85.よく、わかりましたわ
グローリアと王弟殿下はしばらくそのまま睨み合っていたが、先に目を逸らしたのはグローリアの方だった。
「よく、分かりましたわ」
目を逸らすと、グローリアはすん、と無表情になった。
「グローリア」
王弟殿下に呼ばれるているが、グローリアは完全に無視した。そうしてにっこりと笑い、ベンジャミンを振り返った。
「今日はそろそろお暇させていただきますわね、お聞かせくださってありがとうございました殿下」
「グローリア」
「ベンジャミン様、送ってくださいます?」
「グローリア!!」
グローリアの腕を掴み声を荒げた王弟殿下に、グローリアはついに振り返った。そうして苦く微笑むと、小さく首を横に振った。
「殿下。今日は無理ですわ。お願いです、頭を冷やさせてくださいませ」
じくじくと、グローリアの胸が痛んだ。喉元が詰まったようで、湧き上がる何かと一緒に何度も唾液を飲みこむが治らない。今にも唇が震えだしそうで、これ以上話を続けるのは無理だった。
――――拒絶、されてしまったわ。
王弟殿下と結婚したいわけでは無い、ただ、役に立ちたいのだ。そのはずだ。けれども王弟殿下の強い拒絶に、グローリアの中で何かがぱきりと折れた。今はもう、目を合わせることもしたくない。
「…………分かった。気をつけて帰れ」
焦点を合わせず微笑み続けるグローリアに、王弟殿下はため息を吐くと掴んでいた手を離した。グローリアはすかさず立ち上がると扉の前へと急ぎ、振り返ってとても綺麗な笑みを浮かべてカーテシーをした。
「はい、ありがとうございます。ごきげんよう」
グローリアが顔を上げると気づかわし気にグローリアを見つめるベンジャミンが隣で手を差し出してくれた。グローリアは苦く微笑みその手を取ると、ジェサイアが開けてくれた扉を振り返ることなくくぐった。
「グローリア……」
王弟殿下の小さな声が聞こえた気がしたが、グローリアは何も聞こえなかったことにした。
「グローリア様」
ぱたりと扉が閉まると同時にベンジャミンがグローリアに声を掛けた。
「お願い、何も言わないで」
今はまだ唇が震えてしまう。表情を取り繕うこともできず俯いたまま懇願するようにグローリアが言うと、ベンジャミンがとても小さくため息を吐いた。
「……とりあえず、御髪を少し失礼しても?」
そういえば、今日もまたぐしゃぐしゃと髪を乱されたままだった。頭を撫でる大きな手の感触を思い出しグローリアの胸がまたずきりと痛んだ。このままだと泣いてしまいそうで、グローリアはベンジャミンに背を向け委ねるように少し俯いた。
「ええ、お願いいたしますわ」
「お任せください」
しゅるりと、髪を結んでいたリボンが解かれる。グローリアの淡い金の髪がふわりと広がる感触がした。
「綺麗な御髪ですね」
「侍女たちの努力の結晶よ」
ユーニスをはじめとする侍女たちが毎日毎日丁寧に手入れをしてくれる髪は、あれだけ王弟殿下にかき混ぜられても櫛が通らなくなることは無い。長い髪がするりするりと梳かされ、その後はゆるゆると編まれていく。ほんの少しだけ引っ張られる感触としゅるしゅるとリボンを結ぶ音のあと、ベンジャミンから小さな手鏡を渡された。
「いかがでしょう?」
「ありがとう、相変わらずとても器用ね……」
もやもやと沈んでいた心が浮き上がる、というよりも若干引いたことでもやも一緒に少しばかり引いた。
二つに分けてサイドにゆるく編みこまれた髪は後ろの低い位置でひとつのシニョンにまとめられ、それがリボン一本でしっかりと留められている。ピンがないので後れ毛が出るが、それすら計算しつくされたようにグローリアを引き立てる。
よくもまぁリボン一本でここまで器用に美しく髪を結えるものだとグローリアは感心しつつもいっそ呆れた。
「いつでもお任せください。では、参りましょうか」
「ええ」
気が付けば涙もすっかり引っ込んでいる。グローリアは笑顔で差し出されたベンジャミンの手をにっこりと笑って取った。
何も言うなと言ったグローリアに気を使ってか、今日のベンジャミンは何も言わずにゆっくりと歩いていたが、王弟の執務室がある棟を抜けたあたりでベンジャミンが口を開いた。
「……お嫌いに、なりましたか」
前を向き、ぽつりと独り言を呟くように言ったベンジャミンにグローリアは笑った。きっとベンジャミンの独り言だとグローリアが切り捨ててしまえるようにあえてそうしたのだろう。
「何も言わないでと申しましたのに。ベンジャミン様らしくございませんわね?」
ふふ、とグローリアがベンジャミンと重ねているのとは反対の手を口元に当てるとベンジャミンの眉が下がった。
「申し訳ありません。ですが……」
いつものようにおどける様子が無い。珍しく言いあぐねるベンジャミンに、グローリアは更に笑った。
「ありえませんわよ」
「え?」
「嫌うなど、ありえませんわ」
「そう、ですか」
「はい。ただ、今は無理というだけですわ」
グローリアは笑みを浮かべ前を向いたまま首を小さく横に振った。グローリアが王弟殿下を嫌うことは無い。知ってしまったのだ、今更嫌うことなどできはしない。それはもちろん、王弟執務室の面々のこともだ。ほっとしたように息を吐くと、ベンジャミンが前を向いたまま言った。
「また、いらしてくださいますか?」
「ええ、もちろんですわ。頭が冷えましたら参ります。だって、いつでも受け入れて下さるのでしょう?」
「はい。いつでも、何でもです」
嘘つき、とグローリアは思った。




