大天使ミカエル
――10年前、7月2日。
その日はユウイチの17歳の誕生日だった。にもかかわらず家路を辿る彼の表情は暗かった。
原因の一つが、ユウイチの通う高校は今期末考査の真っ最中で、明日は彼のもっとも苦手とする数学のテストがあるということ。
もう一つが、誕生日だというのに家に帰っても祝ってくれる人が誰もいないということだ。
ユウイチに兄弟はいない。父は出張に行っていて今日も帰ってこない。母は、彼の大好きだった母は5年前に交通事故で他界した。
歩きながら幼いころにできた左手の火傷の痕を眺める。日に日に薄くなっていくその痕は、もうぱっと見では認識できないほどになっていた。普通なら喜ぶべきことなのかもしれないが、彼には名残惜しかった。この火傷の痕が、彼と母親との一番の思い出なのだ。
ユウイチが小学生にもならない頃、幼かった彼は好奇心からポットに手を伸ばした。それを見つけた母が慌てて駆け寄ったが、もう湯沸かし器は倒れる寸前で母は抱きかかえるようにしてユウイチをかばった。倒れた反動でふたの開いたポットから熱湯が飛び出し、二人を襲った。
ユウイチは左手に、母も右手にやけどを負った。もし母がかばってくれなかったらユウイチの顔には今でも火傷の痕が残っていたに違いない。
応急処置は施されたが結果的に二人の手には痕が残った。ユウイチは幼心にかっこ悪いと感じていたが、母が火傷の痕を見せながら「お揃いだね」と微笑みかけてくれた時から、ユウイチにとって火傷の痕は宝物になった。
それから数年後、母が交通事故で死んだと知らされた時、ユウイチは自分が半分失われたように感じた。お揃いの一方が欠けてしまったのだ。
その日以来、ユウイチの心の空白は埋まることはなく、何をしてもどこか空虚なものを感じてしまい、心の底から感情を動かされることがなくなった。
「さて……」
家の前に辿り着いてポケットを探る。財布に入れた玄関の鍵を取り出して差し込んだ時、背後から照り付けていた夏の日差しが急に陰った。
雲一つない青空だと思ったけどおかしいな。雨が降りそうなら洗濯物を取り込まないと。
天気の様子を窺うため振り返ったユウイチの目に映った空にはやはり雲は浮かんでいなかった。代わりに太陽とユウイチの間に浮かんでいたそれは、徐々にユウイチの元へ近づきつつあった。よく見ようと太陽の光に手をかざす。
人、か……? 羽の生えた……女の子?
後光に差されながらふわふわと降りてくる少女。空のような淡い青色の長髪と、雲のように白い羽。空から降ってくるにはちょうどいい色彩だった。
状況を飲み込めないまま立ち尽くしているユウイチに、頭上2メートルまで迫った羽の生えた少女が元気にしゃべり始めた。
「ハロハロー! 大天使ミカエル様だよーっ!! おめでとう少年! 世紀に一度の大チャンスが君の元に舞い降りた!」
ビシッと指をさされたユウイチだったが反応のしようがなかった。天使だって……? 彼女が徒歩で現れたなら間違いなく無視しているところだったが、空から降りてくるとはどういう事だろう。もしかして、本当に天使なのだろうか。それとも何か仕掛けでもあるのだろうか。いや、しかし……。
黙り込んであれこれ考え始めたユウイチの思考を遮るかのようにミカエルは大声で続けた。
「とにかく! なんでも願い事を言ってみて! 人間なら、願い事くらいあるよね? 三つまでなら叶えてあげるからさ!」
「願い事……?」
「そうそう! やっと喋ってくれたね。聞こえてないのかと思ったよ。そう、願い事」
ユウイチが返事をしたことで少し落ち着いたミカエルは、まさに地に足をつけてから付け加えた。
「あー、ただ『願い事の数を増やす』ってのはダメだよ。私もそうしてあげたいところなんだけど、それだけはできないみたいなんだ、ごめんね」と、ミカエルはウインクしながら謝った。
この天使、本当に信用できるのだろうか。そもそも本当に天使なのかもわからない。ともかく、一つ願い事を言って確かめてみよう。
ユウイチは何にするか少し考えた後、左手の火傷痕に目を止めた。
――そうだ。この願いを叶えてくれるなら天使でも神でも信じてやる。
「母さん」
「ん?」
「母さんを生き返らせてくれ。5年前に死んでしまった、俺の母さんを」
言ってからユウイチは後悔した。馬鹿げている。死んだ人間が生き返るなんてありえない。きっと目の前の少女は俺を笑いものにするつもりでやってきたんだ。天使を信じて母親の復活を願う哀れな男子高校生だと。どこかにカメラを隠し持っていてSNSで拡散するつも 「それでいいの?」
「……え?」
「それでいいのかって聞いてんの」
ミカエルは苛立たし気にユウイチを睨んだ。たじろぎながらも「もちろん」とユウイチが答えると、何やらぶつぶつ文句を言いながら空中に指で走り書きをし始めた。最後に空に向かって指を掲げると、
「はい、叶ったはずだよ。家にでもいるんじゃない? 入って確かめてくるといいよ」
なぜかご機嫌斜めになったミカエルはぶっきらぼうにそう勧めた。
「本当に……本当に叶ったのか?」
「嘘をつくことは禁止されてるんだよ。まったく、グダグダ言ってないで確かめてくればいいじゃん。まだ二つ残ってるんだし、さっさと戻ってきてよね」
不機嫌に拍車がかかり何だか口まで悪くなってきたので、ユウイチはとにかく家に入って確認してみることにした。
このドアを開けた先に母さんがいるかもしれない。そう考えただけで玄関の鍵を開ける手が汗ばむ。心臓の鼓動も早まる。
意を決してユウイチはドアを開けた。誰もいない。家の中には静寂が漂っている。どこかの部屋にいるのだろうか。振り返ってミカエルを見ると、うるさい虫でも追い払うかのように彼女は手を振った。早く行けとのことだ。
まずは居間を覗いてみた。誰もいない。キッチンにも人影はない。トイレかもと思ってノックをしてみるが返事はない。父の寝室にも入ってみたが同じことだった。
ため息をついてユウイチはキッチンに戻った。冷蔵庫から取り出したお茶を一気に飲み干す。
熱中症かもしれない。だから天使の幻覚なんかみたんだ。明日クラスメイトにする笑い話のネタにするか。案外ウケるかもしれない。さあ、水分も摂ったし、明日のテストに備えて少しでも勉強するか。赤点だけは避けたいからな。
自室のドアを開けてカバンを床に放り投げた瞬間、部屋の奥から「こら!」という声が聞こえてユウイチは固まってしまった。もう二度と聞けないと思っていた、懐かしい声だった。固まったままのユウイチに声の主は続ける。
「カバンを投げちゃダメでしょ。それと、帰ったらただいまって言いなさいって何度言ったらわかるの? 手も洗ってないんでしょ。部屋もこんなに散らかして……ユウイチ? 聞いてるの?」
涙が流れたのは、矢継ぎ早な説教を受けたためじゃない。どんなに願ってももう会えないと思っていた人がそこにいたからだ。
「母さん!」
ユウイチは母に駆け寄って抱きついた。
会いたかった思いの分だけ何度も何度も母さんと呼び続けた。
もう会えないと自分に言い聞かせてきた分だけ強く強く抱きしめた。
「もう、どうしたの急に甘えて。高校生にもなって……困った子」
呆れたように言いながらも、その口調は優しかった。厳しい物言いになることもあるが基本的には優しい母。彼女は火傷痕のある右手でユウイチの頭を撫でた。
ユウイチとしてはいつまでもそうしていたかったが、しばらくして母がユウイチをゆっくり引き離した。
「お母さんは夕飯の支度があるから。ユウイチも早く手を洗って勉強しなさい。明日もテストでしょ」
母はそう言い残してキッチンへと歩いて行った。ユウイチは幸福感と泣きつかれたのとでベッドに倒れこんだ。まさか母さんが生き返るなんて。最高の誕生日になった。神様ありがとう! ……それにしてもどうして生き返ったんだったかな。
しばらく考えて、ようやく思い出した。あまりの幸福に直前の記憶が飛んでいた。神様より先に、神の使いに感謝を述べないといけないのだった。
玄関に向かって走るユウイチに、キッチンから「ちょっと、どこにいくの」と母の声が呼びかける。「すぐに戻るよ!」とだけ答えて家を出た。母の顔を見ることもなく。
後悔とはいつも、先に立たないものなのだ。