75.宝物
母もまた「知ってるわ」と囁き、そっとフレデリックの頬に口づけた。それからフレデリックの目を覗き込み、にこりと笑ってフレデリックから身を離した。ゆっくりと振り返れば、口角を上げた父が静かに頷いてくれる。
「え、っと…」
我に返ったように見回せば、周囲の視線と言うか空気が何とも生ぬるい。恥ずかしさに思わず俯きそうになるが、フレデリックはぎゅっと目を閉じてふるりと首をひとつ横に振った。まだ、叔父との約束は終わっていない。
最後はクリスティーナだと覚悟を決め、唇をぐっと引き結んで顔を上げる。目が合った瞬間に、父と同じ赤混じりの紫の瞳をきらりと煌めかせてクリスティーナがぽーんっと椅子から飛び降りた。
「ティーナも!!」
「ええ!?」
クリスティーナの横で控えていたクリスティーナの乳母がぎょっとして、クリスティーナを止めようと慌てて手を伸ばした。
「良い!」
乳母を短く静止してフレデリックがそのままクリスティーナに腕を広げると、それを見て止めるのを断念した乳母が目を閉じ軽く天を仰いだ。あとでフレデリックからも謝ろうと、笑いながらもフレデリックはぐっと体勢を低くした。
「兄さま!!」
駆けて来たクリスティーナが勢いをつけ、潔いほど迷いなく絨毯を蹴って飛びついてきた。
「危ないよ、ティーナ!」
そう笑いながらもフレデリックはクリスティーナを受け止めて、そのまま抱き上げようとして断念した。危うくそのまま後ろに転がりそうになりひやりとした背に、もう少し鍛錬を増やした方が良いと心に決める。
フレデリックより小柄とはいえフレデリックの口元まであるクリスティーナを膝をついて抱きしめると、クリスティーナはフレデリックの首にしがみついて「えへへ」と笑った。
「ティーナ、心配かけてごめん」
「もう黙っていなくなっては嫌よ?」
「うん、ごめんね、大好きだよティーナ」
「ティーナも兄さまが大好きよ!!」
蜂蜜色の髪をゆっくりと撫でてやる。小さな体がフレデリックの腕の中でふるりと震えた。
「本当に、心配したのよ……」
クリスティーナはぐりぐりと、いやいやをするように額をフレデリックの肩に擦り付けた。
駄々をこねるクリスティーナは散々見てきたが、あれほど辛そうに目を腫らすクリスティーナをフレデリックは初めて見た。思い出すだけで心臓が握りつぶされそうな、あんな顔はもう二度と見たくない。
「ティーナ………」
苦しくなって思わず強く抱きしめると、クリスティーナは「変な兄さま」とくすぐったそうに笑って身をよじった。
とくとくと、フレデリックよりも少し早い心臓の音。高い声。小さく柔らかい体。フレデリックを抱き返してくれる小さな手。その全てが、たったひとつのことをフレデリックに教えてくれる。
「ティーナ」
「なあに、兄さま」
フレデリックはもう一度クリスティーナの蜜色の髪を撫で、柔らかい頬に頬をすり寄せ、ぎゅーっと思い切り抱きしめた。
「ティーナは僕の……僕たちの、宝物だよ」
叔父がフレデリックにくれた言葉が心に染みわたっていく。じわりと滲みそうになる視界を何とか瞬きで誤魔化して、フレデリックはゆっくりと体を離すとクリスティーナの頬に手をあてて額をこつりと合わせて覗き込んだ。
「兄さまの、宝もの?」
「そうだよ、僕の、みんなの宝物だ。……ありがとう、ティーナ」
フレデリックの口元に自然と笑みが浮かぶ。クリスティーナが元気なだけで、フレデリックはこんなにも嬉しい。
いつだってフレデリックを無邪気に慕って追い掛けて来てくれるクリスティーナは、間違いなくフレデリックの宝だ。愛しいとは、宝物とは、こんなにも強くて優しい感情だった。
「兄さまもティーナの宝ものよ!」
小さな手でフレデリックの頬を包み込み、クリスティーナは満面で嬉しそうに笑った。
「うん、知ってるよ」
フレデリックも叔父のようににかっとはしたなく笑い、クリスティーナの白い額にそっと口づけた。
後ろで母が「フレッド、ティーナ……」と抑えたように囁いた声がした。




