34.ネトル
見上げれば、何度もフレデリックの目を眩しく細めさせた木漏れ日が無い。思ったよりも自分が立っているその場所が薄暗いことに気づき、フレデリックは思わずきょろきょろと辺りを見回した。
ほんの少し先、赤い綱に木漏れ日が揺れているのが見えてフレデリックが深く息を吐くと、どことなく重かった胸がほんの少しだけ軽くなった。
「どうします?殿下」
声に顔を上げれば、レナードと目が合った。反対側を見ればアイザックもフレデリックを見ている。
「意外だな、戻ろうとは言わないのか?」
「言ったら戻りますか?」
レナードに言われ、フレデリックはもう一度赤い綱を見て、そして赤い綱の先を見た。自分の周囲が薄暗い以外は見た目には特に変化を感じない。木々も草花も大差ないように思えるし、ちちち、とどこからともなく鳥の声も聞こえている。
「レナード、何かおかしな感じはするか?」
フレデリックが首を傾げると、レナードはまた目を閉じ、耳に手を当てた。しばらくじっと黙っていると、レナードが顔を上げて首を横に振った。
「今のところ大きな変化は感じません。少し森のにおいが変わった気がしますが植物の種類が少し変わっているのでそのせいもありそうです。何と言うか、どこかで嗅ぎなれた花や草の匂いがします。これ…なんだっけな………?」
「そうか、おかしくないならば良い。行こう。三十分進んでも何も見つけられなかったら急いで帰ろう」
目を閉じ、においを確かめるように鼻を動かしているレナードを見ながらフレデリックが頷くと、アイザックも「分かりました」と頷いた。
「レナード、少しでもおかしなことがあったらすぐに言ってくれ。この赤い綱が警告であることは間違いないはずだ」
「分かりました。いざという時は許可を取らず抜剣することをお許しください」
「許す。ただし全員が無事に逃げ切ることを最優先する、無理はするな」
「はい」
「では…」
行くか、と言おうとしてフレデリックは一度口をつぐんだ。はやる心を抑えるようにひとつ深呼吸をするとふたりを交互に見て頷いた。
「ここから先は危険区域の可能性が高い。綱を越える前に焼き菓子と水分を取っておこう。僕も念のため短剣を鞄から出しておく」
「そうですね、中に入ったら何があるか分かりませんし今が良いでしょう」
「ああ。危険なことはしないと約束した。時間は気になるが安全を重視しよう」
「はい、殿下」
フレデリックは手早く鞄を下ろすと水と焼き菓子を取り出した。先ほどの倒木のように座るところが無いので地面に新しい麻袋を敷いてその上に座る。
「そういえば少し摘んだキイチゴもありましたね」
「ああ、ここで食べてしまおう。邪魔になるといけないし、何より潰れると切ないな」
手に持っていた麻袋を覗くと幸い、キイチゴは潰れていないようだ。手袋を外し水筒の水で軽く流してひょいとひと粒、口に含む。ふわりと、初夏そのもののような香りが口の中に広がった。
「甘酸っぱくて美味しいな。これは良いジャムになっただろうな」
「はい!許されたらまた採りにまいりましょうか」
「監視が厳しくなりそうだがな」
キイチゴを大切そうに食べるアイザックに笑いながらフレデリックも焼き菓子もかじる。朝からずいぶんたくさん食べたはずだが動き回ったせいだろうか、甘いものが体に沁みる気がして、フレデリックも大切に噛みしめた。
「そういえば、ここまでネトルをあまり見なかったな」
ふとレナードに言われて歩いて来た道なき道を振り返った。
「そう言われてみれば、立ち入り禁止区域に入ってからはあまりネトルを見ていないですね」
「そうだな。今回は誤って触れてしまわないように服装にも気を使ったが、確かに一般区域よりもずっと少なかった気がするな」
ちらりと自分の服装を見るとフレデリックはもうひとつ、キイチゴを口に入れた。
今は手袋を外しているが、動いても首から下の肌が露出しないように長めのものや裾を絞ったりできる服を選んでいる。少し暑いがレナードのお勧めだ。
「ネトルはある程度湿った場所や湿地が好きなようです。もしかしたら一般区域よりこちらの森の方が湿気が少ないのかもしれませんね」
「なるほどな。そういえば一般区域には池もあったはずだ」
「キイチゴの茂みよりもっと北に湿地があるとレナードも言っていましたね。エヴァレット嬢の地図もそうなっています」
もぐもぐと口を動かしながらアイザックが地図を広げて見せてくれた。確かに、キイチゴの茂みの更に北西部に湿地と池がありそうだ。
「無いなら無いでありがたいですね。あれは結構くるんです」
「レナード、触ったことがあるのか?」
「幼い頃初めて森に入った時に転んだ先がネトルでした」
「それは…災難だったな……?」
「すぐに応急処置はしてもらいましたが、実のところ生の葉っぱはあれ以来苦手です」
「もしかしてレナードが葉物野菜が苦手なのは…」
「火が通ってないものは思い出すんですよ」
「ああ、幼い頃のトラウマって残りますよね」
身震いしているレナードをアイザックが痛ましそうに見た。
生の葉物野菜全般が苦手になるほどの痛み。幼い頃の出来事とはいえ…いや、幼い頃だったからこそ相当に強烈だったのだろう。
絶対に素手では触るまいと、大きく頷いたフレデリックは今一度心に決めた。




