小説と実験
実験というものはどういう風に行われるだろうか。自分は科学には暗いのだが、おそらく科学者は何らかの予想とか、仮説を用意してから実験に挑むのだろう。散乱したデータだけが出てきても困るから、それらのデータに何の意味があるのか、やる前にある程度の検討をしておく。その後に、実験をして、仮説通りなら仮説が正しいと証明されるし、そうでなければ、まだ未知のものがあるとわかる。そんな風に科学者はやっているのではないか。
いきなり、不得手な科学の話を持ち出したのには理由がある。「小説」というのは、科学実験に似ている部分があるとか思うからで、これは以前にも少し書いた話だが、もう少し考えが進んだと思うので、それについて書きたい。
ドストエフスキーという作家がいて、これが当時のロシア社会を水槽に見立て、その内部で何が起こるのか見ようとする。その中心に、自己の絶対性に取り憑かれた青年を置く。この青年は、大義の為に人を殺すのを良しとして、実際に殺してしまう。さて、この青年に何が起こるのか。
この時、ドストエフスキーは最初に仮説を立てておかなくてはならない。こう話を進めると、誰しも気づかれるだろうが、小説の場合、仮説を立てるのも、実験するのも、実験されるのも、みな作者の中にある部分がそれぞれに活動するわけである。この中で一番重要なのはどこかと言われれば、それは仮説の部分だろう。この仮説の部分を徹底的に作り上げておくのができておらず、恣意的に実験を操作して仮説に合わせてしまうと、読者に不自然という印象を与える事になるだろう。仮説が色々な実験の結果を先回りしておく必要がある。
今はこういう風に整理したが、実際には、作家には書き損じ、失敗作というのはたくさんある。最も、ただ受ける事しか念頭にない作家には失敗作も成功作もないのだが、そういう作家の事は今は考えない。ドストエフスキーのような作家でも、十分に、現実を把握しえるような仮説を育てるのに随分と時間がかかった。ドストエフスキーが自己に誠実でなかった事は大局的に見ればないだろうが、それでも随分と時間がかかった。
実験の比喩に戻る。ドストエフスキーという作家が立てた仮説というのは、研究から大体わかっている。それは「キリストこそがこの世で最も美しい存在と考える」という事で、早い話が「キリスト教・神」であるが、これを単に一つのイデオロギーと見る視点では何も見えてこない。
小説というジャンルで、実験されるのは、基本的には「現実」であろう。現実というのはリアリズムという意味での現実だから、ジョージ・オーウェルのディストピア小説は十分、リアリズム的小説と言えると考えている。この場合、今のエンタメ作品でやられているような、作品世界を読者の都合の良いように捻じ曲げるという操作は、短期間は心地よさを与えるだろうが、結局現実はそんなにぬるくはないので、そういう作品は長持ちしない。
さて、小説は現実から抽出したリアリティ、リアリズムを自分の水槽、実験台の上に置いて、実験する。その際、作家は何を暴こうとして実験するのか。これはややこしい話だが、仮に「真実」としておこう。ではその真実とはどんなものだろうか。
「罪と罰」において、作者ドストエフスキーは、主人公・ラスコーリニコフを何重にも苦しめるような方向性を取る。ラスコーリニコフが殺人を犯した内面的苦しみを何度も何度も味わうように、作品を形作っていく。しかし、この方向性に、作者が作品を作る事できたのは、実際の所、作者がその先にある答えを握ったと確信していたからだった。つまり、ここは、絶対的な理論を導き出したと確信した科学者が、徹底的な、できる限り異様な、例外的な、究極的な結果が出そうな、そういう実験をあえてしているという風に見れる。それというのは、もはやこの学者はどんな異様な結果が出ても自分の理論の範囲に収まると安心しているからだ。
では実験の結果はどうなっただろうか。作者はある程度の答えを得たように思われる。つまり、読者ーー僕らから見ても、不自然とは思えないレベルで、作者の情熱に乗って作品のラストまで辿り着く事ができた。そう思われる。この場合、この道筋は、作者が実人生で歩いた道がベースになっていると、後から僕らは知る事ができる。これは、最初は水槽の中の魚であった作者、ただ実人生を混沌の中で生きるしかなかった作者が成長し、その外側に出て、水槽の中の生物を見守り、観測する立場にまで大きくなったものと見る事ができる。
もう一度、基本の話に戻ろう。ドストエフスキーのような巨大な作家というのは、フィクションによって何をしようとしているのかと言うと、現実そのものを抑えようとしているわけである。ここで、現実を抑えようとするのは、人間の限界を見極めるという感覚に近い。人間のつまらない所を抑えても仕方ないわけだ。
小説とか映画の中で描かれる人物は、まずある程度のリアリティを持って、論理的に描かれる必要がある。そうでなければ、「実験」にならない。現実の人間はきっとこうに違いない、と思わせるようなものでなければならないが、しかし実際には、多くの人は現実を見ていない。実際に見た話をそのままエッセイに書いたら「嘘くさい、そんな事はありえない」と言われた経験が自分にはある。これと同じ事は実際には全般的に起こっているわけである。そこで、作家はこの問題を軽く見てはならないだろう。この実験台の内部において人間を徹底的に描いていくというのはそんなに甘い話ではない。現実には良い人ばかりではないが、悪い人ばかりでもない。しかし仮に良い人ばかりでも、「悪」がなくなるという事もないだろう。
だが、同時に、現実そのものを抑える、つまり、現実の人間の様々な混沌、運動を知悉し、把握する理論ーーつまり、実験前における仮説の創設というのも、作家には重要な仕事となる。おそらくはこちらの方が重要であろう。
村上春樹などは、人間の把握に関しては、消費社会内部の雰囲気内で十分収束できるし、その路線で理解できると考えているようだ。これはこれで一つの考えだが、それは十分な答えとは自分は思っていない。
ドストエフスキーは「神・キリスト」という仮説を念頭に置いた。何故、神のようなものかと言うと、それが一番超越的な、つまりは人間の限界の外側に位置するものとしてあるからだろう。この場合、そういう神が存在するか否か?と問うのは問題のすり替えでしかない。人間とは何か、と考えようとした時、その人間の行為を徹底的に描いていく。神はいない、己しかいない、いかなる悪も良心に照らして可能である。こんな徹底した考えを持つ人間を、徹底的に描けるのは、実際にはそれを包摂する概念を念頭に置いている人間に限られる。それがドストエフスキーという作家という事になるだろう。
北森嘉蔵という宗教家のドストエフスキー論を読んでいたく感銘を受けたが、ドストエフスキーが、人間を徹底的に描く為には、神という超越的な存在を思考する必要があると言っていた。これはわかりやすい比喩で、例えば、物体の輪郭をなぞろうとするとどうしてもその外側のものも視野に入ってくるという話である。「どこからどこまでが海か?」と問われれば、どうしても陸とか空とか、海ではないものが視野に入ってくる。その、海でないものが超越的な存在=神であり、海が人間である、というような事を北森は言っている。これは全く当を得た答えに思える。
まとめると、小説創作を科学実験と捉えるなら、まず、作品にはある程度のリアリティ、リアリズムが必要となってくる。各キャラクターがどうなっていくのか、読者にそれほど不自然と思わせないような進行をしていく技術が必要だ。これは純粋に技術の話と言えるだろうが、これは実験をうまく進めていく技術に近い。
しかし、それだけでは実験巧者というだけになる。ドストエフスキーのように、キャラクターに極端な圧力をかけて、キャラクターにどのような突飛な活動も許す、つまり、普通の作家だととても扱えないような凶暴なキャラクターを扱う為には、それを扱う為の透徹とした理論が必要となる。ドストエフスキーはこの理論を何十年とかけて念入りに作り上げたのだろう。
この徹底した理論、例えば神というような、徹底した認識、そういう上方から見た時、始めてドストエフスキーの凶暴なリアリズムが花開く事になる。普通の作品に僕らが見るのは、作者の現実を描く力の弱さである。現実を絶えず都合の良いように描こうとする意志であり、この意志は様々なものを矮小化してしまう。その為に非常に小さな世界だけができあがる事になる。
現実というのは理不尽なものである。小説は、理不尽ではない、つまりは解決可能な問題に関してはおそらく取り扱わないし、取り扱う必要もないだろう、と自分は思っている。例えば、我々の生活がいかに楽になったかを示すために、延々、日常生活を描く作品というのは、あまりおもしろくもないし、素晴らしいとも感じないだろう。
エンタメ作品というのは、言ってみれば、科学者の恣意によって実験を改ざんするようなものだろう。自分達の望む小さな答えを予め用意しておき、そこに合うように、作品内の歩調も合わせる。今はこうした作品が天下を取っていて、それはそれで構わないが、それらに対して反駁するのは僕のような拗ね者ではなく、現実であろう。いくら好き嫌いが全てと言っても、現実の不条理さと理不尽さがこれらの作品を否定的に乗り越えていくだろう。
ではドストエフスキーのような偉大な作家は何を究明しようとしたのだろうか? それは人間の底の底、その徹底性であり、その為に、作者は「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」などでああいう極端な設定、プロットを用意したわけである。だから、現代の作家が、人殺しの話を書いただけでドストエフスキーに近くなれるというのは、趣旨が違うという印象を受ける。
そうではなく、ドストエフスキーが究明したかったのは、彼が書簡で言った通り「神の問題」なのだ。それだからこそ、その反対の、人間=悪、といった問題を作品内部で全面的に展開する必要があった。ドストエフスキーという特異な科学者はそんな実験を行ったのだと自分は思う。こういう、人間の極限を描く事、僕らはそれを見て何を思うかといえば、それは自分達の可能性の先まで歩いていった一人の探求者が発見できたという事だろう。そういう意味では、僕らは作品を見ている者というより、むしろ作品内部にいる人間に近い。
しかしもちろん、ドストエフスキーの時代から現実は変化したわけだから、多少の変化はある。それは計算に入れなくてはならないだろう。ただ、はっきりしているのは、現実に耽溺している人間には現実を徹底的に描くのは無理だという事である。一つの作品を作るにも、様々なものの限界をはっきりと見据える必要がある。そうしてそのような認識、人間に深い認識をもたらしてくれるのは苦悩にほかならないと自分は思っている。苦悩の底に神がいる、その底の光から見て、ドストエフスキーは人間の存在を徹底して描いた。
ちなみに言えば(ここでは展開できなかったが)、こういう人間存在を描くには、資本主義的な世界、つまり人間の自由さとともにその個人的な悪が全面的に展開される世界が好都合なのだろうと思う。そこで、「個」は自由を求めて己の限界まで到達しようとするからだ。そういう意味では、現在の混沌とした、荒廃した世界は、人間の極限を描くには好都合な世界かもしれないと、希望的に観測する事もできる。しかしそういう作家は今の所出てきてはいない。そういう人間がこの先出てくるであろうと自分は勝手に希望を持ちたいと思っている。ドストエフスキーもバルザックもシェイクスピアも、自由の空気の中で、極限に達そうとした個人を徹底的に描いたのだと、見る事もできるだろう。それは彼ら優れた文学者が個々に自分の人生をかけた壮大な「実験」であった。