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蘇える雪狼 美男横綱 吉葉山 潤之輔

作者: 滝 城太郎

吉葉山は横綱としては影が薄いが、大関、横綱へと昇進してゆく間の人気ぶりは後年の若貴をもしのぐものがあった。化粧褌を締めて土俵入りする姿はまるで錦絵のようだと謳われ、横綱としての見映えは男前の容貌と相まって、角界随一との声が高い。

 数ある優勝パレードの中でも吉葉山の雪中パレードほどドラマティックで感動的なものはなかったと言われる。史上初となる大雪の中での千秋楽という舞台効果も申し分ない中、全国の相撲ファンの悲願が達成されたのだ。昭和二十九年一月二十四日のことである。


 吉葉山こと池田潤之輔は北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)のにしん漁の網元の三男坊として生まれる。一家揃って大柄だったが、最も体格に恵まれたの潤之輔は、十五歳の時に青年団の一員として参加した陸上競技の郡大会で、砲丸投げ、走り高跳び、相撲の三種目に優勝し、道大会にも出場したほどの地元有数のアスリートだった。

 裕福な少年時代から一転、不漁続きで家業が傾いたため、高等小学校卒業後は北海道製糖に就職したが、本格的に学問を学びたいという気持ちが捨てきれず、昭和十三年、十八歳で上京した。

 ところが下車した上野駅で、偶然新弟子の上京を待ち構えていた高島部屋の若い衆から新弟子と間違われて部屋に連れて行かれたのが運のツキだった。幸い相撲の下地があり運動神経も抜群だったため、初土俵から四年八場所目に幕下優勝し、早々と関取の座を手に入れている。

 入門時の四股名は元の勤務先にちなんだ北糖山だったが、虫垂炎をこじらせて死にかかった時に命を救ってくれた医師の名にあやかって吉葉山と改めている。


 一八〇センチの上背に筋骨逞しい身体は、力士としては理想的で、早くから大関の器と評されていた。幕下時代には輝昇、三根山とともに高島部屋三羽烏と呼ばれ、彼らの活躍が小部屋だった高島部屋に隆盛をもたらした。入幕こそ輝昇、三根山、吉葉山と誕生日の遅い方が早かったが、最高位は吉葉山(横綱)、三根山(大関)、輝昇(関脇)と逆になっているところが面白い。

 当時、三人の中で最も期待されていたのは、入門が遅かったがゆえにこれから一気に巻き返すであろうと見られていた吉葉山であった。ところがまさにこれからという時に応召され、大きなブランクを作ってしまう。

 戦地で銃弾を浴び、一発は貫通銃創、二発目は摘出不可能というほどの重傷だったため、隊の仲間たちももはや助からないと思い込んだのか、いつの間にか吉葉山は戦死したという噂が広がり、高島部屋では褌を処分してしまった二十一年六月、突然吉葉山が復員してきた。

 逞しかった潤之輔が見る影もないほどがりがりに痩せていたので、ひょっこり家に帰ってきた時には、居合わせた家族はみんな幽霊が現れたかと思ったそうだ。

 

 とても相撲が取れる身体ではなかった吉葉山は、そこから飢えた狼のように食べまくり飲みまくり、二十二年夏場所前には以前に増して強靭な肉体を作り上げていた。

 応召による番付据え置きのため、本来昇進していたはずの十両四枚目からの再スタートだったが四年ものブランクを感じさせない見事な相撲ぶりで十両優勝(七勝一敗)を果たし、十両一場所で入幕にこぎつけた。

 元々地力があっただけに、肉付きが良くなるにつれて相撲もスケールを増し、遅ればせながら大関候補として再評価の声も高まってきた。ずば抜けた技巧は持たない代わりに欠点らしい欠点もなく、安定感のある相撲が持ち味だった。特に上位陣に強く、二十五年は三場所連続殊勲賞を受賞しているが、その内容も凄かった。

 東前頭三枚目で迎えた一月場所、吉葉山は汐ノ海、佐賀ノ花、増位山、千代ノ山の四大関を撃破し、相撲史上初の大関四タテを成し遂げると、五月場所、九月場所、二十六年一月場所とさらに三場所連続で三大関に勝利するというとんでもない記録を樹立しているのだ。関脇以下で対大関戦十三連勝というのはもちろん空前絶後である(この間の対横綱戦は四勝五敗)。

 この吉葉山の勢いに刺激されたのが、当時大関候補としてライバル関係にあった鏡里で、同じく二十五年一月場所に四大関、二十六年一月場所にも三大関を破り、対大関戦八連勝というこれまた素晴らしい記録を残している。

 一月場所は関脇の鏡里は直接対決で吉葉山に勝ち、成績も十一勝四敗で一つ勝ち星では上回っていながら三賞を逃しており、これはこれで椿事と言っていいかもしれないが、吉葉山は羽黒山からの金星も含めて八日目までに大関を四タテしており、九日目から大関戦を迎えた鏡里はインパクトという点では弱かったということなのだろう。

 また鏡里は二十四年十月場所にも史上四人目の三大関撃破を記録しているため、新顔の吉葉山の方により注目が集まったということも考えられる。後に綱を張るほどの力士であれば、平幕から三役時代にかけても横綱、大関に善戦していたであろうことは想像がつくが、この間の吉葉山の対大関戦十五勝五敗、鏡里の十三勝五敗というのは、若乃花(初代)の十三勝二十二敗、朝潮の十二勝二十五敗と比べても際立っている。

 上位キラーと恐れられ、大関三タテを三度記録した北の洋でさえ通算では十六勝三十二敗に過ぎず、毎場所のように上位を脅かす吉葉山と鏡里とは存在感が違っていた。

 横綱時代は下位に対する取りこぼしが多く、B級横綱の評価しか与えられていない吉葉山と鏡里だが、大関時代の下位に対する勝率は昭和以降の大関経験者の中ではともにトップクラスで、下位にとっては大きな壁だった。

 言い方を換えれば、この二人は三役から横綱に駆け上がってくるまでが力士として最も脂が乗っていたと言えそうだ。 


 新関脇となった二十五年秋場所は横綱照国との優勝決定戦に破れ、十三勝二敗で準優勝に終ったものの、ここまで四場所連続で二桁勝利挙げていることから、大関は通過点に過ぎず、横綱になるのも時間の問題と言われるまでになった。

 関脇ながら優勝候補の一人と期待された二十六年一月場所、本割りで照国と鏡里に敗れ、十三勝二敗でまたしても準優勝に終ったが、文句なしにライバル鏡里とともに大関に昇進した。三役二場所で大関というのは五ツ島以来となる昭和以降の最短記録だった。

 長いブランクがあるためすでに三十歳になっていたが、入幕から所要十場所で大関という勢いからして、このまま一気に駆け上るかと思いきや、しばらく足踏みが続き、ラッキーな大関昇進と見られていた鏡里の方が、二十八年初場所で初優勝と横綱の座を手に入れている。

 この場所途中休場した吉葉山は、ライバルの晴れ舞台を見せ付けられたのがよほどこたえたのだろう。毎晩浴びるほど飲んでいた酒をビール一本に制限して、体調管理に気を配るようになった。

 成果が現れた夏場所は十四勝一敗と久々に存在感を見せ付けたが、上位との対戦がなかった平幕の時津山に優勝をさらわれるという不運に泣いた。

 三度目の綱取りがかかった二十八年秋場所は、同期の三根山も大関に昇進し、いよいよ尻に火が点いたが、緊張で硬くなっていたのか初日から二連敗したのが響いて十一勝四敗で昇進は見送りとなった。せめてもの救いは優勝力士の東冨士に唯一の土を付け、地力では幕内最強という評価は揺らぎはしなかったことだろう。

 一方の鏡里も横綱昇進後はあまりいいところを見せられずにいたが、吉葉山と鏡里の取り組みは毎回熱戦を展開することから、常陸山と梅ヶ谷のライバル対決に匹敵するといわれるほどの人気があった。

 

 二十九年一月場所は悲運の大関にとって人生最大の晴れ舞台となった。

 初日から十四連勝で迎えた千秋楽の結び前の一番、対戦相手は十三勝一敗のライバル鏡里だった。

 同日の首都圏はこの時期には珍しいほどの降雪により交通機関が麻痺状態だったにもかかわらず、午後一時過ぎには蔵前国技館は満員札止めとなった。お目当てはもちろん吉葉山と鏡里の一番である。

 ここまでの対戦成績は吉葉山の七勝六敗だが、怪我の影響などで終盤に失速する傾向があるため、千秋楽の対戦に限ると一勝三敗と分が悪い。

 しかし気力が充実しているこの場所はいつもとは違っていた。得意の右四つから左の腕を返して鏡里の右を封じ、じりじりと前に出ながら慎重に寄り切った。場内大歓声の中、行司から勝ち名乗りを受ける吉葉山の目には涙が浮かんでいた。

 花道を戻っている時も涙が止まらない吉葉山は、興奮と感激のあまり、群がる記者たちの質問にも一言も答えることができず、支度部屋に入っていったが、こういう男泣きも男前の特権というべきが、実に絵になり、まだ千代の山と東冨士の結びの一番が残っているにもかかわらず、場内の興奮も一向に冷める様子がなかった。


 雪が舞い散る中での優勝パレードは、まるで吉葉山の疾風怒濤の土俵人生を象徴しているかのようで、これを見守る沿道の見物客たちの心を打った。

 力士としての吉葉山はこの優勝以降は怪我に泣かされ、優勝のない弱い横綱だったという印象を持たれがちである。腎臓病と糖尿病に関しては本人の不摂生に起因するものだが、度重なる両足首の捻挫は戦場で受けた銃弾の破片が足首に残っていたためで、横綱昇進後も、古傷の痛みがなくベストコンディションで土俵に上がった時の強さはまだまだ捨てたものではなかった。

 二場所連続休場の後、久々に皆勤した二十九年九月場所は初日から十一連勝し、ここまで一敗の栃錦を抑えて、優勝争いのトップに立っていたほどだ。

 横綱昇進から一年間(当時は年四場所)の通算成績は十六勝七敗に過ぎないが、一度の不戦勝と二度の不戦敗を除けば、勝率は七割五分に達しており、少なくとも進退をとやかく言われるほど横綱らしからぬ相撲は見せていない。その証拠に二十九年の年度末に挙行された第一回王座選手権大会(全十日制)では、見事優勝を果たしているのだ。

 王座選手権大会は、同門対決がない当時の本場所のルールとは異なり、同部屋対決を含む完全総当り制が採られている。このルールであれば、上位力士を多く抱える一門のアドバンテージが無くなるため、選手権優勝者こそ真の実力者と言えた。

 翌三十年も皆勤はたったの一場所ながら、試験的に始まった十一月の福岡場所(準本場所)では、十五戦全勝という圧倒的な力を見せており、本場所では約二年間優勝から遠ざかっていながら、評論家筋からは実力は現役随一というお墨付きを得ている。

 角界一の人気力士の全勝優勝が福岡場所の集客に大きな影響をもたらしたことは間違いない。翌三十一年もご当地九州出身の玉乃海の優勝によって再度の盛り上がりを見せたことが、三十二年から九州場所が本場所に昇格する決定的な要素になったことを考えれば、福岡場所の注目度を高めることになった吉葉山の優勝の意義は大きい。

 この優勝で自信を回復した吉葉山は、三十一年は四場所全て皆勤し、最後の九月場所では千秋楽まで鏡里と優勝争いを牽引した。勝てば優勝決定戦という大事な一番だったが、今度は鏡里が勝ち四度目の優勝を飾っている。

 しかし、この場所は両者にとっては最後の輝きだった。三十三年一月場所九日目に吉葉山が引退を表明すると、場所後には鏡里も後を追うかのように土俵を去っている。

 吉葉山は現役中に宮城野の年寄株を取得しており、すでに内弟子も取っていた。それが同じ道産子の明歩谷である。師匠譲りの怪力の持ち主であることから「起重機」の異名を取った明歩谷は、大鵬キラーとして恐れられた一方で、エキゾチックな容貌で女性人気も大鵬と二分するほどだったが、やや線が細く関脇止まりで終っている。

私が記憶している中で最も感動的だったのは、真っ向勝負で北の湖を破った貴乃花の初優勝である。しかし優勝といっても十三勝二敗と、成績は平凡だったのに比べると、吉葉山の全勝は盛り上がり方も一味違っていただろう。この瞬間を見ていた一万一千人のうち、何人くらいがこの時と感動を興奮を覚えているのだろうか。

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