハリエットに戻ったようでハリエットは嬉しかった。
「お待たせいたしました」
ハリエットがセシリアの部屋に戻ると荷造りも積み込みもほぼ終わっていた。
ハリエットにひとつ頷くと、ルイザが皆を見回した。それを合図にしたように、侍女たちがセシリアとルイザの前に音もなく整列して姿勢を正す。
「今日の日程を確認します」
ルイザが今日の視察地の説明とおおまかな時間配分を説明していく。
今日は大きな川を渡る。雨の後の増水や橋の破損が心配されていたが、先行した騎士によりすでに道中の安全が確認されているようだ。
「今日を乗り越えれば明日には帰城です。皆、最後まで気を引き締めてかかるように」
そう言ってルイザが一歩引きセシリアを見た。セシリアは頷くとひとりひとりの顔を見て、そうして笑った。
「明日になればまた窮屈な王宮に戻らないといけないわ。残り一日、しっかり楽しみましょう」
「セシリア様」とルイザが呆れた声を出すがセシリアは「あら良いじゃない、事実なんだから」ところころと楽しそうに笑った。
「あの人も、喜んでくれたらって、言ってたもの」
そうでしょう?と目元を朱に染めて嬉しそうに笑うセシリアに、ルイザも「仕方ないですね」と笑った。視察に出る前の怒りはすっかりと鳴りを潜めたらしい。この分なら会話も戻るだろうしダレルも安心してくれるだろう。手紙は見せてしまったけれど…ハリエットも、少しは役に立てただろうか?
「それでは、各自持ち場に戻り最後の確認を終了後馬車へ乗り込みます。九時出発ですから遅れないように」
「「「「はい」」」」」
ちらりと懐中時計を見ると八時半を回っている。馬車の点検は終わっているので、あとはセシリアの部屋と隣室の控え、各自の部屋を見回れば終わりだろう。懐中時計のチェーンには赤と緑の目の黒猫が機嫌良さそうに揺れていた。
最終確認も問題なく予定通りに出発すると、馬車は今日最初の休憩地点へと走る。午前は外での小休憩を二度ほど挟み、昼食は途中の王家所有の離宮でとることになっている。離宮とは名ばかりの小さな邸宅で、王族や関係者がウェリングバローへ向かう際の中継地点として使われている。
午後は休憩を兼ねて薬剤研究所と付属の病院の慰問を行い、その後は外での休憩を一度挟んで最後の目的地へと向かった。
最後の目的地であるブリックス・アポン・リーチは少し変わった街だ。街の中心をリーチ川という川が流れている。街を完全に二分してしまうほどの川なのだが、大変立派な石造りの橋が架かっており、その橋自体が史跡として観光名所になっている。
この地域は雨量もそれなりでリーチ川は普段の水量も多く雨の多い時期には毎年増水の憂き目にも合うのだが、記録によると建造されてから二百年以上経つ今も一度も増水による破損は無く、水没もしたことが無いのだ。今回の嵐でも増水は見られるものの街にも橋にも一切影響が見受けられなかった。この街は、何百年もの間リーチ川と向き合い続けた英知の結晶なのだろう。
「思ったより川が濁っていませんね」
「そうね、増水はしているけれど、水の濁りは少ないわ」
この街の治水についての資料は消失しており、この壊れない石造りの橋や増水はしても街に影響の出ない川の構造は現在に残されていない。もう百年以上何とか解明して他の地域に役立てようと研究はしているのだが中々進まないらしい。
実は今、メイウェザーの血族がひとりこの橋に人生を賭けている。きっと遠くない未来、彼は何かを見つけ出すのだろう。
活気のある商店などが並ぶ市街地、新市街を過ぎて石造りの橋をがたごとと渡り、対岸へ入ると街の様子が一変する。橋と同じ石造りの古い家々が立ち並ぶ史跡区域、旧市街に入るのだ。
橋のこちら側は景観が保護されており、今も人は住んでいるのだがどの建物も領主の管理下にある。許可が無ければ壊すことは愚か増築も改築も許されない。それもあり、この史跡区域は普通の住居よりもホテルやレストランなどの観光施設が多い。ハリエットたちの視察最後の宿もこの史跡の中のひとつであり、元々は領主の邸宅だった建物を改装した大きなホテルだった。
昨日の雨の影響は多少あったが今日も予定通り日が暮れる前には宿に入ることができた。
いつもなら夕食を部屋でとるセシリアだが、今日はしっかりと着飾った上でダイニングホールで食事をとった。この街には有名な楽団があり、ぜひセシリアに捧げたいとダイニングホールで小さな演奏会を開いたのだ。観客はセシリアひとり。もちろん、ハリエットたちもセシリアの後ろに控えてはいたが。
素晴らしい演奏にセシリアからの心づけと共に惜しみない称賛を送り、食事を終えて部屋に戻る頃には二十一時を回っていた。




