【番外】彼女の視線の先【閑話】
テレンシア・フォリーンは、幼い頃より、皇太子妃としての教育を受けてきた少女である。王族によく似た赤色の髪に、ルビーのような瞳、凛とした美貌に完璧な淑女教育も相まって、彼女は近寄りがたいオーラを醸し出していた。
彼女はよくある令嬢の取り巻きが居ない。高位の貴族として、社交界において他の貴族令嬢と交流をとることはあったが、特定の誰かと友人関係になることはなかった。何故なら彼女はいつでも公明正大に振舞っていて、その凛としたたたずまいも相まって近寄りがたかったのだ。ゴマすり目的で近づいた令嬢たちも、テレンシアのとっつきにくさに離れて行った。
社交術は貴族社会においては、重要なスキルである。その点、テレンシアは茶会などでの対応についてはそつがないが、友人の一人もいない。逆に言えば、派閥を形成して社交界を牛耳るようなことは、テレンシアは行っていない。
淑女教育は完璧なのに、社交がうまくできないのは、王太子妃候補としては失格なのではないかと囁かれているくらいである。
テレンシア自身は、王太子の婚約者として、家柄も容姿も教養も問題がない。しかしそれでも、相応しくないと言われてしまうのは、妬みからくるものなのだろう。
テレンシアの足を引っ張ろうとする令嬢の間では、他の噂もある。テレンシアが、嫌々バシレイオスと婚約しているというものだ。
社交の場では、テレンシアとバシレイオスは常に一緒に行動してはいるが、テレンシアがそれを喜んでいる素振りを見せたことはない。いつも上品に微笑んではいるが、破顔したりはしゃいだりしたテレンシアの姿を、誰かが目撃したことはないのだ。それも、彼女らが婚約した10歳の頃からずっとである。
いくら淑女教育が完璧と言えど、幼い頃であればはしゃいだ様子を見せることだってあっただろうにそう言った噂がないのは、テレンシアがバシレイオスを慕って居ないからだというのだ。
もちろん、政略結婚であるふたりの間に、恋心が絶対に必要な訳ではない。しかし、王族の婚姻にケチをつけたい輩からすれば、本来必要のないことでさえ非難の対象になってしまうのだ。
そんな周囲からの評価により、魔法学園に入学した後もテレンシアの周囲には友人がいなかったし、表情も固かった。
ところがテレンシアは、変わったのである。聖女クレアが編入してきた頃から、テレンシアの雰囲気は柔らかくなった。
クレアの前では花がほころぶような笑顔を浮かべる。愛想笑いしかできないと陰口をたたかれていたテレンシアが、そんな風に笑うさまは、元々の容姿が優れているのも相まってとても目立った。
そのせいで、テレンシアはそれまでとは違った意味で注目を集めるようになったのである。そんなテレンシアがほんのり笑みをたたえて、何かを見つめている。愛想笑いではないその笑みは、彼女も気付かないうちに漏れ出た笑みのようだ。
視線の先を辿れば、バシレイオスが居た。テレンシアが一人で微笑んでどこかを見ている時、その視線を辿ればいつも必ずバシレイオスが居る。
何のことはない、彼女はバシレイオスだけを見ているのだ。ただし、それはそっと見つめているだけだったし、今まで彼女の視線の先など誰も気にしていなかったから、気付かれなかっただけだ。
その時はたまたま、バシレイオスの側近候補の男子学生が、彼女の目線に気付いた。彼は、意外そうな顔をした後に、バシレイオスに何事かを囁く。すると、バシレイオスの目線が、テレンシアに向いた。
瞬間に、バシレイオスとテレンシアの視線がかちあう。不意打ちを食らったテレンシアは顔を真っ赤にした。
今までこっそり見つめていても、決して交わる事のなかった視線が交わる。それだけで彼女が動揺するには充分だった。
恥ずかしそうにぱっと顔を背けたテレンシアの様子に、バシレイオスは驚く。バシレイオスの側に居る時のテレンシアは、常に堂々たる淑女であり、隣に居る時にそんな風に視線を外されたことは一度もない。
流石に王子と目が合った瞬間に顔を背けたのは不敬だと感じたのか、テレンシアはそろり、と視線を戻す。そして、控えめに微笑んだ彼女はバシレイオスにそっと手を上げて合図した。
頬を染めながらはにかむその仕草を、バシレイオスが見るのは初めてである。不意に、バシレイオスは心臓が跳ねるのを感じた。
何とかバシレイオスも手を挙げて微笑み返したが、それと同時にクレアがテレンシアの側に来たので、テレンシアの視線はバシレイオスからは外されてしまった。
その高鳴った胸の意味を、彼はまだ理解していない。それでもバシレイオスは、外された彼女の目線が、もう一度向けばいいのに、とぼんやり思うのであった。