後(終)
「どういうことでしょうか」
アニソニーとの最後のお茶会から半月ほどたった頃。いつもならば絶対に近づかない王弟殿下の執務室をポーリーンは訪れていた。
「何がだ?」
王弟殿下が書類から顔を上げずに答えた。
謁見の許可が出ただけましだったが、ポーリーンはこの人だけは…特に今回ばかりは本当に納得がいかない。
「誤魔化さないでください。私は書類への署名をお願いしたはずです」
舌打ちをしたかったがさすがに不敬になるのでポーリーンはぐっと我慢した。後ろで「頑張れポール卿!」と誰かが小さく応援してくれている。申し訳ないが余計にイライラするのでちょっと黙っていて欲しい。
「ああ、したぞ。ちゃんと受理されてる。………まぁ、『婚姻届け』だがな」
当然のように肩を竦めてうそぶいた王弟に、ついにポーリーンの中で何かがぶちりと音を立てて切れた。全く目を合わせようともしない王弟殿下の執務机につかつかと近づくとダン!!っと思い切り両手をついた。丈夫なはずの、黒檀の一枚板の分厚い天板がみしりと音を立てる。不敬罪?もう知ったことか。
「ですから私がお願いしたのは『婚約解消届』への署名です。何で『婚姻届』が受理されてるんですか!しかも国王陛下の名前と御璽で!!」
通常であれば当人同士で婚姻届にサインをした上で保証人ふたりのサインをもらい、ポーリーンもアンソニーも王宮勤めのため王宮管理室を通し、その後に行政庁で登録。行政庁にある婚姻許可用の『王の代理印』が押されてめでたく婚姻成立となる。
―――が。
ポーリーンは当然、婚姻届などに署名した覚えはない。ポーリーンが王弟殿下に預けた『婚約解消届』はきちんと偽造防止が為されており、別の書類への転用等はできないようになっている。書いた覚えもないポーリーンとアンソニーの『婚姻届』が国に受理されてしまうことなど本来であればありえないのだ。本来であれば。
唯一の抜け道が『代理印』ではなく国王陛下が持つ『国王御璽』。これを押されてしまった場合その結婚は一般的な結婚ではなく『王命』になってしまう。当然、本人たちの署名など不要。完全に一方的な上からの『お達し』だ。
つまるところ拒否権なし。離婚も不可。可能なのは死別のみ。離婚もやってできないことは無いが、己の死と一族の行く先を覚悟したうえでやるしかない。
しかもとんでもないことに、ポーリーンが騎士団へ提出した『退団届』はあっさりと不受理になってしまった。なぜと問うポーリーンの目の前で第二騎士団長が「権力には勝てないんだよ…」と天を仰いで片手で目を覆っていた。
「悪いが陛下の意思だよ。私じゃない」
肩をすくめて抜け抜けと言ってのける腹黒の艶々の銀髪を一発ひっぱたいてやりたいが、さすがにそこは嫁に行った姉にまで類が及びそうなのでポーリーンはぐっと我慢した。
「勘弁してくれ…!」
ポーリーンは天を仰いだ。
冗談じゃない、これから生涯この陰険腹黒銀髪に虐められながら生きていかねばならないなど、一ヶ月ぶっ続けで徹夜で敵地に夜襲をし続ける方がよほどましだ。
耐え切れずに思わず両手で目を覆うと、ポーリーンの口から「はあああああああ…」と大きなため息がこぼれた。今更ではあるがさすがに不敬かと思い視線を戻すと、王弟殿下が今日初めてちらりとポーリーンへ視線を向けて気まずそうに頬を掻いた。
「まぁ…なんだ。色々、悪かったな」
王弟殿下が斜め下を見て続けた。
「まさかお前が婚約解消なんて言い出すほどの状態になってるなんて思ってなかったんだよ」
王弟殿下はちらりとポーリーンの後へ目をやると、周りの連中がここまでやらかすとは思ってなかったしさぁ…と他人事のように言っている。この男は自分の影響力の大きさを理解していないのだろうかと、半目になりそうになるのをポーリーンは何とか耐えた。―――ここまでは。
「あー……だから、ごめんな?」
そう言ってちらりとポーリーンを見た王弟殿下を、背筋をぐっと伸ばして斜めに見下ろすと唇の端を片方だけ上げ、ポーリーンは「はぁ?」と鼻で笑った。謝られて納得いく程度ならポーリーンだって我慢してあのまま結婚したはずだ。無理だと判断したからこその婚約解消だった。なのに、だ。
この腹黒王弟がチマチマと嫌がらせを繰り返したことで、アンソニーを狙っていた令嬢(一部令息)たちやその家族からもポーリーンと第三隊はかなりの被害を被る羽目になったのだ。
ポーリーンとしては逃げてしまいたかったがどう転んでも家族に迷惑が行くのでやらなかっただけだ。今回、この婚約解消がうまくいかないなら適当な戦場で死んだふりをして人知れず姿を隠してしまおうと思っていた。事情を知っている第三隊のみんなもきっと協力してくれたはずだ。
万感の思いを振り払うように首を大きく横に振り、再度大きなため息を吐くとポーリーンは王弟の目を真っ直ぐに見て言った。
「不本意とはいえ結婚が成立してしまったものは仕方がありません。私はそもそも寮生活ですし、そのまま別居させていただきます」
綺麗に騎士の礼をして「御前、失礼いたします」とそのまま踵を返そうとすると「待て待て待て!!」と王弟殿下が慌てたように席を立ちポーリーンを引き止めた。
「そう言うな!俺はもう何もしない!!むしろ暴走してる連中を全部叩き潰してる…やるから!」
ちらりとまたポーリーンの後ろを見ると王弟殿下が言い募った。一人称が俺になってしまっているあたりかなり焦っているようだ。いつもの憎たらしいニヤニヤ顔もなりを潜め、ただただ「とりあえず待ってくれ」と繰り返している。ポーリーンは半目になりながらも立ち止まった。
「―――その必要はありませんよ」
せっかくなのでどう潰すのか聞いてやろうと思ったところ、ノックもなくがちゃりと誰かが王弟の執務室に乱入した。聞き覚えのある声に扉を振り返れば、不機嫌そうな顔のアンソニーが立っている。ぱちりとポーリーンと目が合うと、アンソニーはへにゃりと頬を染めて微笑んだ。
「ポーリーンさん…」
語尾にハートが付きそうな甘ったるい声で名を呼ばれ、ポーリーンはうっと顔をしかめた。そんなポーリーンを見てふふふと笑い、王弟殿下に顔を向けるとアンソニーは聞いたことのないほど低い声で言った。
「ずいぶんお粗末ですね、殿下」
初めて聞く氷点下の声と視線に、向けられているわけではないポーリーンの肩がびくりと跳ねた。そんなポーリーンに気づいたのかアンソニーがいたずらが見つかった子供のような顔でへらりと笑った。そしてまた真剣な顔になる。
「ポーリーンさん…いえ、ポーリーン。あなたと婚約できたことに浮かれすぎて周囲に全く目が行き届いていなかったこと、心からお詫びします」
アンソニーが片手を胸に当てて綺麗に腰を折った。
「馬鹿どもはある程度叩いて回ったつもりだったのですが、どうしても騎士団内部のこととなるとただの文官の僕には手が出しづらくて…。協力を仰いでいた方々がまさかあなたを虐げる方に回っていたとは思わなかったのです」
そう言ってアンソニーはちらりと王弟殿下を見た。王弟殿下が目を逸らし、何とも言えない顔でびくりと肩を揺らした。
「中には古くからの付き合いの方もいらっしゃいましたし、仕事も良くできる方たちでしたからね…本当に残念、です」
ふぅ、とアンソニーが視線を落としため息を吐いた。「まぁそのせいで証拠隠滅とかされて気づくのが遅れたんですけどね…」とまた低い声でぽそぽそと呟いている。その方たちはどうしたのだろう?残念とは…?
「第二騎士団と第三隊のことはどうかもう心配しないでください。陛下のお力をお借りして僕の方で処しておきましたので」
余計なことを考えてはいけないと視線を泳がせたポーリーンにアンソニーがにっこりと笑った。とても可愛らしい笑顔のはずなのだが、なぜだろう、背筋がどうにも薄ら寒い気がする。
「残りもちゃんと処しておきますのでご安心くださいね」
小首をかしげて嬉しそうに微笑むアンソニーに、ポーリーンはさっぱり安心できる気がしない。処するとはいったい何なのだろう。第二騎士団長ではないが、権力は怖い、分からない。いや、考えては駄目だ。
固まったままのポーリーンに、アンソニーはゆっくりと近づいてきた。
ほとんど背の変わらないアンソニーの鼻がポーリーンの鼻に触れてしまいそうなほどに近づかれ、ポーリーンは「ひっ」と思わず仰け反った。とっさに一歩下がるもぎゅっと両手を握りしめられる。
「ポーリーン、幸せになりましょうね」
うっとりと、アンソニーの海のように濃い青の瞳がポーリーンの空のように薄い青の瞳をのぞき込む。手を握られているだけなのだがポーリーンはなぜか動けなかった。冷や汗が、背筋を伝っていく。
「僕、子供はふたりは欲しいです。新居は王宮に近い方がいいですか?僕はちょっとくらい郊外でも良いかなって思うんです。だって……」
ふと、そこで言葉を止めるとアンソニーは握る手にきゅっと力を入れた。
「近いと、色々面倒ですよね?やっぱり『ふたりきり』でゆっくり過ごしたい」
くすくすと笑いながら「ねぇ?」と首を傾げポーリーンを見つめる目が怖い。気のせいか海色の虹彩の真ん中、瞳孔が大きく開いている気がする。
「ポール卿頑張れ!」
また後ろで誰かが応援してくれるがさっぱり頑張れる気がしない。目を逸らそうにもどういうカラクリか、さっぱりと、逸らすことすらできないのだ。
数多の戦場で強敵と対峙し、その眼力で騎士たちを黙らせてきたポーリーンだったがなぜだろう。何の殺意も敵意も感じないのにどんな相手よりも自分を見つめるアンソニーの瞳がひどく恐ろしかった。
「あーっと…しばらくは寮で…」
「大丈夫ですよ、すでに仮の住まいを王宮の近くに用意してあります」
被せられた声に、さっぱり大丈夫ではない!と目を白黒させているとアンソニーの顔が更にぐっと近くなる。これ以上仰け反るといかに腹筋と背筋を鍛えているポーリーンでもひっくり返りそうだ。
「ポーリーン、大好きです。幸せになりましょうね」
ふにゃりと、どうしようもなく幸せだと言わんばかりにアンソニーの顔が溶けた。ポーリーンの顔はぐにゃりと、不安と恐怖に歪んでいたと思う。
「あー、ごめんな?頑張ってな??」
他人事のように言ってそっと執務机に座りなおした元凶のとんでもなく綺麗な横っ面を、ポーリーンはやはり一発ひっぱたいてやりたいと思った。
『先駆け騎士と王弟秘書官の婚約解消について』 終




