72.名を知る
俯けば、綺麗に磨かれた革靴が目に入る。窓から入る朝の光に、艶々と白く輝いている。
「昨日、母上の部屋で軽食をいただいたとき、冷たいミルクが用意されていたんだ。この季節に王宮で飲むことは難しいのに」
昨日、なみなみとグラスに注がれた冷たいミルクを見ても、フレデリックはただ嬉しいとしか思えなかった。もちろん母の前で緊張していたのもあるが、そうでなくとも、冷たいミルクがあの時あの場にあったということの意味にフレデリックは気付けなかった。
「きっと母上が…母上に命じられた者たちが、僕が帰って来た時のためにと何とかして保存してくれたものだと思うんだ。そのミルクを用意してくれたのはどこかの牧場の者で、牧場で育てられている牛で。きっとあのミルクのために沢山の人が見えないところで頑張ってくれて……でも僕は、母上以外の者の顔も名前も知らない」
何となく左手を眺めて見れば、見事に刺しゅうされたジャケットの袖に飾りボタンが付いている。
「今、僕が着ているこの服も、毎日の食事も、食器も。その窓のカーテンも、この宮そのものも。僕の知らない場所で、顔も名前も知らない誰かが頑張って用意してくれたもので。どれもがいつも美しく保たれているのも、僕の知らない誰かのお陰で」
ぐっと、フレデリックは左手を握り込んだ。じわりと手のひらの中心が温かくなっていく。
「不思議だな……一度気が付くと、とても気になるんだ。自分の周りにあるものや、自分の生活の向こうにあるものが。全てを知ることなどできないと分かっているが……せめてその向こうにいるだろう者たちが心安らかであって欲しいと思う。僕には、直接会って礼を言うことすらできないから……」
フレデリックがどれほど願っても全てを知ることができないのは分かる。どれほど頑張ったところで、この国の全ての国民の顔と名前など覚えられるわけもない。人だけではない、全ての職業について細かなところまでフレデリックが知ることなど不可能だ。
「それでも僕は、やはり、知りたいと思う、な」
知らなければ、困ったときに手を差し伸べることも過ちを犯した時に罰することもできない。フレデリックの言葉は届かない。
「そうか、だから信頼できる側近が……官吏や騎士、領主や代官が必要なのか……」
フレデリックの代わりに見てくれる人が必要で。フレデリックに教えてくれる近しい者が必要で。もっと細かく見るためにはさらにその近しい者の目になる者たちが必要で。更にその目になる者たちが必要で……そうして彼らにもまた、彼らが信じる目になる者が必要になる。
「だから、選んだら、信じるんだ」
フレデリックが選んで信じる彼らが選んだのなら、その先にある者たちもまた同様にフレデリックの目になるのだ。
「信じて、任せて、声を聞いて。駄目ならまた、自分を信じて、選ぶ。選ぶために、自分を、磨く」
ひとつ、ひとつ、確かめるようにフレデリックは言葉を紡いだ。
きっとフレデリックがやるべきはその繰り返しなのだ。それだけでは、絶対に無いだろうけれど。
「叔父上………」
ぎゅっと胸の前でこぶしを握る。ほんの少しだけ叔父に近づけた気がしてフレデリックの口角がきゅっと、大きく上に上がった。
「殿下……」
「うん?」
フレデリックが顔を上げると、それまでじっと控えていた侍女が両手を前に揃えて頭を下げていた。
「不敬を、お許しいただけますでしょうか」
「ああ、許す」
フレデリックが頷くと侍女はほんの少しだけ顔を上げて目元を柔らかく細め、深く、深くカーテシーをした。
「侍女としてではなく、この国の一貴族……一国民として申し上げます。殿下はきっと良い君主になられます。どうか、そのままお育ち下さいませ」
「そう、か。ありがとう……あっ」
フレデリックはまたもうひとつ大切なことに気が付いて目を見開いた。見上げれば侍女が静かに、けれど柔らかく微笑んでいる。
生まれてからずっと、フレデリックはほとんどの時間を乳母のメイと過ごしてきた。だがメイにも当然休みが必要で、そういう時は王妃宮付きの侍女がフレデリックに付くことになっている。
ここ最近、メイがいない時はずっとこの侍女がフレデリックについていた。メイから紹介を受けた気もしないでもない。だが、母専属の侍女以外は一、二年もすると婚姻のために王妃宮を下がってしまうため、フレデリックは誰ひとりとして覚えようともしなかった。
「すまないが、君の名を教えてくれるだろうか」
「ブロードリック伯爵家三女、アメリアにございます」
「そうか、アメリア、か……」
口元に微笑みをたたえ静かに頭を下げたアメリアに、フレデリックは頷いた。
今まで名を聞かずに悪かったと謝るのもおかしいし、かと言って気づいてしまった今何も言わないのも落ち着かない。
「アメリア………うん。行こう、アメリア」
少しだけ考えて、フレデリックは何も言わないことにしてもう一度頷いた。
きっとフレデリックが感謝をしても謝罪をしてもアメリアを困らせる。ならばこれから、何度でも名を呼べばいい。
「承知いたしました、殿下」
アメリアはにこりと微笑むと食堂へ向かって歩き出した。フレデリックも後に続く。
ただの顔の動きであったアメリアの微笑みは、名を知ったとたんに温度を持った親しみへと姿を変えたように思える。
「アメリア」
口の中でもう一度だけと呟くと、口角が自然と上向いた。
湧き上がる何かを大切に抱えるように、フレデリックはぎゅっと胸元でこぶしを握った。




