56.ティーカップ
ひと通り食べ終わるとテーブルを所狭しと占領していた盆や皿が全て下げられた。
「あれ…いつの間に……?」
目の前に湯気の上がるティーカップが置かれて振り返ると、先ほどまではいなかったはずの赤髪のハリエットがワゴンを奥に押していく。いつの間に戻ってきていたのか、音も気配も無く茶の準備をしていたらしい。叔父たちの前にもティーカップを置くと、ハリエットは一礼してワゴンと共に母の後へと下がって行った。
ぼんやりとその様子を見つめていたフレデリックは、まずは父とフレデリックが飲まなくてはいけないと思い出し慌ててカップを持ち上げた。
「あっ……!?」
自分の右手の親指の先、カップの取っ手にあってはいけないものが目に入り、驚きで危うくカップを取り落としそうになった。
「かっ、蛙?」
咄嗟にカップの底を左手で支えて何とか耐えたのでこぼしはしなかったが、左手が熱い。
少しとろみを感じるような黄金色の透き通る液体の入ったティーカップ。美しい大輪の花が描き出されたカップの持ち手には何と小さな淡い緑色の蛙が付いていた。
「そうよ、今年のレオミンスターの新作。お気に入りよ」
全く気が付いていなかったが、よく見れば母が先ほどから飲んでいるお茶のカップの取っ手にもしっかりと同じ色の小さな蛙がいる。
「割ったら分かるわよね?フレッド」
「う…はい」
にっこりと、母が満面に微笑んだ。あの怖い方の笑顔だ。
割るなと言うならこの場に出さねばいいのに…と、いうのは決して口に出してはいけないことなのだろうなと、フレデリックは口角を引きつった笑みの形にしたまま母から目を逸らした。
目を逸らした先、隣を見れば父の手が震えカタカタとカップを鳴らしている。
「父上…大丈夫ですか」
「う、うん。うん、ううん?うん」
フレデリックがこっそりと声を掛けると、父が視線をカップの蛙から逸らさないままで首を小刻みに縦に振った。
フレデリックも元々蛙はあまり得意ではないが、父は恐怖しているとすら言えるほど蛙が嫌いだ。小さな蛙が茂みに入って行くのを見て、その茂みを丸っと引っこ抜いて処分させてしまったことがあるらしい。
それでも今日、暴食蛙が飛び交う中を、父はフレデリックを守るために飛び出して迷わず庇い抱きしめてくれた。あの時の温もりと安堵を、フレデリックはきっと生涯忘れない。
「お取替えいたしますか?」
「え?」
思い出してほんのりと温かくなった胸を押さえていると、いつの間にか隣にハリエットが控えていた。
「もしお辛ければ、カップをお取替えいたします。ご用意いたしておりますよ」
こっそりとフレデリックにだけ聞こえるくらいの声でハリエットが囁いた。
フレデリックと目を合わせ、柔らかく微笑むハリエットの青灰色の瞳はとても澄んでいて優しい。囁きかけてくれる声は、フレデリックの知っている女性の中では少し低くて穏やかで、とても心地よく感じる。
いつも派手な赤い髪ばかり見てハリエットの目を見たことが無かったことに初めて気づき、なぜだかいたたまれなくてフレデリックは軽く首を横に振った。
「いや、僕はこのままでいい」
「承知いたしました」
笑みを少しだけ深くすると、ハリエットは頭を下げ音も無く母の後ろへ下がっていった。
「母上の侍女は…完璧な淑女というのは皆、気配も操れるのか…?」
「皆じゃないぞ」
口に出してしまっていたらしい疑問に、叔父がおかしそうに肩を揺らした。
「違うのですか?」
「まぁ、侍女も淑女も色々だ」
そう言って肩を竦めた叔父から母の後ろに立つハリエットに視線を移すと、ハリエットは二度ほど驚いたように瞬きをして、また青灰の瞳を優しく細めてくれた。
「よし、いただきます………」
意を決してハリエットの淹れてくれた茶をひとくちすすると、林檎のような甘い香りの中にほんのりとレモンのような爽やかさと微かな苦みを感じる。蜂蜜が入っているようで口に入れるととろりと甘い。フレデリックの口から思わずほぅ、とため息が漏れた。
「甘いな………」
「え?」
自分ではない呟きにぱっと隣を見ると、父がカップを手にしてじっと水面を見つめている。カップを持つ父の手は小刻みに震えているが、きっと茶を飲んだのだろう。この蛙のカップで。
「ち、父上…?」
「うん」
フレデリックが驚いて目を見開くと、その視線に気が付いた父がへにゃり、と情けなく眉を下げ顔をくしゃりと崩して笑った。




