96.恋を失う
グローリアを支えるセオドアの腕に、恐らくセオドアとしてはほんの少しだけ力が入った。その強さにグローリアはほっとする。今この支えを失ったら、グローリアは崩れて消えて無くなるかもしれない。
――――それも良いわね。
そんなことを思いグローリアはとっさに首を強く振った。
「公女様?」
セオドアの胸に顔を擦り付けることとなり、驚いたセオドアがグローリアを覗き込んだ。
「おお、お辛いのですか?」
つぶらな黒の瞳がずいぶんと近くでグローリアを心配そうに見つめている。表情にも、瞳の奥にも、セオドアの全てがグローリアが心配だと言っている。
「ねぇセオドア。恋って何?」
「こ!?こ、恋ですか!?」
あまりにも急なグローリアの問いにセオドアは目を丸くして瞬くと、「えー、あー?」と首をかしげて真剣に悩んでいる。
「おかしなことを言って、ごめんなさいね」
「いいえ、いいえ公女様。何もお、おかしくありません」
「そう…」
ゆらゆらと、グローリアの体が揺れる。「恋とは…?」と真剣に考えながらもセオドアの歩みは止まることが無い。
グローリアは恋を知らない。誰かを見つめる誰かの瞳にそれらしき色を見ることはあっても、グローリア自身にはその思いが分からない。
素敵な恋物語を読むこともある。悲惨な恋の結末を聞くこともある。苦しい思いを、なれの果てを、誰かの記憶をグローリアも知ることはある。でもそれだけだ。それだけ、だった。
「恋は、幸せ?」
「あ、はい。し、幸せもあると、思います」
ぽつりと呟いたグローリアに、セオドアは頷いた。
「恋は、苦しい?」
「う、く、苦しみも、あ、あると思います」
少し口ごもりながらもセオドアはまた頷いた。眉が困ったように下がっている。
「恋は、痛い?」
「痛みも、ああ、あると、思います」
独り言にも似たグローリアの呟きに、それでもセオドアはひとつひとつ丁寧に答えを返してくれる。
「恋って、何?」
もう一度繰り返したグローリアに、今度はゆっくりたどたどしく、セオドアらしい答えを返してくれた。
「分かり、ません…きっと、ひ、人それぞれで、そ、その時で、違うんだとお、思います」
「違う……」
「はい。えっとお、同じなのはきっと、い、嫌でも、目を…背けても、我慢しても、どど、どうしても、心が強く、う、動いてしまう、ことだとお、思います」
「そう、そうなのね……」
ゆらゆらと、セオドアに運ばれる心地よい揺れと懸命に答えを紡ぐ低い声に、グローリアの中でひとつの結論が生まれた。アレクシアへの思いと王弟殿下への思いの明確な違い。そして、この思いのそれぞれの名前。
――――恋を失ったという意味では、どちらもひとつの失恋かしらね。
アレクシアへの思いは恋ではない。そしてもうひとつは気づいた瞬間に失ってしまった。グローリアはすでに拒絶されている。この思いには先が無い。
「痛いわ……」
呟いたグローリアを、セオドアが腕の角度を変えて抱え直した。グローリアの顔がセオドアの胸に自然と埋まる。
「大丈夫ですよ、公女様。大丈夫です」
セオドアは詳しいことを聞こうともせず、医務室にたどり着くまでただただ大丈夫だと何度も何度も繰り返した。体越しに聞こえる低い声に、グローリアはセオドアの腕に揺られながら声を殺しほろほろと涙を流し続けた。
グローリアが診察を受ける間、セオドアは扉の横で壁を向き張り付いた状態で両耳を塞ぎ医務室に控えていた。セオドアは外に出ると言ったのだが、それを父かドロシアたちが来るまではとグローリアが止めたのだ。
グローリアが横たわるベッドの周囲にはカーテンが張り巡らされているので中は見えないのだが、それでも律儀に壁に額を付けていたらしい。
「セオドア君。あと誰が来るー?」
金茶の長い髪を細い紐で適当にひとまとめにした眼鏡の医務官がカーテンから顔だけを覗かせ大きな声で言った。「いい加減壁から離れなよー」と笑っている。「う、はい」とごそごそと音がしたので、カーテンで見えないが恐らく壁からは離れたのだろう。
「カーティス卿が第一騎士団長を呼びに行かれています。その後カーティス卿は公女様のご友人をお迎えに行かれるとのことでしたので、第一騎士団長、カーティス卿、公女様のご友人がおふたりいらっしゃる予定です」
またもセオドアが流れるように話す。これは慣れの差なのだろうか、それとも公私の差だろうか。そういえば女性が苦手そうだったので女性がいると駄目なのだろうか。いや、一応カーテン越しとはいえグローリアは今もここにいるが。
「そっかー、今日は侍女さんとかはお連れでは無い?」
カーテンの中に戻ると医務官がグローリアに首を傾げた。フィーニアス・エヴァレットと名乗ったこの医務官は少々ゆるい。「騎士団付きの医務官だから四角四面はちょっとでしてねー、だからお許しくださいねー」と笑っていた。ゆるくはあるが腕は良いのだろう。さくさくと質問を繰り返しあっさりとグローリアの不調の原因と思われるものを探し当てた。
「今日は友人たちと来ておりましたので侍女を連れておりませんの」
横になったままグローリアが小さく首を横に振ると、「うーん、そっかー」と少し困ったように眉を下げた。
「専属侍女さんと公爵家お抱えの医師はいますよねー?」
グローリアが頷くと、「じゃあよかった!」とフィーニアスは破顔し、「手紙、それぞれに一通ずつ書くんで渡してくださいねー」とカーテンから出て行った。




