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リュトヴィッツ領は、ボリバル王国東部辺境にぽつんと佇む小領である。
平野部さえほとんどない山間に位置するが、銅鉱山を有しており、そこから上がる収益のおかげで領主領民ともにそこそこ豊かな暮らしができている。
領地の命脈ともいえるその銅鉱山に、怪物ベーオウルフが住みついて早2週間。
地元の騎士団に4名の犠牲者が出たところで、領主家は怪物に懸賞金をかけた。
討伐依頼に応じたのは、流れの冒険者だった。
その冒険者が、案内人の馬車に乗せられ、城下町を発ったのが朝方のこと。
馬車は太陽が中天に昇る頃に、冒険者を置き去りにしたまま帰ってきた。
「恐ろしいったらなかったわい!」
案内人の御者は、身を震わせて叫んだ。
「洞窟から300メルトは離れた時だ。あの怪物の吠え声は、まるで耳元で吠えられたみたいに聞こえてきた!」
御者は興奮しながら身振り手振りを交えて捲し立てた。
「なんて恐ろしい!」
「それじゃ、あの冒険者はやられちまったのかい」
「そりゃそうだ。まあ、しょうがない。武器らしい武器も持ってなかったもの」
「でも、大したガタイじゃったが」
「いくらガタイがよくても、怪物相手に丸腰では意味がねぇさね」
「何でぇ、怪物に餌をくれただけじゃないか」
城門前に集まった住民たちは落胆した。
「もう戻らんことは残念だが、なかなか気骨のある若人じゃった」
御者は項垂れながら呟いた。
わずかな時間ながらも、道中をともにした黒髪の若者の死を、彼は悼んだ。
「せめて、かの者の魂が安らかならんことを……エイメン」
「死んでねーよ」
御者の唱えたアリジス十字信教の聖句を、低い声が遮った。
「のわ!」
御者は、文字通り死者が蘇ったかのように驚いた。
いつの間にそこにいたのか。
件の冒険者が、人垣をかき分けて、ぬっと顔を出したのだ。
「あ、あんた。無事だったのか」
黒い短髪の大男は、「ああ」と短く相槌を打つ。
「それじゃ、あの怪物は、ベーオウルフは……」
「仕留めたよ」
彼はすげなくそう言い、奇妙な形をした荷袋を背から下ろした。
見たことも聞いたこともない真っ黒な布地で作られた背嚢だった。
太いハーネスが二本ついており、これを両肩にかけて背負う仕組みのようだ。
小さな金具を男が引くと、ジィー、という音とともに線状の留め具が開かれる。
ガサガサ、と聞き慣れない音とともに、背嚢の中から取り出されたのは、これまた見たことも聞いたこともないような、透明な袋だった。
そして、その袋の中には……
「わぁっ」
「ひぇ」
村人たちが息を呑む。
透明な袋の中に入っていたのは一対の耳だった。
普通の狼のそれを3倍ほどにしたかのような、巨大な耳。
針金のような黒い体毛で覆われており、槍の穂先のように先端が尖っている。
これは、紛れもなくベーオウルフの耳だ。
この若者は、かの怪物をたったひとりで討ち取ったのだ。
皆が呆気にとられる中、大男は初老の御者に向かって、透明な袋に入った耳を差し出した。
御者は、びくりとしながら、それを受け取る。
大男はおもむろに口を開いた。
「じーさん。悪いけど、それ、領主の城に届けてくれない?」
「え?」
「この町の宿にいるからよ。報奨金の用意ができたら城に呼ぶよう、伝えてくれ」
大男はそう言い残すと、背嚢を背負い直した。
その大きな背中が、人垣をかき分けて、城下町唯一の宿を目指して歩き去っていく。
不思議な男だった。
200セルチに迫るほどの背丈がありながら、巨漢特有の鈍重さはまったく感じさせない。
動きのひとつひとつが、猫科の猛獣のようにしなやかなのだ。
相当に強いのだろう、ということは荒事に無縁な御者にもよく分かる。
現に、騎士を4人も食い殺すような怪物を単身で仕留めてのけたのだ。
だが、それほどの手柄を立てたにも関わらず、威張るようなことはまったくしない。
ただの平凡な初老の御者相手にも、誠意のある物言いをしてくれる。
「あ、あんた」
御者は思わず声をかけた。
「悪かったな。山に置き去りにしちまって」
大男は軽く右手を挙げて、御者に応えた。
男はセロといった。
ある目的のために、諸国を旅している。
稼業は冒険者。
怪物の討伐、未踏の地の探訪、果ては傭兵働きまで、報酬次第で何でも請け負うやくざな商売だ。
ボリバル王国の東部辺境に位置するリュトヴィッツ領で、ベーオウルフの討伐を請け負った。
首尾よく怪物を退治したはいいが、丸一日が経っても領主家からの使いの者はやってこなかった。
小さな酒場の角の席で、水で薄めた蒸留酒を傾けながら、セロは息を吐いた。
「やれやれ。よくこんなに飲めるもんだ。ザルにもほどがあるよ」
恰幅のいい女将が、新しい酒瓶をセロの卓に置いた。
「薄め過ぎてビール以下の度数になった酒で酔うわけねーだろ」
セロは木製の杯に並々と注がれた酒を一息であおる。
この店の水割りときたら、酒と水の比率が1対5だ。
「お客相手に説教するつもりもないけどさ。日がな一日ひとりで飲んでちゃつまらなくないのかい?」
腰に手を当てて呆れ顔をする中年の女将。
セロは反応を示すことなく酒を傾け続ける。
セロがこの宿に居着いてから2日になる。
ベーオウルフを仕留めた英雄に対して、当初村人たちは興味津々だった。
領地の外からやって来る旅人の話は、閉鎖的な山間の辺境に暮らす人々にとっては大層な娯楽である。
腕の立つ冒険者ともなれば、なおさらだ。
しかし、このセロという男は石のように無口な人間だった。
何を聞いても碌な返答をしない大男に対して、村人の興味は次第に薄れてゆき、今ではこの通りの孤立ぶりである。
「ま、お金を落としてくれるなら、あたしは文句ないんだけどさ」
6分の1に薄めた酒で、取る代金は大都市の人気店並みだ。
この2日で、セロはかなりの金額をこの店に落としていた。
セロはふと杯を置き、顔を上げた。
同時に、店の扉が不意に開く。
「いらっしゃ……」
入ってきた集団を見て、女将は言葉を失った。
ガチャガチャと金属の擦れる音を立てながら押し入ってきたのは、鎧を着込んだ騎士の集団だった。
その数9名。
騎士たちは、短槍の穂先を並べてセロの卓を取り囲んだ。
「冒険者セロ」
若い女の声が、セロの名を呼ばわった。
屈強な騎士たちの間から、ひとりの少女がセロの前に進み出る。
ウェーブロングの赤い髪は、逆巻く炎を思わせる。
赤銅色の瞳は、頑なな意思力を湛えている。
白い肌は陶磁器のように滑らかだ。
小ぶりな鼻、桃色の唇、細い眉、それらがツンと尖った角度を描いている。
だが、冷淡な印象はまったくない。
花の開ききらぬ少女の、あどけなさの残る顔立ちが、敵愾心に溢れた表情の中に本人が意図しない愛嬌を添えてしまっているのだ。
身に纏っているのは若草色のドレス。
アリジス十字信教のクロスを首から下げていた。
貴族。
一目でそうだと分かる。
髪肌の艶のよさ、身なり、纏う雰囲気。何もかもが、平民とは一線を画している。
「へ、ヘレナ様」
宿の女将は狼狽えた声で、少女の名を呼んだ。
ヘレナ・フォン・リュトヴィッツ。
セロは名前だけを知っていた。
当地を治めるリュトヴィッツ家の長女である。
そのヘレナが、厳かに言葉を次ぐ。
「あなたを、我が領民に対する殺人の容疑で拘束するわ」
「なっ……」
ヘレナの宣言を聞いて瞠目したのは、セロではなく宿の女将だった。
「ま、待ってください。この男は、ベーオウルフを倒した英雄なんですよ。どうしてそんな……」
「その怪物を仕留めた得物が問題なんじゃよ」
女将に応えたのはヘレナではなく、宿の入り口からひょっこりと姿を現した初老の男だった。
セロを坑道の入り口まで案内した、あの御者である。
「ベーオウルフは、銃で殺されておった」
御者の言葉に女将は顔色を無くす。
銃。
店内で事の成り行きを見守っていた者たちは、その単語を聞いた瞬間に色めきたった。
「銃! 銃だって?」
「そんな、まさか」
「じゃあ、あいつが……」
セロは周囲をジロリと見廻してから、ヘレナに視線を据えた。
「話が見えねーな。何だってんだ?」
「このひと月の間に、領内の至る所で、銃による殺人事件が起こってるわ」
ヘレナはセロの獣のような眼光を真っ直ぐに受け止めて言った。
小柄な少女だった。
その上背は、椅子に座っているセロと同じくらいしかない。
短躯をピンと反らし、淑やかな胸を精一杯に張っている。
「そんなタイミングで、銃を使う冒険者がやってきた。捨て置くわけにはいかないわ」
ヘレナの断固とした言葉を、セロは表情もなく聞く。
「なぁ、あんた。どうか大人しく従ってくれ」
初老の御者が口を挟んだ。
「もし、あんたが無関係なら、きちんと話せば誤解も解けるはずさ」
セロは鼻を鳴らした。
槍を向けてくる相手を信用するというのも無茶な話だ。
「いいぜ」
だが、セロは頷いた。
「それで、あんたらの気が済むなら、好きにしたらいい」
セロを取り囲む騎士たちが互いに顔を見合わせる。
冒険者などというやくざ者が、存外な物分かりのよさを見せたことに困惑しているようだ。
「そ、そう。いいわ。素直じゃない」
困惑は、貴族のご令嬢も同様のようだった。
一悶着は避けられないと構えてきていたのだろう。
何せ、注文通りに怪物討伐をやり遂げた相手に対し、報酬を与えるどころか召し取ろうというのである。
このような仕打ちをされたら、反発しない方がおかしいというものだ。
だが、実のところ、セロは腹など立ててはいなかった。
なぜなら、今のところ、ことの全ては彼の思い通りに推移しているのだから。
セロが、おもむろに立ち上がる。
2メルトに迫る巨躯が直立すると、騎士たちも含め、この場の誰もがセロのことを見上げる格好となった。
「じゃ、行こうぜ。話は早い方がいい」
流れの冒険者と、9人もの騎士を引き連れた領主家の令嬢。
果たして、場の主導権はどちらにあるのか。傍から見守る初老の御者には判じかねた。
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