88.何もない
もしもグローリアが男子に生まれていればきっと学園卒業と同時に王弟執務室の面子に加えてもらえたはずだ。もしもグローリアが生まれるのがあと十年早ければ、王弟殿下の婚約者として隣にあったのはグローリアであったかもしれない。今は亡きアドラムの令嬢ではなく。
――――アドラム令嬢は殿下の役割をご存知だったの……?
考えた途端にグローリアの胸がちりりと痛んだ。眉をしかめそうになるが、あえて微笑むことでグローリアは痛みを誤魔化した。
「そういうあなただからこそ、逃したくないのですけどね」
ベンジャミンがグローリアに視線を向け切なげに微笑んだ。きっとベンジャミンにももう時間があまり残されていないことが分かっているのだろう。
「まだ少しの時間はありましてよ」
「少しなのですよねぇ」
「ええ。そう遠くない未来わたくしも覚悟を決める日が来ますもの。それがわたくしの役割ですから」
婚約を結ぶことができる年になってからもう六年。その間にそれなりの数の縁談があったことをグローリアは知っている。グローリア・イーグルトン公爵令嬢の価値は国内外問わず高い。
実は今までひとつもグローリアには通されなかったのだが、今年に入りついに父は初めてグローリアに釣書の束を渡した。モニカの婚約もしっかりと固まった今、グローリアに残された猶予は少ない。
「その候補には私も入れておいてくださいね」
「もちろんですわ、筆頭ですわよ」
「ありがとうございます、光栄ですね」
「ふふふ、こちらこそ」
王弟殿下の妃にならないのなら、グローリアはベンジャミンが良いと真剣に思っている。そこに甘い感情はひとかけらも無い。あるのは信頼と安心感。そして、ベンジャミンの妻なら迷わず王弟殿下の役に立てるという打算だ。
夫婦となるならもちろんベンジャミンを愛する努力はする。努力などしなくとも好ましい思いはあるし、熱く思い合う恋人にはなれずとも互いをいたわり合う夫婦にはなれるだろう。
グローリアはメイウェザーであるベンジャミンを理解できるだろうし、ベンジャミンも全てを承知の上でグローリアを受け入れてくれるはずだ。
「……グローリア様、お願いです」
微笑みを浮かべたまま思考に沈んでいたグローリアの意識を、ベンジャミンの聞きなれぬ声が引き戻した。振り向けば、ベンジャミンの青灰の瞳が初めて見るほどに揺れていた。
「ベンジャミン様?どうされましたの?」
その表情はグローリアの中に残っていたもやを吹き飛ばすには十分で、グローリアは思わず前に出ると体ごとベンジャミンを振り返り見上げた。ベンジャミンはグローリアを見下ろし一度瞬くとゆっくりと言った。
「どうか、レオもその中に」
お願いです、と眉を下げ更にもう一度繰り返したベンジャミンに、グローリアは目を瞬くと苦笑した。
拒絶されたのはグローリアだ。それなのに目の前で弱り切ったような顔で懇願するのはグローリアを拒絶した男性の最側近。これではまるでグローリアが拒絶したかのようでは無いか。
「わたくしが入れませんのよ、ベンジャミン様」
苦笑いのままグローリアが首を横に振ると、ベンジャミンもまた真剣な顔で首を横に振った。
「いえ、それは無いです。断言します」
「殿下が駄目だと仰られたのに?」
「頑なに駄目だと言うからこそ断言できるのです」
胸に手を当て、だからお願いですと更に繰り返すベンジャミンに、グローリアは呆れを通り越し脱力して笑ってしまった。なるほどメイウェザーの彼が言うのだ、そういうこともあるのだろう。グローリアは仕方なくひとつ頷いた。
「複雑ですわね?」
グローリアがまた横に並び手を差し出すと、ベンジャミンがその手をそっと下から取った。どちらからともなくゆっくりと歩き出す。
「申し訳ありません」
詳しいことは言えませんと囁くように謝ったベンジャミンに、グローリアはまた苦笑した。
「謝らなくて良いと申しましたわ」
「すみませ、あー……」
しまった、とばかりにベンジャミンが口元に手を当てて押し黙った。苦虫を噛みつぶしたようにどんどんと顔が歪み視線が明後日の方を向いた。
「まぁ、ベンジャミン様を初めて言い負かしましたわ!!」
してやったりと笑うグローリアを振り向くとベンジャミンも降参とばかりに口元に当てていた手を上げて苦笑した。
ふっと、ベンジャミンの肩から力が抜けたように見えた。少し細い目を更に優しく細めると、ベンジャミンは困ったように微笑んだ。
「敵わないなぁ…あなたには、きっとずっと敵わない」
グローリアを見るベンジャミンの目は母を見る父の目に少しだけ似て。けれどグローリアを見る父の目にも、グローリアを見る兄たちの目にも、グローリアを見るユーニスの目にも似ている。けれど、どの目ともほんの少し違う。
ベンジャミンの目に確かな温もりを感じ、グローリアはぽつりと、誰にも言ったことの無い思いを口にした。
「そんなこと、ございませんわ。わたくしこそ、何もございませんもの」
「なぜそう思われるのです?」
優しい声音で促されグローリアはぽつり、ぽつりと続けた。
「わたくしは公女ですから、慕ってくださる方もそれなりにいらっしゃいますわ。ですが…イーグルトンではない、公女ではない、この血と容姿を失くしたただのグローリアにどれほどの価値があるのかと……」
グローリアの視線が下がる。ずっと思ってきたことだ。
グローリアは家柄に恵まれ、血筋に恵まれ、容姿に恵まれた。グローリアに向けられる好意的な目のほとんどがそのどれかに因るものだとグローリアは理解している。これらは何ひとつとしてグローリア自身の努力によるものでは無い。
贅沢な悩みだということは十分に理解しているし、考えても意味の無いことだと分かっている。どれも全てがグローリアの一部なのだから。家族やモニカたちに言ったらどれほど怒られるか分からない。
これは甘えだ。ベンジャミンならグローリアの望むとおりに受け止めてくれると、分かっているからこその甘え。それでも続けてしまうのは、きっと色々あり過ぎて、心が弱っているせいだ。
「だってわたくしは、わたくし自身は、選ばれませんもの」
口に出して、初めて自分が思ったよりも傷ついているのだとグローリアは気が付いた。




