92.無礼者
その表情に嫌な予感がしてグローリアがかすかに振り向くと、少し離れた場所に先日グローリアへ声を荒げた女性の従騎士、レナーテが立っていた。間違いなくその目はグローリアたちを捉えている。
――――これは、まずいですわね。
グローリアはとっさに視線だけで周囲を伺った。今日は日和も良いせいか、いつもより更に令嬢の数が多い。ここで騒ぎを起こせば間違いなく尾ひれの付いた噂となって様々なところに撒かれてしまう。
「ドロシア、サリー」
グローリアが小さく呼びかけ視線を送るとレナーテに気づいたふたりが顔をこわばらせグローリアに頷いた。
グローリアは静かに立ちあがると、レナーテには気づかなかったように王宮側へと降りる階段へ向かう。ドロシアとサリーもさりげなくそれに続く。
「あ、待って!」
レナーテが声を上げ、近くにいた令嬢たちが何事かと振り向いた。
グローリアは内心舌打ちをした。レナーテはどうも何も学んでいないようだ。朝から重たかった体が更に重くなり、胸の奥に燻っていたもやがまたグローリアの喉元を締め付けた。
レナーテの制止の声も聞かなかったことにしてグローリアは令嬢に許される最大の速度で階段を降りた。鍛錬場から見える範囲で捕まるわけにはいかないと、そのまま回廊の方へと急ぐ。回廊への角を曲がりようやく見えないところまで来たと思ったところでグローリアの手が掴まれぐいと引かれた。
「待って!!」
「無礼者!!!」
サリーの大きな声と共にぱしん!という乾いた音が響いた。振り向けば、レナーテとグローリアの間に体を入れたサリーがレナーテの頬を張り、グローリアを掴んだレナーテの手首をドロシアが掴みレナーテを睨みつけていた。
「その手を放しなさい無礼者!」
あまりの怒りに目に涙を溜めサリーがまた大きな声を上げた。まずい、とグローリアは辺りを見回すが今のところ人が来る様子はない。サリーの勢いに押されたようにレナーテがグローリアの手を放し一歩下がった。
「あ……あたしはただ、謝りたくて……」
「ならばせめて最低限の礼儀を守りなさい!あなたはいったい先輩騎士から何を学んだの!?」
グローリアの前にドロシアとサリーが立つ。激高しているサリーを宥めねばならないが、ドロシアも声を荒げないだけで完全に目が座っている。空気の重さに負けたのか、段々とグローリアの頭と腹まで痛くなってきた。
「あ、あたし……」
まずいことをしたという意識はあるのだろう。先輩騎士と言われて目を泳がせたレナーテはまた、大きく一歩後ろへ下がった。
さてどう収拾したものかとグローリアが痛む頭を悩ませていると、鍛錬場の方から人影が角を曲がって来た。
「レナーテ!」
「あ、アレク卿……!」
レナーテの顔がぱっと明るくなった。
怒りに顔を歪めるドロシアとサリーを見てアレクシアは何かを察したように目を細め足早にレナーテの隣に立った。そうして何かを迷うように瞳を揺らし、一歩前に出てレナーテを背に庇うとアレクシアはドロシアとサリーではなくその後ろのグローリアを見た。
その目にまたあの時と同じ色を見つけ、口を開こうとしたアレクシアをグローリアは制した。
「アレクシア・ガードナー」
「っ、はい」
グローリアの低い声に、アレクシアはぴくりと肩を揺らすと挨拶も忘れて直立した。ドロシアとサリーも驚いたようにグローリアを振り向いている。グローリアがそっとふたりの背中に触れると、ふたりは心得たようにグローリアの後ろへと控えた。
「アレクシア・ガードナー」
グローリアは再度静かにアレクシアを呼ぶと一歩前に出た。
「わたくしは一度許しました。これで二度目です」
淡々とアレクシアの目を見ながら静かに話すグローリアに、アレクシアは瞳を揺らし「はい」と唇を引き結んだ。
ちらりとレナーテに視線をやると、レナーテはアレクシアの後ろでほっとしたように口元を緩めていた。何も分かっていないその様子にグローリアはため息を吐きアレクシアへ視線を移しゆっくりと首を横に振った。
「わたくしは、あなたの後ろにいる女性の名も知りませんわ」
「どうして!」と声を上げたレナーテをグローリアは黙殺した。嘘ではない。グローリアがレナーテの名を知っているのはレナーテの監督官であるシモンが彼女をレナーテと呼んだからだ。
「わたくしは誰からもその女性の紹介を受けていないし、その女性から名乗りを受けた覚えも無くてよ」
それを聞いたアレクシアの目が大きく見開かれ、ぱっと横にずれるとアレクシアはレナーテを振り返った。
「あ、この者は」
「要らないわ」
レナーテを紹介しようとしたであろうアレクシアをグローリアはぴしゃりと止めた。そうしてレナーテを見ると、グローリアは表情も無く首を傾げた。
「シモン卿はあなたに何もお伝えにならなかったのかしら?」
グローリアは扇を出すと閉じたまま口元に当てた。




