99.妬けるわね
温室に来た頃には横から差し込んでいた日の光がいつの間にかずいぶんと高い位置にある。温室の気温も上がってきたようで、先ほどまでとは違う汗を背中に感じる。
少しでもいい、窓を開けてもらうことはできないだろうかと視線を動かしていると、かちりと音がした気がしてフレデリックは音の方を振り返った。
「?………あ!」
きぃと、温室の扉が鳴った。黒い影がゆっくりと扉をくぐる。
入って来たその人を見た瞬間フレデリックは椅子から飛び降り、気が付けば駆けだしていた。
「グレアム!!!」
少し驚いたように黒の目を見開くとグレアムはいつもの穏やかな微笑みを浮かべ、飛びついたフレデリックを危なげなくそっと抱き留め、優しく頭を撫でてくれた。
「おはようございます、殿下。よく眠れましたか?」
問い掛けてくれる声はいつもの低く優しい声だ。漏れそうになる嗚咽を何とか飲みこみ、フレデリックはこくこくと、グレアムに抱き着いたまま何度も何度も頷いた。
「っ……もう、昼が近いぞグレアム……っ!」
フレデリックがぐりぐりと頭を擦り付けつつそう言えば、グレアムが頭上で笑った気配がした。
「左様でございましたね、遅くなりまして申し訳ございません」
「良い。来てくれて、嬉しい…っ」
頭を撫でてくれていた手が離れ、そっと肩を押された。
本当は涙が飲みこみ切れずに少しこぼれてしまったので嫌だったのだが、フレデリックはほんの少し俯くと素直に離れた。グレアムはその場に膝をつき、覗き込むように視線を合わせるとフレデリックの目元に親指で触れて言った。
「お加減はいかがですか?痛みは?」
「無い……は嘘だな、少し痛い。でも平気だ。レナードとアイザックが守ってくれた」
「はい、ご無事で何よりでございました」
「うん……グレアムも、何もなくて良かった」
手の温もりにまた涙がこぼれそうになり慌てて何度も瞬くと、グレアムの指がまたそっと目元を撫でた。
「はい、私は何もございませんよ」
柔らかい声に顔を上げればグレアムが頷いてくれる。フレデリックも頷くと、グレアムはひとつ微笑んで立ち上がり、母たちの座るテーブルへと深く一礼した。
「グレアム・ブライがご挨拶申し上げます」
「っ!」
ここがどういう場であったかをすっかりと忘れていたフレデリックは慌てて母たちを振り向いた。思わず抱き着いてしまったことでグレアムが咎めを受けるかもしれないと思い至り熱を持っていた頬から途端に血の気が引いた。
「来たわねグレアム、待ってたわ」
慌てて母の顔を見たフレデリックに視線を向けることなく母はにっこりと笑い、こちらへ来いとばかりにグレアムへ手招きをした。
「あ…グレアム……」
「さあ、殿下」
決して恐ろしくはないはずの母の笑顔に不安になったフレデリックがグレアムを見上げると、グレアムはにこりと微笑みフレデリックの背を軽く押して促した。
「う、うん」
フレデリックがちらりちらりと後ろを伺いつつ母の方へと歩みを進めると、グレアムが当たり前のように着いてくる。ふと見れば、少し前に出て行ったリビーがにこにこと笑っている。
フレデリックとぱちりと目が合うと、リビーは静かに目を伏せて軽くカーテシーをした。きっとリビーがグレアムを呼びに行ってくれたのだ。
『……ありがとう』
フレデリックが唇だけで礼を言うと、リビーの榛色の瞳が一瞬だけ見開かれてから更にきゅっと細められ、小さな唇からほんの少しだけ白い歯がのぞいた。不思議とその笑顔が眩しく感じて、フレデリックも真似をするようにほんの少しだけ口元を開いて笑った。
「どうぞ、殿下」
テーブルにつくと、グレアムがフレデリックの椅子を引いてくれた。
座ればグレアムが離れてしまう気がして椅子の前で視線を泳がせていると、グレアムがまたほんの少しだけ椅子を引いた。
「さあ、殿下」
「う……分かった…」
静かに言われてしぶしぶと座ると椅子がそっと後ろから押される。とっさに椅子を押すグレアムのジャケットの裾を掴むと、頬杖をついて眺めていた母がふふふと声を上げて笑った。
「まったく、妬けるわね?」
「だな。だが俺の目に狂いはなかっただろ?」
「少し行き過ぎではない?」
「いや、これくらいでフレッドにはちょうど良いだろ」
「そうかしら?」
楽しそうに声を上げて笑う母に、叔父が椅子の背もたれに寄りかかり腕を組み、肩をすくめて笑った。父はまたそんなふたりを交互に眺めてにこにこと体を揺らしている。
「……あ!」
三人の様子にふと思い出し、フレデリックはぱっとグレアムを見上げた。
「グレアム。前に言っていたグレアムを僕の侍従に選んだ方というのは…」
「ええ、レ…ライオネル殿下でいらっしゃいますよ」
「そうだったのか……」
フレデリックがゆっくりと叔父へ視線を向けると、叔父はにやりと、まるで悪戯が成功したように楽しそうに笑った。
「おう、俺だぞフレッド」
「はい。『お前くらいクソ真面目で甘ったるくて子供好きなくらいがちょうど良い』との仰せでしたよね」
「ちょっとレオ、言い方が酷いわよ」
「噓は言ってねえだろ?」
頬杖から起き上がり眉をひそめた母に、叔父は悪びれもせずに堂々と言い切った。
そうして叔父とグレアムは目を合わせると、叔父は楽しそうに、グレアムは少し困ったように、ふたりとも同時ににっと口角を上げた。




