第六話 Vの哲学者
それ以来、一度も口を利こうとしないナナの態度は、悠人を深く気落ちさせた。帰りの道での沈黙はどうにも耐え難く、特に、ガレージへ帰ってからのそれは、七年にも亘り培われて来た、悠人の自動車整備の手並みをも酷く鈍らせた。
元来、他人に依存しようとしない性質の悠人は、一人で居る事も苦にはならない。そして、それは今も変わらない筈だった。しかし、この一週間、学校に居た時間以外の殆どをナナと共に過ごして来たせいで、彼女がぱたりと現れなくなった今と言う時間に、強烈な違和感を抱かずには居られない。
落ち込んだままの悠人がRX‐7の整備を終えた頃には、工場の柱に掛けられた時計の針は、二本ともが真上を指し示していた。一連の作業に、普段の倍はかけたのではないだろうか?常日頃から丁寧な作業を心掛けている悠人にしてみれば、決戦前とは言え特段作業に気遣いを増した訳ではない。ただ、ボルトを狭い所へ落としてみたり、工具箱に足を掛けて引っ繰り返してみたりと、滅多にしない様なミスを幾度も重ねた。
手袋を外し、ツナギになっている作業着のジッパーを腰まで下げると、腕が抜かれだらりと下がった袖同士をへその辺りで結び、下に着ていたシャツをばたつかせて扇いだ。
「ふぅ、暑ぅっ…………シャワー浴びてから行った方が良いかな」
呟く自分の言葉にふと気が付き、RX‐7を見遣る。こんな何気無い独り言にも、何かしらの反応を示した筈のナナだが、今はやはり返事が無い。滲む汗で、白いシャツが肌に纏わり付き、一見華奢に見える悠人の、存外引き締まった胸板を露わにした。
そうしてRX‐7の前にぼんやり立っていたところで、スーツ姿の着崩れた源一郎が、ふらりとやってきた。
「おぉ、灯りが点いてたから来てみりゃ、ゆうちゃん、こんな時間までそいつを弄ってたのかぁ」
頬が赤く陽気な面持ちの源一郎は、一目で酒を飲んで来た事の分かる足取りであった。
「あ、おじさん、おかえりなさい。集まりの後は飲み会だったんだ?」
「ん?あぁ、飲んで来た。皆、気の良い連中なんだが、この景気の悪さのせいで愚痴が多くてな。『愚痴る間に一軒でも営業に回りやがれ』ってぇ、説教垂れて来たわ」
尊大な物言いの様で、その実、奥に寂しさを秘めた表情が、悠人には痛々しく見えた。
「そっか。どこも大変なんだ……」
自分の生まれ育った土地が、昨今の景気低迷を受けて苦しんでいる。なんと口惜しい事か。
「本当に、ウチの場合はゆうちゃんのおかげで保っている様なものだからなぁ」
梶モータース繁盛振りは、この地域にして稀有なものであった。子供の頃から工場を手伝って来た悠人に対して、始めこそ、その様子を危険視する客も多かったが、次第にその仕事の確かさから、店の評判を高めるまでになった。危険度の高くない仕事であれば、悠人一人に任せ、源一郎は周辺の商店や工場、その他企業を訪問して回り、車検整備などを受注して来る。こうして、二人三脚の営業が梶モータースの屋台骨となっているのだ。
「そんな事無いよ。おじさんの外回り有ってこそだから……」
「謙遜するな。現に、そこのフィットも、むこうのラパンも、あそこのベリーサ、……あぁ、そっちのBM(W)だって、女性客で常連になってんのは、ほとんどがゆうちゃん目当てだ」
RX‐7の隣のピットに置かれた車両や、工場の外に並べられている車両を、それぞれの方向に顎を突き出して指し示した。
確かに、何人かの女性客から食事に誘われたり、高価そうなプレゼントを渡されたりした経験は有る。その度毎に、自分が未成年である事を理由に、「分不相応なプレゼントは受け取れない」と丁重に断ってはいるが、そういう客は相変わらず、走行距離五百キロメートル毎にエンジンオイルの交換に来るなど、無用に入庫頻度が高い。
「兎に角、ウチはゆうちゃん有っての梶モータースだ。それは変わらない。だからな、前にも言ったが……あまり無茶はするなよ…………」
『工場の為に悠人に居て欲しい』などと言う前置きは、いかにも昭和の男らしい、照れを隠す口実だ。
「何と言っても怜奈の弟だからな、走りに行くなとは言わない。むしろ、俺達夫婦に気を遣っても欲しくない。ただ、ゆうちゃんは怜奈の分まで目一杯人生を謳歌しなくちゃならない。なのに、今、ゆうちゃんの身に何か遇ったら……」
こうして本音を隠しきれない事もまた、人情厚さの表れとも言える。言葉に出来ない感情が込み上げたのか、酒酔いで赤い鼻を啜り上げて、ふいと自宅へ帰って行ってしまった。
知ってたんだ……二人ともが寝静まった頃に出かけてたのに。……そっか、おじさんならタイヤの減り具合でお見通しだもんな。
玄関へ入って行く源一郎の背を見詰め、悠斗は誓う。
絶対、無事に帰ろう。そして、走りに行くのは今夜で終わりにするんだっ。
使った工具類を片づけて自分も自室に帰ると、一時間程の仮眠をとってから、入浴と身支度を済ませた。
午前三時。三敷峠麓の自動販売機前。
「ナナ。今夜は、いつもより『それっぽいクルマ』が多いと思わない……?」
約束の時間を直前に控えても、やはり、ナナは答えようとはしなかった。
この場所までは、主要な道を信号で折れてからずっと一本道であったが、その道へ入った途端、路肩が広くなっている様な場所には全て、何かしら車両が停まっていた。大きなウィングスポイラーを着けたスカイラインGT‐R、180SXのフロント部分がシルビアのものに変更された俗に言うシルエイティ、ロールケージで固められたシビックフェリオRS、インプレッサWRX、ランサーエボリューション、アルテッツァ……など、名を挙げればキリも無く、深夜に多く出没する走り屋と呼ばれる者達ですら、普段ならばその数が減り始める時間だと言うのにである。
「変に活気があるな……」
そこへ、聞き覚えの有る甲高いエンジン音が、似たエンジン音を幾つも引き連れて来た。その全てには共通点がある。ボンネットに輝く『H』と、車体のどこかしらにある『V‐PHILOSOPHERS』の文字だ。
「待たせたな、雌豹の弟」
路肩へ綺麗に並べられたこの一団の車両は、どれもがホンダ車だった。インテグラや、アコード、シビックのセダンやハッチバックなど、VTECエンジンを搭載した車両ばかりで、その中でも先頭の黒いインテグラタイプRから降りて来たのが、あの酒井である。
「済まん。こいつらがどうしても付いて来ると言ってきかなくてな」
「いえ、僕も来たばかりですから」
ふと、酒井の背後に視線を向けると、十人程度の走り屋風男性が集まっていた。難しい顔をした者も居れば、へらへらした表情の者も居るが、不思議とどの男にも凄みを感じる。
「初めましてっ。俺は、『ブイ・フィロソファース』の遠藤っす。今日はスターターをさせて貰いますからヨロシク」
「……あっ、初めまして。速水悠人です」
酒井の後ろに居た小柄で坊主頭の男が、悠人に自己紹介をして来た。慌てて自分も名乗ったが、それによって、うっかり、酒井には名乗っていなかった事に気が付いた。
「ああ、私も宜しく頼む、悠人君」
悠人の気まずそうな様子を察して、酒井がそう声を掛ける。悠人は、その少しの遣り取りに酒井の人柄が顕れている様な気がした。
対照的に、遠藤の視線には敵意を感じずには居られない。身体全体を舐める様に見られ、居心地の悪さが襲って来る。
「酒井さん、本当にこんなガキ……じゃなかった、こんなお子様とバトルするんですかぁ?」
言い換えてもなお敵意を感じさせる遠藤の言葉は、悠人をすっかり黙らせてしまった。
「遠藤っ、その言葉には哲学が感じられん。我々は公道の哲学者だ。非礼を詫びたまえっ」
「おっと、いけね。コース作りの段取りして来ますね、じゃっ!」
言い終えるより早く、骸骨の絵がプリントされたTシャツをひらひらさせて、仲間の群れへ帰って行ってしまった。
「重ね重ね申し訳無い。あいつはこのチームに誇りを持っていてね、『ブイ・フィロソファースが舐められた』とでも思っているのだろう」
呆れ顔を見せる酒井だが、彼にしてみれば「気持ちは解る」と言ったところだろう。現に彼も、最初は「私に失礼だ」と答えている。
「よし、ぼちぼち準備が出来た様だ。行こう」
準備とは、走りに来た他の走り屋達を勝負に支障の無い場所で待機する様誘導したり、決戦の舞台となる峠道に一般車両や、落石などの危険が無い事の確認、タイムを計る人員の配置など、違法な行為とは言え彼等なりの段取りやルールが有るらしい。
「……でも、なんか今夜は人が多いですけれど、大丈夫でしょうか?」
先程から気になっている人の多さ。主にこの峠の走り屋達の様だが、この一週間で最も多い。この状況で、無関係な者を巻き込む事故が起きたりしないか、心配でならない。
「ああ、ウチの連中が安全な場所へ誘導している」
「そうですか……有難う御座います。でも、どうして普段の週末より人が多いのでしょうね?」
決して全国的にメジャーなワインディングスポットであるとは言えない三敷峠は、二十台も居れば多いと感じるが、今夜は五十台強は居る。
「あぁ、遠藤がそこらじゅうに触れ回ったらしい。……つまり、私達のバトルを観に来たギャラリーだ」
「なっ……どうしてっ……?」
ただでさえ公道レースが初めての悠人には、非常に大きなプレッシャーだ。その事を表情から窺い知った酒井は、こう続けた。
「気にする事は無い。それは、雌豹が居ない今、私がこの峠で最速だからだ」
そう言い放った酒井は、愛車へと乗り込んで行った。