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セロがバルシュミーデを地下牢に連れ込んでからというもの、聞くに耐えない絶叫が絶え間なく続いていたが、日が暮れた頃にようやく静かになった。
上階に上がってきたセロは、「悪いな。結構汚しちまった」と大して悪びれた様子も見せずに言った。
使用人が後片付けに牢へ降りたところ、青い顔をしてすぐに戻ってきた。
彼は、胃の中身を廊下にぶちまけた後で、「人間のやることじゃない」と吐き捨てた。
危機は去った。
だが、日常は戻らなかった。
アスカンの侵略によって、リュトヴィッツは領民の3分の1を失った。
重傷を負った生存者も含めると、およそ半数の領民が再起不能となった状況だ。
もはや、独立した所領として運営を続けるのは困難なほどのダメージだった。
そのような状況で、まるで見計ったかのようなタイミングで南のヴィッパードルフ領の”救援部隊”が到着した。
総員50名からなる大軍勢が町に踏み入ってくる様は、まるで進駐だった。
弱り目につけ込んでリュトヴィッツを支配下に置こうとする意図が明白だったが、戦災からの復興には彼らの協力が不可欠だったため、ヘレナはやむなく彼らを所領に受け入れた。
リュトヴィッツとアスカンの戦いは、結局のところ痛み分けで幕を閉じた。
リュトヴィッツは壊滅的な被害を被ったが、アスカンの受けた打撃もまた甚大だった。
領地こそ侵されてはいないものの、セロの手によって配下の騎士兵士は全滅。軍事力を丸ごと失ったのだ。
漁夫の利を得たのはヴィッパードルフである。
弱体化したリュトヴィッツとアスカンには、ヴィッパードルフの増長を抑える手段はない。
ヴィッパードルフはゲッティンゲンの大領主を名乗ることとなり、リュトヴィッツとアスカンは、その軍門に降った。
ヴィッパードルフ主導の講和会議が開かれた。
ヘレナは、自領の権益を守るために立ち回った。
大人の貴族たちを相手に、交渉の卓の上で必死に戦った。
その結果、領地の命脈ともいえる銅鉱山の利権は死守することができた。
これは、セロの存在が大きかった。
何の気紛れかは分からないが、彼は目的を遂げた後もリュトヴィッツに留まっていた。
たったひとりでアスカンの軍勢を殲滅した異常な戦闘能力の持ち主。それが、リュトヴィッツ領内に逗留している。
このことは、ヴィッパードルフとアスカンに対する強力な牽制になり、おかげでヘレナは多少なりとも話し合いを有利に進めることができた。
しかし、しばらくすると、復興しかけた領内に不穏な空気が流れ始めた。
今回の惨事について、ヘレナの領主代行としての責任を問う声が囁かれ始めたのである。アスカンと通じていた武器商人マイヤーにつけ込まれ、いたずらに領地を危険に晒したと。
実際、これは事実なので、ヘレナには反駁の余地がなかった。
一方で、進駐後、戦災復興に協力したヴィッパードルフに対して、領民は好意的だった。
やがて、ヴィッパードルフによる統治を望む声さえ囁かれるほどだった。
このような世論の流れの中で、ヴィッパードルフはヘレナの追放処分を提言した。
ヘレナに自ら当地を去るように迫ったのである。さもなければ、リュトヴィッツに対する援助を打ち切るという脅しつきで。
ヘレナが除かれれば、今のリュトヴィッツ家は政庁として完全な機能不全に陥る。父は人事不省の状態だ。
ヴィッパードルフは、代理の執政官を送り込むつもりでいるらしい。
そうなれば、いよいよリュトヴィッツはヴィッパードルフの委託統治領と化すことになる。
領地は容赦なく搾取されるだろう。
ヘレナは言葉を尽くし、領民たちに反ヴィッパードルフの共闘を呼びかけたが、応じる声はほとんどなかった。
領民たちは、明日のことを心配こそすれ、一月後のことを考える想像力がなかった。
ヘレナは精神的に追い詰められていった。
大人のやり方とは、こうも汚いものなのか。
政治とは、ここまで容赦なくやるものなのか。
民衆とは、これほどまでに愚かなのか。
疲れと苛立ちは日々募り、それが孤独感と合わさって耐えられないほどの負の感情を醸成し、ある日、弾けた。
アスカンからの賠償金の交渉が纏まり、領地が表面上の日常を少しずつ取り戻していく頃、ヘレナは城下町郊外の川のほとりにセロを呼び出した。
「何? 俺も暇じゃねぇんだけど」
月明かりの下、小岩に座りながら待っていたヘレナに、突然背後から声がかかる。
驚いて振り向くと、セロがいた。
足音もなく歩く身長2メルトの巨漢。つくづく猫科の猛獣を思わせる男だ。
「いや、あなたは今暇でしょ。ウチの客間で毎日食っちゃ寝してるだけじゃないの」
ヘレナは、じとりとした目をセロに向けた。
無駄を嫌うこの男が、何の目的もなくこのような辺境の地に留まり続ける理由は、ヘレナには分からない。
だが、そのおかげで、ヘレナは領地の権益を、少なくとも当面においては守ることができた。
今となっては、セロには感謝しかない。
ヘレナは金貨の入った小袋を取り出して、セロに手渡した。
「遅くなったけど、ベーオウルフ討伐の報酬よ。それと、領地を救ってくれたことのお礼」
「随分多いな。まぁ、もらえるものはいただくぜ」
セロは中身を確認し、袋を懐に収める。
月明かりの中で、せせらぎの音を聴きながら、ヘレナは息を吐いた。
「ねぇ。これで、私はあなたに借りを返したことになるのかな」
「あ? なるわけねーだろ」
セロの黒い双眸が眇められる。
「お前のおかげで、マイヤーからは何も聞けなかった。バルシュミーデからも大した情報を引き出せなかった。俺にとっちゃ、金に替えられん損失だ」
「そう。そうよね……」
ヘレナは足元に置いてあった銃を、ゆっくりと持ち上げた。
それは、アスカン兵の残したライフルであった。
「処分したんじゃねーのかよ」
セロが呆れたと言わんばかりにため息をつく。
領主会議の取り決めで、銃はすべて処分することが決められている。
協定違反であることは重々承知の上で、ヘレナは一丁だけ、このライフルを残しておいたのだ。弾も1発だけ装填されている。
ヘレナは銃口を自分自身の胸に当て、銃床をセロに向ける形で、ライフルを捧げ持つ。
「撃って。あなたにかけた迷惑を、私の命で償うわ」
「は?」
セロが怪訝な顔をする。
「そうでなくても、領地を危険に晒した愚は裁かれるべきだわ。どうやら、領民も私の失脚を望んでいるようだし」
貴族の少女は不貞腐れたように鼻を鳴らす。
マイヤーに拐かされ、領地を危険に晒した自分が、領民の信を失うのは当然のことだとヘレナは考えていた。
だが、肝心な時には手紙のひとつも返さなかったくせに、事が終わるや否や大挙して押し寄せ、リュトヴィッツを切り取ろうとしたヴィッパードルフのハゲタカども。
よりにもよって、あんなやつらを支持する領民たちの愚かさは度し難い。
自分が必死に領地を守ってきたのは何のためだったのか。
こんなことなら、初めからアスカンのやつらに膝を折っておけばよかった。
鼻の奥に熱いものを感じる。
知らずのうちに、目頭には悔し涙が溜まっていた。
「お前、死にたいの?」
平坦な声で、セロが問うてくる。
ヘレナは頷いた。
「あっそ。じゃあ、望み通りにしてやる」
セロの長い足が振り抜かれ、ヘレナが捧げ持っていたライフルが蹴り飛ばされる。
「えっ……」
突然のことに驚く間もなく、セロの大きな右手がヘレナの喉を鷲掴みにした。
信じられないほどの剛力が、体重の軽い少女の体を宙吊りにする。
「がっ!? あっ……ぅ」
気道が完全に圧迫され、息ができない。
首から上が鬱血し、かすれた声が漏れる。
セロの突然の暴挙に対する困惑と混乱、そして怒り。
とにかく、この状況から逃れようと、ヘレナは宙吊りの状態から蹴りを繰り出した。
体重の乗った前蹴りが、セロの腹に突き刺さる。
だが、小揺るぎもしない。まるで、岩を蹴っているかのような感覚だった。
圧倒的な肉体の力の差。絶対に逃れられないと分かった。
苦しい。苦しい。
息ができない。意識が遠のいていく。
死ぬ。殺される。
死にたくないと思った。
まだ生きたいと思った。
たとえ、どれほど無様でも、みじめでも、ただ生きたいと願った。
それは、生物としての根源的な本能だった。
突然、セロの指の力が弱まり、ヘレナは解放された。
地面に倒れると、喉を抑えて激しく咳き込む。
全身が痺れていた。
猛烈な寒気がする。
たった今、ヘレナは死に直面した。
それは、凄まじい恐怖の体験だった。
追い詰められた少女は、死に救いを見出した。
現世の苦しみからの逃避という甘美な夢を見た。
だが、死は決して救いなどではなかった。死神の手の冷たさは、ヘレナの想像を絶していた。
「ぅ、うぅ、……」
ヘレナは泣いた。
嗚咽を堪えることができなかった。
「なんで、私が、こんな目に合わなきゃいけないのよ」
領主貴族の家に生まれたというだけのこと。
ただ、それだけの不運のために、ヘレナは分不相応な責任を負わされた。
必死でやったが、結果は必ずしも伴わなかった。
そのために、ヘレナは敵からも味方からも批難されることとなった。
生まれによって伴った義務。
それを所与のものとして受け入れてきたが、今となっては自らの貴族という身分が呪いのように忌まわしく感じられた。
「貴族の家になんか、生まれたくなかった。外の世界を見て回りたかった。何で、私はこの土地に縛られなきゃいけないの」
「縛られてんのは、お前の勝手だろ」
セロが言った。
ヘレナは顔を上げる。
「そんなに嫌なら領主の仕事なんかやめればいい。別に、今なら誰も止めやしないさ」
「そんな……。だって、私には責任が」
「たった今、全部投げ出して自殺しようとしてたくせに、よく言うぜ」
ヘレナはぐうの根も出ずに押し黙る。
「外の世界に興味があるんだろ。だったら、旅でも何でもしてみればいいじゃねーか。お前ひ弱だから、すぐに死にそうだけど」
「う、うるさい」
絶望していたヘレナの心の中で、反骨心が首をもたげる。
このセロという男は、心身ともにボロボロの相手に向かって、よくもここまで遠慮のない物言いをするものだ。
だが、セロの言葉は痛烈ながらも魔力を帯びていた。
領地の外へ。
まだ行ったことのない場所へ行き、見たことのないものを見る。
何という素晴らしい誘惑だろう。
だが、自分には家族がいる。
仮に、すべての責任を投げ出したとしても、病床に伏せた父をひとり残していくことはできない。
「父を、置いていくことはできないわ」
「お前の親父な。ありゃ、重度の脳梗塞だぞ」
セロの言葉に、ヘレナは首を傾げる。
「脳……なに?」
「治る見込みのない病気ってこった。あの重症じゃ、回復は絶望的だな」
セロは地面に手をついた。
召喚魔法。
手のひらから影が滲み出し、その暗黒の水面から、異世界の物質が顕現する。
召喚されたのは、用途のわからない細く小さなガラス管だった。
一見したところペンのようにも見える。
だが、ペン先にあたる先端からは鋭い針が突き出しており、尾部には指で押し込むものと思しきプランジャがついている。針も含めた先端部分は、透明なケースに覆われていた。
「注射器だ。この針を腕の動脈に刺して、ピストンを押すと、中の薬が流れ込む」
セロは、その注射器をヘレナの前に置いた。
「薬……?」
「致死薬だ。投与から10秒で死に至る。苦しみもない」
ヘレナは戦慄する。
「そんな。あなたは、私にこれで父を殺せというの?」
セロは眉ひとつ動かさなかった。
「道具だけ貸してやる。どうするかは自分で決めろ」
ヘレナは怒りを覚えて、セロを睨んだ。
「肉親を殺せるはずがないじゃない!」
「そうか? 俺の旅の目的は実の姉を殺すことだがな」
セロは平坦な声で言った。
漆黒の双眸がヘレナを見据える。
「どっちにしろ、お前らリュトヴィッツ家はもう終わりだ。相対的に圧倒的な力を持つようになったヴィッパードルフには逆えん。お前がいくら頑張ってこの土地にしがみついたところで、お前ら親子は結局排除されるだろう」
だったらいっそ。
セロはそう言った。
ヘレナは注射器を拾い上げる。
月明かりを受けて妖しく光る針の先端から、ヘレナは目を離せなかった。
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何卒m(_ _)m