120.困った人
ふと視界に映る王弟殿下の陰に違和感を感じて執務棟を見ると窓からちらほらとろうそくの明かりが見える。日が暮れ始めたのだ。王弟殿下も気づいたようで「あー…」と銀の髪をぐしゃりとかきあげた。
「グローリア」
「はい」
「送ってく」
すっと目の前に手が差し出された。ここまでただ並んで歩いただけだったのに、ここからはエスコートをしてくれるらしい。
「モニカに睨まれますわよ?」
「モニカだけで済めばありがたいぐらいだろうよ」
「ふふふ、わたくし皆様に愛されておりますのよ」
「知ってる。それでもお前をひとりで行かせる気はない」
苦笑したグローリアに、王弟殿下は早く掴めとばかりに手をぐっとグローリアに近づけた。グローリアが仕方が無いとその手に手を重ねれば王弟殿下は満足げに笑いきゅっと、軽く手を握った。
どちらからともなく歩き出す。ふと見れば執務棟の回廊も慌ただしさを増している。そろそろ文官の定時の時間なのだろう。思ったよりも長居をしてしまったようだ。
「殿下、それほど支えずとも王宮内ですわよ」
「王宮内で倒れたお前が言うな」
婚約関係でも家族でもない者がするには少々近いエスコートにグローリアが半歩離れれば、王弟殿下が不機嫌そうに半歩近づいた。茶会の時のように腰でもさらわれようものなら洒落にならないのでグローリアはこの距離で諦めることにした。
「セオドアが来てくれましたもの」
ため息を吐きつつグローリアが言うと王弟殿下が更に不機嫌になる。
「気に食わない」
「次は殿下が来てくださいませ」
「そこは倒れるな。だが、必ず行く」
むっつりと不機嫌そうに眉根にしわを寄せる王弟殿下を「必ずですよ?」とグローリアが少し覗き込み見上げれば、王弟殿下がくすぐったそうに「おう」と笑った。
グローリアに合わせて歩みはゆっくりだが、それでも歩いてさえいればいずれは目的地に着いてしまう。執務棟から応接室が並ぶ区域へと入りあと扉二つでティンバーレイク公爵家の応接室だ。
「殿下、こちらで十分ですわ」
グローリアが立ちどまり手を離そうとすると、王弟殿下がきゅっとグローリアの手を握った。軽い力で握られているはずなのに全く手を抜くことができない。
「だがグローリア」
「殿下にはほんの数歩ですわ。手の届く範囲でございましょう?」
グローリアの淑女らしい歩みには数十歩だが、王弟殿下の長い脚ならば十歩すらかからないだろう。万が一何かあってもすぐにグローリアの手を掴める距離だ。それでも納得がいかないのか、グローリアの手を握ったまま渋る王弟殿下の手を両手でそっと包み込み、グローリアは「殿下」と柔らかく微笑んだ。
「はぁ、分かった。……グローリア」
「はい」
「また、な?」
寂しそうに、名残を惜しむようにグローリアの手をゆっくりと離すと、王弟殿下はグローリアの頬を指の背で上下にそっとなぞった。
王弟殿下は本当にグローリアをどうしたいのだろう。これではまるで一日の終わりを惜しむ恋人同士では無いか。
――――本当に、どうしようもなく困った人。
グローリアが会いに来なかったこの一ヶ月で、どうも王弟殿下のねじがひとつ、ふたつ飛んだらしい。
いや、そもそも王弟殿下は元々距離感のおかしい人だった。さらに悪化したのか…こちらが素の姿なのだろうか。
困った人ねと口にはせずにグローリアは微笑んだ。グローリアもまた王弟殿下の頬にそっと触れると、「また」と唇だけで呟いて踵を返した。
後ろから自分を見つめる強い視線を感じながらもグローリアはゆっくりと、何事も無かったように歩いていく。手が震えていることを王弟殿下に気づかれなかっただろうか。
体中が熱い。目が潤む。今にも叫び出しそうだ。一目散に走り去りたい気持ちを何とか抑えつける。今のグローリアは耳どころかきっと指の先から頭の先まで全身真っ赤に染まっているはずだ。
痛いほどに脈打つ心臓を密かに抑え、よくぞぎりぎり耐え切ったと、グローリアは自分自身を褒め称えた。




