2 8月31日(月) 44日目
とうとう8月31日になってしまった。明日から5日間、進級に関わる大切な試験が始まる。
私は家で一人になった時、再び信さんに電話をしてしまう。声が聞きたかった。電話を向こうは掌くんの声だった。兄弟でよく似た声だと思っていたけれど今は区別できる。「仙人さんですか? 一斤染ですけど信さんいますか?」
と言うと掌くんは、「信さんは保育園にいる」と言い電話番号を教えてくれた。「ありがとう」と言って切り、直ぐ保育園に掛けた。
信さんが出た。 小声で「一斤染です」と言うと、
「よくここの番号がわかったね」と言った。「掌くんが・・・」と言った。「あっ・・・」と発したあと、「信実ちゃんどうしたの?」と訊いた。(「どうしたの?」)は飛行機の中で信さんが(「信実ちゃんのお兄ちゃん、どうしたの?」)と訊いた時と主語は違うけれど同じ科白。兄のしたことの一因は同じ家族の私にあると責められていると感じた。血が繋がっているだけで罪であるみたいに。声が奪われて出てこない。どうしたらいいのか、わからない時は何も言えなくなるもの。暫く二人とも受話器の両側で無言が続いた。考えは巡るのに音が作れない。すると信さんが、
「もう掛けないでくれる」と言った。そして私の耳の奥で回線がプツンと切れた。
彼は私に迷惑していたんだと悟った。彼がアメリカで心配して気に掛けてくれたのは私ではなく私を含めて行った彼のアメリカ旅行だったんだと悟った。私は他人にとって取るに足りない人間なんだと悟った。もう彼に会うことはなくなって誰にも相談できないんだと悟った。私は彼を必要としていたのにと思う一方で、こうなることは初めから本当に初めから、わかっていた気がした。そして今、彼は私の人生から跡形もなく姿を消した・・・はずだった。
オークランドでの最後の日に豪華船から放たれた小さなボートの中にいると感じた私は今、豪華船とボートを繋ぐロープは切られ、小さなボートは泡のように消えたと感じた。私は黒く広い海の中一人投げ出されたんだと悟った。私もボートと一緒に細かい黒い泡のように消えてしまったら、どんなにいいかと思った。どんなに泣こうが助けてはもらえないんだなと悟った。ひとり。恐ろしい静けさ、そして孤独、これからは、ひとりぼっちなんだ。私は私が納得できる説明を求めていて、事実を教えて欲しかった。真実は自分で決められる。これから、どうしたらいいのか自分では決められない。
助けての一言がどうして言えなかったのだろう。
その日は8月31日。365日の中で一番、若者の自殺が多い日。そう知ったのは、その頃ではなく随分月日が経ってから世間で言われるようになった。もし私がそうなっていたら、真実を知る人はだれもいない。死んでしまった者は物。周りには音も色も何もない。




