1輪
いつも通りの朝、いつも通りの風景、いつも通りの眼の霞み。
眼鏡をかけても大まかな色しか判別できないが、目を細めればなんとか活字ぐらいは読める。
今日も透明な鳥が僕の元に運んできてくれる封筒の蝋を外すことから始まる。
『春の国と冬の国の境目に【どんな願いも叶える少女がいる】という噂があるらしい』
全文を読むと手紙は消えてしまった。
『どんな願いも叶える』という字面に怪しさを感じると同時に同じぐらいの魅力がある。
そんな能力があれば、エピストゥラ家を蝕むこの原因不明の視力低下も治すことができるのだろうか。
そう考えて、やめた。やめたかった。何度も何度も希望を持って裏切られてきた。手紙を信じていないわけじゃないが、的中率は半々といったところだ。
「…朝食の前に少し書類を片付けるか」
今ここである程度処理できれば、噂の真偽を確かめる時間を作ることができるかもしれない。
寝巻きのまま自室にある仕事机に向かい書類にペンを走らせると部屋にノックの音が響いて、はいと短く返事をする。すると間もなく幼少期より見慣れた乳母が呆れた顔で入ってくる。
「おはようございます、ノア坊ちゃん」
「…坊ちゃんはよしてくれと何度も」
「また寝巻きのまま仕事なんてして!先にお顔を洗って身支度をしてからと何度も申しておりますのに一向に聞き入れてくださらないで」
と今年で21年の付き合いになる彼女バーバラは文句を言いながらベッドのシーツを直したり、カーテンと窓を開けたりと朝から忙しない。
もう50を過ぎて乳母ではなくメイド長になったのだが、パワフルさは衰えず健在である。
「そもそもまだ勤務時間ではないだろう。こんな早い時間に来ることはないと言っているんだがな」
「歳をとると嫌でも早く起きてしまうんですのよ。あー坊ちゃんが起きた事をお知らせしてくれないとずっと坊ちゃんの部屋の前の掃除しか出来なくて他の仕事が溜まってしまいます〜」
「…」
まぁこれもいつもの事だと思いながらバーバラに手渡された今日の朝刊に眼を向ける。
するとそこには、1年前に起きた事件『元ヴィンテル三家、キュアノス家の大罪』についての記事が記載されていた。
この世界には4つの国と2種類の人間がいる。春を象徴するヴェスナー、夏のエスターテ、秋のヘルフスト、冬のヴィンテル。
そして普通の何も持たない人間と、花の能力を持つ人間。
俗世の人々は前者をノーマル、後者をフロースと密かに呼んでいた。
そして各国を支える能力者達の中で最も強い力を持つと判断された家を「三家」と呼び、代々王に忠誠を誓ってきた。
キュアノス家は4カ国で決められた条約を破り、禁忌を犯したため、三家から外され没落の一途を辿ったのだ。
「世間はまだそんな事をやってるんですよ。もう残っているのはあの小さかったお嬢様しかいないのに、無駄に思い出させるような酷な事をして!」
そう、キュアノス家の血筋は皆亡くなってしまった。ただ1人の少女を除いて。
バーバラは僕たちが幼い頃にキュアノス家の娘と面識があり、両親と兄を亡くしまるで悪者のように新聞に書かれていると本人が知ったら悲しむだろうと思い腹を立てているようだ。
「そんな一度や二度会っただけの人間に対してよくそんな情が湧くな」
「それはそれはとっても可憐で美しくってオマケに性格も良いんですもの、自分の娘みたいですわ〜」
「バーバラからは可憐で美しい娘は生まれんだろうな、屈強な息子は生まれても」
「なんですって!」
冗談を言い合っているうちに身支度も終わる。
さて妹を迎えに行くかとドアに手を掛けると後ろから声が飛んでくる。
「坊ちゃん!ドアの前のお花、よろしく頼みますよ!」
「ああ、わかってる」
能力持ち…フロースの貴族には変なしきたりがある。起床し自室を出る際には部屋の前の花瓶に一輪、花を飾らなければならない。
今日も一輪、アネモネの花を挿して部屋を後にした。