第 3 章 1 電話と現実
昼近くまで眠り続け目が覚めた。白い壁、鮮やかな青の絨毯の見慣れた自分の部屋。違うところは部屋の入口を塞いでいるスーツケースだけ。昨夜、開けてそのままの状態。片付ける気には、ならない。二階の自分の部屋から階段を降りて、台所に行くと母が恐い顔をして私を見た。そしてこう言う。「肉桂先生から電話があって信実の様子を訊いてきた。一度、精神科で診てもらった方がいいと言っていた。家庭に問題があるのではと言っていた」と言い「失礼な人」と激怒していた。
私はあまりに母が恐くて、何も口にすることができなかった。家庭に問題がないとでも思っているのだろうか? 母の言葉が理解できない。ニック先生は信さんから私の兄がどうぼうした事を聞かされたので、家庭に問題があると話したのだろうか? 私は軽率にも話してしまったことを後悔した。
そして、この瞬間から一斤染家ではアメリカ旅行の話はタブーのようになった。
きっと母の目からは娘の私は息子の兄と比べていい思いばかりしていると写っていたのだろうと思う。大学に合格して大学生活を送りアメリカ旅行も3週間もして。そして一緒に行った人達に迷惑を掛けて帰ってきた娘にイライラしていたのだと今は思う。
でも私は行きたい大学が見つからず自分では満足に勉強できず、ただ受かった大学に行き、アメリカではイタズラのような事をされ消えてしまえるなら消えたいギリギリの精神状態なのに、だれに相談したらいいのか、わからなかった。その時一番話したかったのは確かに信さんだった。
固定電話しかない頃だったので母がいないのを確かめて書いてもらった手帖の信さんの連絡先に電話した。
電話の向こうは低く落ち着いた信さんの声だった。
「一斤染ですけど仙人さんですか? 信さんいますか?」と言った。「信実ちゃん?」と声が言った。「はい。信さんは旅行の片付け終わった?」と訊いた。
「仕事が溜まっているから昨日済ませた。信実ちゃんは?」と聞こえた。「何にもしていない」と言った。「学生は暇でいいな」と音がした。話が繋がっていないけれど、「こんど澪ちゃんの鰻やに一緒に行きませんか?」と誘った。
「仕事が溜まっているから行けない」と言われた。悲しく思ったけれど気を取り直して、
「大学の勉強が難しくて試験が心配で・・・」と言うと、
「僕もピアノの試験があるから頑張っている。信実ちゃんなら大丈夫。じゃ」と切れた。
私は彼に大学は辞めた方がいいと言って欲しかった。機内で京都女子短大にすれば良かったねと言ってくれたように、同じ言葉を言って欲しかった。
精神科で診てもらった方がいいとニック先生に言われ、自分の考えに全く自信がなくなり信さんを頼りにしていたのに望む言葉は聞けなかった。でも信さんが大丈夫と言うなら、今の大学で頑張ろうかなと思った。それが一番現実的なのだと思い直した。誰もが新しい行動をとる勇気があるわけではない。私にはなかった。
旅行の荷物を片付けることにした。カメラからフィルムを取り出し全部で3本を現像のため近所の写真店へ持って行った。
それから、お土産のマカダミアンナッツチョコを持ってスーツケースを返しに菰野屋へ行った。菰野屋の伯父さんの娘に何もお土産がなかったので、韓国で買ったミンクのイヤリングをあげることにした。 次の日に写真店へ写真を取りに行くとフィルムの入れ方が悪くて現像できなかったと言われた。アメリカ旅行の写真は見ることができなかった。私は本当にアメリカに居たのだろうか? と考えてしまう。写真が見たいのなら蜜やみどりさんに連絡を取り見せてもらえば済むことなのだけれど、そんな気にはならなかった。
みどりさんが通っているH大について調べてみると、H大には、そもそも大学院がなかった。紫根伯父さんの情報はやはり間違っていた。信さんは本人が言うとおり鳥取大学院生なのだろう。自分の部屋で、サンフランシスコで信さんと買ったシャツを見ていた。極似のシャツを着ていた信さんが頭に浮かぶ。もう先輩に渡す気分にはなれない。でも先輩に借りたノートは返そう。
そして、高校の友達の愛ちゃんに電話した。愛ちゃんは希望どおり先輩と同じT大学に通っている。先輩の様子が分かるかなと思い雑談後、訊いてみた。愛ちゃんは、
「先輩と同じ授業もあって私が挨拶すると、にっこりと挨拶してくれるよ。同じクラスの子で先輩をすごく好きな子がいて彼女は先輩と同じ部活に入ったよ。その子がものすごく綺麗な子で驚いている」と話した。愛ちゃんは同じ乗馬部のボーイフレンドできたと話した。愛ちゃんも先輩が好きだと思っていたけれど違っていた。時間が経てば、みんな変わっていく。当たり前。
そしてノートは郵送で返すことにした。小さなメモ用紙にありがとうとだけ書いて送った。
大学の友達に、お土産を買ってきたので渡そうと電話をして大学にレポートを提出する日を合わせ仲の良い四人で会うことにした。電話で懐かしい声を聞けて嬉しかった。
3日後、提出レポートとお土産を持って大学に行った。みんな髪が伸び、洗練され大人っぽくなっていた。私を除いて。部活の話や三人で行った金沢旅行の話など楽しそうに話してくれた。お土産にもらった蝶のブローチはとても綺麗だった。私もお土産を渡しアメリカ旅行の楽しい話だけをした。みんな喜んでくれた。試験の出題傾向を教えてもらって近くのピザ屋でランチして別れた。
私が属するべき場所は、ここなんだと思うようにした。たくさん遊んだ分、9月1日の試験まで猛勉強して全ての教科でいい成績を取ろうと気を引き締めた。
勉強体制を整えるためバイトを辞めた。もうお金を貯める必要はない。勉強し始めると、それなりに充実し、こんな生活も悪くないかなと思えてきた。
でも高校で習わなかった物理は、サッパリ理解できない。教授に相談すると高校の教科書を見直すのがいいよと教えてくれた。高校で物理を選択しなかった私は物理の教科書を持っていない。それで物理選択していた高校の友達に貸してもらうことにした。彼女の家に取りに行った。すると彼女が「信実、アメリカへ行っていたのだって。私もみどりさんから誘われたけれど転文して法学部を目指して
隠れ浪人しているからとても行けなかった」と言った。
隠れ浪人しているとは知らなかった。そんな方法があったんだ。と少し羨ましかった。でも私にはそんな勇気は湧いてこなかった。そして彼女もアメリカ旅行へ誘われていたとは驚いた。みんな何処かで繋がっている。
物理の勉強を基礎の基礎から始めた。9月1日の試験まで1週間しかない。勉強は物理だけでないのに大変だった。でも睡眠と食事以外は勉強時間に充てたので物理以外は大丈夫だろうと思えてきた。物理はよく分からない。きっと試験は不可になってしまう。どんなに注意深く読んでも理解できない箇所が多々ある。そして妙な考えが浮かんでしまう。気が
変になりそうです。助けてくださいと祈った。




