62.嫌なことと嫌いなことだけ
もう夜も遅いからだろうか。
明るい月光の降り注ぐこの王妃宮の一画を、誰ひとりとして通りかからない。暗い廊下に、フレデリックの影を抱えた叔父の影だけが真っ直ぐに伸びている。
「そうさなぁ………」
酷くのんびりと、叔父が呟いた。体重を掛けたのかずしりと、頭に感じる硬さに重みが増す。
「あれだ。分からなくなったらな、嫌なことと嫌いなことだけを考えろ」
「え…嫌なことと、嫌いなことだ…いたっ!」
「いてて」
よく分からずつい首を上に向けると、叔父の顎とフレデリックの頭がぐりりとこすれた。とっさに前かがみになると頭の上から重さが無くなり、フレデリックの体がひょいとまた横向きになった。フレデリックが頭をさすりながら見上げると、「痛いな」と叔父の口元がにやりと笑っている。
「嫌なことと、嫌いなことだけですか?」
「そうだよ、嫌なことと嫌いなことだけだ。人ってのは好きなことや楽しいことってのは割と曖昧なんだよ。明確な境とか、理由とかを付けづらいんだ。意識しなくても嬉しいも楽しいもどっちもあって困らないからな」
「困らない?」
「おう。美味いものを食べてるときに理由なんか考えないだろ?」
叔父が肩を揺らしておどけて笑った。ように見えた。銀の髪がまた光を反射して輝いて、フレデリックは眩しい気がしてほんの少しだけ目を細めた。
「考えないです、たぶん」
「だろ?でもな、嫌だとか、嫌いだってのには明確な理由があることが多いんだよ。その理由ってのは結構自分にとって気づきたくなかったり目を逸らしたいものだったりするんだけどな…でもそれが自分の芯だったりもする」
叔父の顔が見えないことが悔しくてじっと目を細めて叔父を見つめていると、叔父がすっと窓の外を見た。思いのほか柔らかい表情をしていた叔父がただ美しくてじっと見つめていると、叔父はちらりとフレデリックを視線だけで見ると微笑んだ。
「だからな、フレッド。分からなくなったら嫌なことを探せ。全部嫌なら全部の嫌な部分を考えてより嫌なのは何なのか考えろ。嫌だと思う事柄じゃなく、それを嫌だと思う理由の方に必ず答えが隠れてる」
「嫌だと思う、理由」
フレデリックが叔父の言葉を繰り返して何度も瞬いていると、叔父がまたこちらを向いたらしく目元が陰った。
「そうだよ。お前、嫌なことがあったらどうする?」
「僕は……あの、避ける理由を、探す気がします」
「避ける理由か?」
「はい、あの。ただ嫌だ、だけだと説得力が無い気がして…忙しいからやらなくて良いとか、ためにならないから見なくて良いとか、その、理由を………」
言いながら、語尾がどんどんと小さくなってしまう。
フレデリックは何かを嫌いだと思う時、嫌だ怖いと思う時、そういう時はそれを『避ける理由』を探してきた。嫌なのだ、目を逸らしたいのだ。避けられれば見なくて済む。だから理由をつけて、見なかったことにして避けて来た―――そんな気がする。
「はは、そうかよ」
「う……すいません……」
「謝ることはねえよ。それもひとつの手段だ。だが解決はしねえ、それだけだよ」
ゆっくりと、叔父がまたフレデリックの頭を撫でた。その優しい感触に、何だか自分が情けない気がして眉を下げて叔父を見ると、叔父は「ん?」と首を傾げて口元が微笑んだ。
「………考えても、どうしても嫌なことを避けられないときは?」
「ああ、そん時はより良くなる方法を探せ。避けられない嫌なことなら避けることじゃなく少しでも良くする方法を探せ。考えても、頑張っても、より良くしようと思ってももうどうしようもねえ時は……」
「どうしようもない時は?」
「………そんときゃ頼れ」
「わっ」
ごつりと、叔父の額がフレデリックの額に合わされ、ずっと見えなかった叔父のフレデリックと同じ色の瞳が間近に見えた。あまりの近さに驚いてフレデリックが目をぎゅっとつぶると、叔父が小さく笑った気配がした。
「ひとりで考えるな。ひとりで動くな。周りを見ろ、周りを頼れ。ひとりで何とかしようと思うから選択肢が狭まる。ひとりで何とかできると思うから取り返しのつかないところまで突っ走る。はっきり言ってくれる誰かが居れば……お前がちゃんと周りを見て信じられれば、取り返しのつかないことにはならねえよ」
フレデリックが恐る恐る目を開くと、変わらず叔父の瞳が目の前にある。けれど、先ほどよりも色が濃い気がしてフレデリックは何度も瞬いた。
「あの、叔父上……?」
「お前が信じなくちゃな、意味がねえんだよ。相手が何をしようとお前がまず信じようと思えなきゃ何もかもが嘘になるし、何もかもが疑わしくなる。誰彼構わず信じろって言ってんじゃねえぞ?そんなもんはただの愚か者だ。騙されても良かったなんて言っていいのはせいぜい甘く見積もっても中位貴族までだと思え。俺たち高位貴族や王族が騙されれば国が、民が………命が危うくなる」
「あ………」
ふと、額から叔父の温もりが消えた。温もりを追うようにゆるゆると見上げると、また窓の外に目を向けた叔父の表情が月明かりに照らし出されている。
「おじ、うえ」
月を見上げているはずなのに、叔父の視線の先には月が無い。
痛みを堪えるような叔父の目に、叔父の中にある何かをほんの少しだけ見つけたようでフレデリックは大きく目を見開いた。




