星のかまきり
それは、真夜中のことでした。
岩棚がどこまでも広がる地平線の上に、満天の星々が空に輝いています。風が吹き抜ける音が、遮るものの無い大地にこだまして、それ以外は誰の声も聞こえない、そこは寂しげな場所でした。地の果てまで見えるものはごつごつとした岩ばかりで、生き物の気配は感じられません。せいぜい岩の隙間から、枯れかけの草が風に弱弱しくなびいているくらいでした。
そして、そんな殺風景な大地とは正反対に、夜空には星達が、まるで自分たちが主役であるとでも言うように美しく輝いていました。たとえ海の波が大きな太陽に照らされても、どこかの国の王様の宝石箱をひっくり返したとしても、この夜空の星の輝きには敵わないだろうというくらい、光が散りばめられた夜空でした。
その中のある場所に、遠くを見渡せる少し高い岩場がありました。大きく空へ向かって斜めに突き出した岸壁が、大地に生えた巨大な角のようにそびえています。その角の端、岸壁の先端に、誰かが一人で座っていました。岩場のへり(・・)に腰掛け、星空を眺めています。足をぶらぶらと宙に遊ばせて、暇そうにただ空を見つめていました。
彼はもうずうっとそこに一人でそうして座っているのでした。尋ねる者も、辺りを通る者さえもおらず、悠久とも言える時間の中、一人夜空を眺めていました。
しかし、今夜は違うようです。そんな彼の傍に、もう一人、誰かが遠くから歩いてきました。薄汚れたマントに身を包み、吹きすさぶ風を防ぎながら歩いてきました。目深に被った帽子からは、顔を見る事が出来ません。やがて、岩場の近くまで来たその一人は、岩場に座っていた誰かに話し掛けます。
「やあ、こんばんは。今夜は風が冷たくて、体にこたえるね」
もう一人が答えました。
「そうかい。私にはよくわからないな。もう長いこと、ここにいるものだから」
マントを脱いで、その一人は岩場の上に登ってもいいかと尋ねました。
もう一人が構わないと伝えると、彼は帽子を取り、マントを担いで、岩場の上に登ってきました。登り終えると、彼は座っている背中に向かって話しかけました。
「君、星のかまきりだろう」
「そうだよ。君はだれ?」
「僕は流れの旅人さ」
旅人はそう言って、星のかまきりのすぐ近くに腰掛けました。かまきりは淡々と言いました。
「私を知っているんだね」
「君は僕の国ではそれは有名だったもの。他の国でもそうだと思うけど」
「そうかい。だけど暗号鍵を入れないと私は使えないよ」
「僕は野望も夢も持っていない。古代兵器を使う気なんか無いさ」
旅人が肩をすくめながらそう言うと、星のかまきりは安心した風に呟きました。
「ああ、そう。それはよかった」
その目はあいかわらず、空の星を映しています。
「よかった? おかしな事を言うな。兵器や武器は使ってこそ価値のあるものじゃないのかな?」
旅人が訊きました。かまきりはゆっくりと首を振ります。
「私はもう嫌なんだ。私を取り合って国同士が喧嘩をして、いくつもの国が消えてしまった。私の周りは争いばかりだ。もう、そんなものは見たくない。うんざりだ」
旅人は納得したように言いました。
「そうか。だから君はこんなところにいるんだね。誰もいない場所に」
「そうだよ。人間のいないここは楽園だ」
そう言いながら、星のかまきりは旅人を見ました。
「君はそう思わないか」
旅人は、楽園か、とかまきりの言葉を反芻します。
「もしかしたらそうかもしれないね。星が本当に綺麗だし、澄んだ空気に満ちている。だけどずっといるにはここは少し寂しすぎる気がするよ」
旅人は、岩棚の続く地平線を見つめながら言います。星の明るさで、遠くの山の端がうっすらと黒い輪郭を表していました。星のかまきりは少し黙り、そうだね、と言いました。
「少し寂しいよ」
かまきりは星を見上げ、そう呟きました。
「それは何だい」
旅人が指を差して尋ねました。星のかまきりの座っている場所の少し後ろ、岩場の陰に小石を積み上げた山がありました。土の小山のてっぺんには、手触りの良さそうな石が一つ載っています。
「そこには女の子が一人、眠っているんだ。もう随分前の話さ」
かまきりはそっけなく言いました。
「君の友達か?」
「今はもう違うよ。彼女はもうここにはいないからね」
「巻き込まれたのかい」
「戦争に? そうだよ。私の周りでは戦争ばかりが起きるんだ」
かまきりは無表情のまま、ただ少しだけ肩を竦めました。旅人はさらに言いつのります。
「いや、君の攻撃に巻き込まれたのか、ってことさ」
「まあ、そうとも言えるのかな。私と、私のいる街を狙った空襲から逃げ切れなかった」
「じゃあ、君がやったってことか?」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。被害者と加害者の境界線は曖昧だよ」
淡々と喋るかまきりに、旅人は段々険しい顔になりながら話しかけます。
「それでも、君という強大な兵器が無かったら、その街が焼けることは無かった。そう考えると、間接的に君は加害者であるよな」
「同時に私自身も危機に晒された。君の言うことが正しいなら、私は強大な力を持っているという理由だけで、それを狙う生き者全ての罪を引き受けなければならないのかな? 私自身の意志の如何に関わらず?」
「……」
黙り込む旅人を見て、かまきりが首を捻りました。
「奇妙だな。何故君はさっきから、私に罪を見い出そうとしてるんだ? 色々なことをなすり付けられたり糾弾されることには慣れっこだから、別に良いのだけど、一体君の目的は何だい?」
旅人は少し迷って俯き、しかし結局答えました。
「ごめん。旅人というのは、嘘だ」
そうして、目を伏せてかまきりに告げました。
「僕は君を造った国の人に、君を破壊しろと言われて来た」
星のかまきりは一瞬驚いた風に目を見開きましたが、やがて悟ったように呟きました。
「ああ、わかった。だから君は僕を破壊する正当な理由を持ちたいんだね。自分に悪意が無いと信じたいんだ」
旅人は答えられずにいましたが、かまきりは特にそれを責めるでもなく、一人うんうんと納得したように頷いて言いました。
「そうか。私はもう、要らなくなったんだね」
その声は悲しむ様子はなく、穏やかさに満ちています。
「ああ、よかった。世界は良くなった」
心の底から安心したようにそう言いました。それを聞いて、旅人は何故か自分の心が苦しくなるのを感じました。
「君は本当にそう思うか? 世界は良くなっているのかな」
「もちろんベストじゃない。しかしベターだと思うよ。この選択は」
そう言うかまきりを見て、旅人は黙って、自分の荷物から両手に収まるほどの丸い球体を取り出しました。
「これはとても強力な装置なんだ。君の装甲を、めちゃくちゃに壊す事が出来るくらいに」
顔を伏せてそれを差し出す旅人から、星のかまきりは大事そうに受け取ります。
「ありがとう」
旅人は驚いてかまきりを見ました。
「どうしたんだい?」
不思議に思ったかまきりが訊きます。
「お礼を言われるとは思っていなかった」
旅人は呆然として呟きました。
「今まで僕が装置を渡した機械達は、僕にお礼を言ったりはしなかった。君は僕を恨まないのか?」
躊躇いながらそう聞くと、かまきりは答えました。
「おかしな事を聞くね。人を恨むのは人だけだよ。それに」
空をまた見上げます。
「私はずっとあっちに行きたいと思っていたんだ。地上にいるより空に混じった方が寂しくないかもしれないから」
旅人は悲しそうな顔で、星のかまきりを見ました。かまきりは球体を胸に抱き抱え、立ち上がって旅人に言います。
「じゃあ、私は行くよ」
少しだけ笑いかけ、そして「最後にひとつだけ」と旅人に言いました。
「例えば私に何の罪が無いとしても、それで君が良心の呵責に苛むことは無いよ。私がいなくなった後、人が君をどう呼ぶかで、それを知ることが出来るだろう。さよなら、機械の殺し屋さん」
旅人に別れを告げると、星のかまきりは背中の羽を大きく広げ、夜空へと飛び立ちました。光の軌跡を描きながら、高く高く空を昇っていきます。その姿は見る見るうちに夜の闇に溶けていってしまいました。
旅人は、それを眺めていました。しばらくすると、星の散りばめられた空に、きらりと新たな星が一つ現れました。それは他のどの星よりも明るく、美しく瞬いた後、かすかな光になり、やがてもとの闇に消え去りました。
旅人はそれを見ていました。それが消えた後も、ずっと長い間、星空を見ていました。
しばらくしてもう一人、旅人と同じ格好をした人間が、岩場に歩いてきました。彼は旅人の姿を確認すると、手を振って走ってきます。
「やあ、君。見ていたよ。ついにやったな」
岩場に着いた男は、興奮しながら彼に話しかけました。旅人は沈んだ気分のまま答えます。
「わからないな。僕は何かを成し遂げたのかな?」
すると男は、きょとんとして、そして笑いだしました。
「何を言ってるんだ。君は英雄さ。凶悪兵器廃絶の第一人者として、世界中で褒め称えられるだろうよ」
それを聞いて、旅人は一人頷きました。
「なるほどね。彼の言う通りだ」
「何がだい?」
男は訳が分からない、という風に聞きました。旅人はそれには答えず、顔を泣きそうに歪めて再び夜空を見上げます。雲一つない星空は、いつもと変わらない美しさを保っていて、零れ落ちてきそうな様が、まるで涙の雫のようにも見えるのでした。