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痩せた老馬に曳かれたボロ馬車が、山道を登っていく。
御者台で手綱を握る初老の男は緊張した面持ちだ。
彼は額に汗を滴らせながら、荷台の乗客に振り返った。
「あんた、本気なのかい?」
御者は思わず固い声で聞いた。
「何が?」
がたがた揺れる荷台に座る乗客が返した。
御者はため息をついた。
「今からでも遅くない。引き返そうじゃないか」
乗客は「何で?」と返してくる。
御者は再びため息をついた。
奇妙な客だった。
身長200セルチに迫る大男だ。黒い短髪。年の頃は20代の半ばといったところだろうか。
まず、格好が奇妙だ。
どんな素材から作られているのか……滑らかな質感のフード付きの黒いチェニック。
上着と同色の、大きなポケットをいくつも付けたズボン。
褐色のブーツは革製ではなく、何やら随分と分厚い正体不明の布地で出来ている。
上下の衣服、履物ともに奇抜な見た目ではあるが、拵えはしっかりとした上質なものであるように見受けられる。
男は寸鉄も帯びていないようだ。
丸腰の旅人などというのは、この末法の世では、鍋を背負ったガチョウのようなものである。
アリジス十字信教の巡礼者ですら、街道を行く時は懐にナイフを忍ばせるものだ。
百歩譲って、もし彼が非武装非暴力主義者だというのなら、御者とてその信念をなじるつもりはない。
しかし、この男は平和主義からはほど遠い、冒険者というやくざ者。
そして、今まさに、領主家によって多額の懸賞金がかけられた、極めて危険な害獣の退治に赴くところなのだ。
だというのに、この緊張感のなさはどうだろう。
坂道の勾配が緩むと、風がほのかに生臭くなった。
御者はいよいよ緊張に身を強張らせる。
領主家の騎士を4人も食い殺した怪物……人食いの巨狼ベーオウルフが住み着いた坑道の入り口に近づいてきたのだ。
「や、やっぱり引き返そう。無謀だよ」
御者が手綱を引こうとすると、節くれ立った大きな手がそれを抑えた。
「落ち着け」
気負いも緊張も感じさせない声だった。
その石のように重い声音に引きづられるように、御者は思わず動きを止めた。
「あんたは俺を入り口まで運ぶだけだ。用が済んだら、すぐに麓まで引き返して構わん」
御者は振り返った。
荷台の男と目が合う。
黒い瞳だった。
その底の知れない眼光の前に、御者は反駁の言葉を飲み込んだ。
「ほら、行けよ」
男の精悍な顔立ちには表情がなかった。
決して恫喝しているわけでないにも関わらず、彼の言葉には有無を言わせぬ圧力があった。
御者は無言のまま、手綱を繰って馬車を前に進めた。
やがて、切り立った岩肌にぽっかりと口を開けた坑道の入り口が、視界の先に現れた。
「ここまででいい」
男はそう言うと、荷台から飛び降りた。
「わ、悪いが、わしはここにはおれん。あんたの言う通り、麓で待たせてもらうぞ」
手綱を引いて馬車を反転させる御者に対して、男は振り返ることもせず、洞窟に向かってずんずんと歩を進めていく。
行きの2倍の速度で坂道を降る御者は、ほどなくベーオウルフの咆哮を耳にした。
グオオォン!
すでに洞窟から数百メルトは離れたにも関わらず、ここまではっきりと吠え声が聞こえてくるとは! 何という化け物だろうか。
あの若者、気の毒だが命はあるまい。
タン、タタン……!
怪物の咆哮に呼応するかのように、薪が爆ぜ割れるような乾いた破裂音が連続して響いた。
再びベーオウルフが吠え、奇妙な破裂音が呼応する。
その後、もう一度応酬があり、それきり山間に静寂が訪れた。
どうやら、若者は食われてしまったようだ。
御者はそう結論づけ、麓で待つ約束を反故にし、一目散に城下町へと逃げ帰った。
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