天国と地獄
「おい、兄ちゃん。いい加減起きぃや。……あかん。全っ然、目ェ覚ましよらんわ」
はっきりしないユウイチの意識に、知らない男の声が聞こえる。口調は軽いが、野太い、ドスの利いた声だった。
ここはどこだ……? 何が起きた……?
状況を整理しようと記憶を辿るユウイチの頭にフラッシュバックするのは、例のミカエルという天使の顔ばかり。やかましく登場し、不機嫌になり、また元気になったり、豹変したように歪んだ笑顔を見せ、最後は困惑し、自分はそれを見ながら……そうだ、穴に呑み込まれたのだった。穴に飲まれ始めた時に聞こえた声と、今聞こえた声は同じに聞こえた。
呑み込まれた先がどこなのかを確認するために体を起こした瞬間、冷水を顔にぶつけられた。驚いて叫んだユウイチに例の声が近づいてくる。
「おう、すまんすまん。起きとったんかいな。せやけど、自分が悪いんやで。えっらい長いこと寝くさって」
「ここは一体……?」
「ここか? ここは、お前達人間が地獄と呼ぶ場所や。ほんで、ワシらは悪魔っちゅうわけや」
天使の次は悪魔かとユウイチはげんなりした。とはいえ死んだ人間を生き返らせるほどの天使の力を目の当たりにし、その存在を信じた後では、悪魔の存在もまた信じざるを得なかった。
濡れた顔をぬぐって周囲を見渡す。地獄は薄暗い鍾乳洞のような場所で、そこかしこで燃え盛る炎だけが光源のようだ。家やビルのような建築物は一切見られず、代わりに岩盤が点在していて、ユウイチの背後にも一際大きな岩盤がそびえ立っていた。前方ではガラの悪そうな男達が弧を描いてユウイチを取り囲んでいる。そしてユウイチのそばでいわゆるヤンキー座りをしている一際ガラの悪そうな男が、さっきからの声の主のようだった。
四角い強面を斜めに走る傷痕が右目を潰している。羽織っただけの衣服から覗く胸や腕は剛毛で、筋肉質なその体は人間のそれと比べても特に変わったところはなかった。唯一、浮かせた尻から垂れるしっぽだけが悪魔らしさを演出していた。
「ワシはイルマンっちゅうんや、よろしゅうな。それにしても兄ちゃん、やってくれたのぉ。まさか天界の扉を開きよるとは」
強面の悪魔・イルマンに睨まれたユウイチはたじろいて、座ったまま後ずさるも岩盤に行く手を阻まれた。どうすることもできず固まるユウイチを無言で睨みつけていた悪魔だったが、やがてフッと息を吐き、「まあ状況もわかってない兄ちゃんに言うてもしゃーないけどのぉ」と言いながら立ち上がり、言葉を続けた。
「昔、兄ちゃんが生まれるよりもずっと昔。地獄と天界は、人間界すなわち地上をどっちの領分にするかで長いこと争っとった。なかなか決着がつかんことにしびれを切らした向こうの親分とこっちの親分は直接話し合いで解決を図ることにしたんや。長い話し合いの末、現状人間の住処である地上のことは、人間の意志に委ねるという事で話は決まった。随分妥協したやろうが、争いで互いに消耗も激しかったし、しゃーなしやの」
イルマンは、周りを取り囲む悪魔の一人に「おい」と促した。彼らはイルマンの手下なのだろう。小走りで駆け寄った手下の一人が取り出した何かをイルマンが咥えると、手下はそれに火をつけた。白い煙がイルマンの口から噴き出す。
ユウイチにはタバコのようなものに見えた。というより、タバコそのものにしか見えなかった。悪魔の間でもタバコが流通しているのか。いや、タバコは悪魔から人間にもたらされたのだったか。
困惑するユウイチに背を向けながらもイルマンは続ける。
「地上に通じる天界の扉、地獄の扉は両方閉ざされて、人間が願った時にしか開かへんっちゅう制約がかけられた。先にこの扉を開けられた方が地上を自分らの領分にする権利も得るっちゅうことになったが、こっから先が大変やった。というのも、お前達人間は悪魔や天使を自分らの空想の産物やと思い込んどる。地獄や天界の存在すらよう知らん。そんな人間が、扉を開けることを願うなんてまずありえへん。実際どんだけ待っても地獄や天界の扉を開くことを願う人間なんて現れんかった。そこで、見かねた親分達はもういっぺん話し合って新たなルールを作った」
ユウイチに向き直ったイルマンはそこで少し言葉を休めた。どこか昔を懐かしむんでいるようにも見える。やがて大きな煙を吐き出すと続きを語り始めた。
「天使も悪魔も、お前らの時間で100年に一度、一人の人間の願いを3つ叶えに行くことができるっちゅうルールや。人間の意志を待つだけやのうて、悪魔や天使の側から願いを促せるようになった。ただ何でもありやと有無を言わさず、強制的に扉開かせたらええことになるから、それを防ぐために細かい制約も作られた」
再びユウイチのそばにしゃがみこんだイルマンは指折り数えながらユウイチに話す。
「一つに、願いの数は増やせへん。二つめは、嘘を言う事の禁止。三つめは、人間が悩むまで提案はできん。四つめは、願いはその人間自身のためのものであること。これだけや」
ユウイチが記憶を辿ると、確かにミカエルもその制約の中で動いていた。『天界の扉を開く』というユウイチの願いも、『天使に惚れられる』という願いの前提条件とすれば、四つめの制約にも引っかからない。
「最初は時間の問題やと思った。こっちからの提案が完全に禁止されてない以上、ちょっとでも人間が悩んだらうまく言いくるめればええだけやからの。ただ、ワシらは見誤っとった。お前ら人間の欲深さをな」
怒気を孕んだ声で言い切ったイルマンはユウイチを忌々し気に睨みつけ、彼の顔に向かって煙を吐き出した。
「お前ら人間は3つの願いなんざすぐ使い果たしてまう。そのどれもが下らん私利私欲ばっかりでワシら悪魔は呆れ果てた。だから随分長いこと、悪魔は人間の願いを叶えに行ってない。天使も呆れとんのは同じやとは思うが、どういうわけかあのミカエルとかいう天使がしつこく粘っとった。で、今回見事、お前を言いくるめて天界の扉を開けたっちゅうわけや」
今の話が本当なら、途中からサボり始めた悪魔の側にも責任があるのでは、とユウイチは考えたが口に出すと何をされたものかわからない。吐きかけた言葉を飲み込んだユウイチにイルマンは落胆した様子で、
「おかげでうちの親分の面目は丸つぶれや。娘があんなことになった上、地上まで向こうに取られてまうとはな」
娘? 地獄の主であるサタンにも娘がいるのか。どんな姿をしているのだろう。イルマンやその手下のように、人間と大して変わらないのだろうか。いや、悪魔の頂点に立つサタンの娘だ。さぞ人間離れした、おぞましい外見の娘なのだろうとユウイチが想像力を働かせていると、手下の悪魔が鎖の音をさせた何かを連れてきた。
「これが、親分の令嬢や」