9.心の奥で触れ合って
四日後の火曜日。
今日は冴島テクニカルシステムズの生け込みの日。
冴島さんは先週の土曜日から昨日までの三日間、出張だった。
野上さんたちに相談した翌日の夜。つまり出張前日に電話があって少しだけ話せた。けれど瑠璃さんの件は言わなかった。やはりプライベートで直接会ったときに話したい。目を見て、真実を聞きたい。
いつものようにエレベーターで最上階に着くと、小山田さんに挨拶をする。
「社長は不在です。役員会議室もこの時間の予約は入っておりませんので、いつでもどうぞ」
「わかりました。では作業をはじめさせていただきます。よろしくお願いします」
小山田さんは秘書室に戻り、わたしも自分の仕事に取りかかる。
十月に入り、街並みも、人々のファッションもだいぶ秋色に染まってきたように思う。
今日はイエローのピンクッションとオレンジのエピデンドラムを使い、華やかな雰囲気を出しながら秋も感じられるようなデザイン。
ピンクッションは手芸で使う針を刺すための針立て(ピンクッション)が名前の由来で、見た目も針のような突起が特徴だ。エピデンドラムはラン科の植物で、多数の小さな花をつける。
「よし、できた」
冴島さんも気に入ってくれるだろうか。
知り合って一ヶ月ほど。けれど、まだそれしか経っていないことが不思議に思えるくらい、わたしは彼に夢中になっている。密度の濃い時間だったのは間違いない。
だけどそれだけはなくて、彼はわたしのなかに強烈なインパクトを残し、会えない時間もわたしの心のなかに住み続けているのだ。
ふとしたときに思い出す。仕事が終わってほっとしたとき、おいしいものを食べたとき、花を買ってくださったお客様に「ありがとう」と言われたとき。心が穏やかになる出来事があるたびに冴島さんを思い出し、会いたいなと思う。
社長室の生け込みが終わると、次は役員会議室。ところがドアの前まで来たものの、固まってしまった。
というのは、部屋のなかから声がするのだ。色っぽい女性の声と少しくぐもった若い男性の声。
おかしいな。小山田さんの話だと、役員会議室の予約は入っていないはずなのに。
役員会議室に入る場合、役員、部長クラス、秘書の方々は各々のICカードを使う。ちなみに一般社員のICカードでは入れないそうだ。わたしの場合は毎回、小山田さんから業者用のICカードを借りている。
やっぱり小山田さんに確認してこよう。そう思った矢先、また声が聞こえてきた。
「大丈夫、誰も来ないって。午後はこの会議室、予約が入ってないの」
「ちょっと瑠璃……」
瑠璃さん? なんで彼女がこの会社にいるの?
別人かとも思ったが、この声には聞き覚えがあった。
「ねえ、お願い。身体の相性が一番いいのはやっぱりあなたなんだもん」
艶めかしい声。聞けば聞くほど瑠璃さんだ。でも男性のほうは誰なのだろう。
ここは役員会議室。通常、限られた人しか使用しないはず。現にこれまでこのフロアですれ違ったのは重役の方と秘書室の方のみ。
ということは、冴島さんの可能性が高いのだが……。
まさか! 本当に瑠璃さんと男女の仲なの!?
心臓が音を立てて激しく鼓動している。あの日見た光景がフラッシュバックした。
このドアの向こうに冴島さんと瑠璃さんがいる。ふたりの絡み合うビジョンが頭のなかに映し出された。
これが夢ならどんなにいいか。いや、これは夢なんだ。もしくは、きっとなにかの間違い、そうに違いない。わたしは自分を保つために、必死にそう思い込もうとした。
けれどすぐに限界がくる。息苦しさは増すばかり。胸の痛みが強くなっていった。
すると背後に気配を感じ、かと思ったら目の前のドアがすごい勢いで開かれた。
ええっ!?
意に反して目に飛び込んできた光景は、テーブルの上で一組の男女がまさに絡み合っているシーン。
やだやだ見たくない! 覚悟なんて役に立たない。こんな事実ならやっぱり知らなくていい!
わたしはとっさにぎゅっと目を閉じた。
「おまえら、いい加減にしろ! 人の会社でなにしてんだよ、野上!」
野上さん?
予想だにしなかった名前が出てきて、口があんぐりとなる。
しかもこの声は……。
「ごめんね、春名さん。不快なものを見せちゃって」
そう言いながら、わたしの隣で苦々しい顔をしているのは冴島さん。そしてテーブルに押し倒されているのが野上さんだった。
「春名さん、大丈夫?」
「ええ、なんとか」
びっくりしたあ。役員会議室にいたのは野上さんだったのか。
「あ、あの……聞いてもよろしいでしょうか? あの女性は……」
冴島さんに恐る恐る声をかける。でもなんて聞けばいいのだろう。
彼女は間違いなく瑠璃さんだ。だけど、どうして彼女がここにいるのか、さっぱり理解できない。
言葉に詰まっていると、冴島さんがわたしの知りたかった情報を答えてくれた。
「彼女はうちの社員なんだよ。企画販売部の部長で、野上の担当をしてる」
わたしたちを見て起き上がったふたりだが、野上さんはひどく慌てた様子だった。一方、瑠璃さんは余裕の態度で笑みすら浮かべている。
近くで見ると、瑠璃さんの瞳はヘーゼル色をしている。レセプションのときも思ったが、日本人離れした顔立ちだから、ハーフやクウォーターなのかもしれない。
「野上、まだ瑠璃と続いていたのかよ?」
冴島さんはまったく動じず、軽い口ぶりだ。
「違うよ、これは事故なんだ」
ゆるめたネクタイを締め直しながら野上さんが言う。
でもあんな場面を見てしまったため、事故と言われてもなんの説得力もない。
だって瑠璃さんのブラウスが大きくはだけていて、ブラが丸見えだ。第一、ふたりは唇を重ねていた。一瞬だったけれど、間違いなくあれはキスだ。
「野上の女性関係に口を出すつもりはないけどさ、うちの会社ではやめてくれ」
「それは瑠璃に言ってくれよ。僕は無理やり彼女に押し倒されたんだよ」
「嫌なら本気で抵抗しろよ、男なんだからさ。ていうか、おまえも相変わらずだなあ。女なら誰でもいいのかよ?」
「誰でもいいわけないだろう」
「野上が言っても説得力ゼロだな」
あのまじめそうな野上さんが実は女たらしなの?
「社長ったら、随分と失礼なことをおっしゃるのね。女なら誰でもいい? そんなわけないでしょう。このわたしだからよ」
瑠璃さんがドヤ顔で言う。
冴島さんはやれやれといった顔をしていた。
「君のその自信はいったいどこからくるのかね。いまだにわからないよ」
「自信もなにもそれが事実よ。男はみんなわたしの虜になるの。次々に口説いてくる男をさばくのが大変なくらい」
「なにを言ってるんだか」
とうとう冴島さんがあきれ果てたようにため息をついた。
「社長だって、わたしが本気になったら秒殺されるわよ」
「されないね」
即答だった。
「社長はわたしの価値をわからないの?」
「わかってるよ。だから君をこの会社に引っ張ってきたんだろう。高い能力があるのに、この世に自分になびかない男がいることを、なんでわからないかな?」
「これまでそんな男がいなかったからよ。この美貌に惹かれない男がいたら、それはクズ以下よ」
瑠璃さんは赤い唇を舌なめずりする。
すごい人がいるものだ。彼女はわたしが出会ったことのないタイプの女性だ。自信家で自分がこの世で一番美しいと思っている。
その通りではあるのだけれど。普通は単なる傲慢な人間となるところ、彼女の場合は潔すぎて逆に惚れ惚れする。
でもこんなふうに思えるのも、冴島さんが彼女にまったく興味がないからなのだろう。レセプション会場でわたしが見た光景もわたしの勘違いだったのだと確信できた。
「申し訳ありません。役員会議室に人が残っているとは思わなくて」
秘書室はガラス張りなので、この騒ぎに気がついたのだろう。小山田さんが血相を変えて駆けつけてきた。
「いや、悪いのは時間外に役員会議室を使っていた瑠璃だよ。小山田さんは戻っていいよ」
「ですが……」
「ここは僕が注意しておくから」
「かしこまりました」
小山田さんは一礼すると、わたしにも頭を下げた。半ば放心状態だったわたしも慌てて小山田さんに目礼する。
そして小山田さんが秘書室へ戻っていったのだが、あまりにも衝撃的な光景だったので、わたしは冴島さんに再び声をかけられるまで、脱力したまま立ち尽くしていた。
「ほんと、恥ずかしいところを見せちゃってごめんね」
「いいえ。びっくりしましたけど、だいぶ落ち着きました」
あのあと無事に役員会議室の生け込みを終え、久々に冴島さんとお昼ごはんを食べている。
場所は前にふたりで訪れた会社近くの馴染みの定食屋。日替わりのサバ味噌定食をふたつ注文した。
午前中、冴島さんを含め、三人であの役員会議室で打ち合わせをしていたそうだ。しかし冴島さんだけがほかの予定が入っていて途中退席し、最終的にあんなことに……。
「瑠璃さんっておきれいな方ですね。ハーフなんですか?」
「クウォーターだよ。母親が日本人とドイツ人のハーフで、有名なモデルだったらしいよ。子どもの頃はフランスとイタリアに住んでたって言ってたな」
「国際的な方なんですね」
「でも性格があんな感じだろう。最初は僕も驚いたよ。だけどあれで仕事はかなりできるんだ。色気を売りにしてるけど、そんじょそこらの男より男らしくて、柔道は黒帯で合気道も習ってたらしいよ」
柔道に合気道か。それなら野上さんが押し倒されていたのも、なんとか頷ける。
「性格は少々難ありだとしても手もとに置いておきたい逸材なんだ」
「冴島さんが認めるほどすごい方なんですね」
「けっこうヘッドハンティングもあるらしいんだ。実は恒松社長も瑠璃を狙っていてね」
「恒松社長も?」
「彼、頭が切れるだけじゃなく、提示する契約金も半端じゃないから、ほんと困るんだよ」
冴島さんは鯖味噌を口に運び、軽い口調で言う。
「参るよなあ。せっかく苦労して僕がうちの会社に引っ張ってきたのに」
つまり冴島さんが自らヘッドハンティングしたということか。
そこまで聞かされるとさすがに妬けてくる。彼女は冴島さんに認められた人。おまけにきれい。そんな人は、きっとほんの一握りだ。
「レセプションの日、冴島さんと瑠璃さんをお見かけしました。あと恒松社長も。あれはそういうことだったんですね」
あの日は瑠璃さんがレセプションに出席しているという情報を小山田さんから聞かされて、慌てて駆けつけたということだった。
小山田さんの情報網は社内一らしく、どこから入手してきたのか、その情報を出先の冴島さんにいち早く伝えてきたそうだ。
「いたなら声をかけてくれればよかったのに」
「あまりにもおふたりがお似合いだったので」
「ふたりって、僕と瑠璃?」
「はい、それで勘違いしてしまいました。てっきり、おふたりが深い関係だと思ってしまって」
「そうだったんだ……」
冴島さんはそう言ったきり、黙り込んでしまった。
どうしたのだろう。今の話、冴島さんの気に障ってしまったのだろうか。
「失礼なことを言ってしまったのなら謝ります。ごめんなさい。でもそんなふうに思っていた自分が間違っているって気づいたんです」
わたしは野上さんとコタさんに相談して励まされたことを話した。それでも冴島さんの表情が沈んでいく。
「僕も気をつけるよ。深い意味はないとはいえ、嫌な思いをさせちゃってごめん」
「謝らないでください。わたしがすぐに冴島さんに聞けばよかったんです」
冴島さんを責めるつもりはまったくなかった。そうじゃなくて、わたしが言いたいのは……。
「今回のことを反省して、今度からは必要なときは自分の気持ちを正直に口にしたいと思います。……会いたいとか、声を聞きたいとか、我儘もあるかもしれないんですけど」
うわぁ、勢いで言う予定のなかったことまで言ってしまった。冴島さんに引かれたらどうしよう。
すると冴島さんが安心したように頬をゆるめた。
「めちゃめちゃうれしいよ。僕も正直に言うよ。実はここのところ自信をなくしていたんだ」
「冴島さんがですか?」
「うん。本当は、自分で思っているほど春名さんに好かれていないのかも、春名さんがやさしいから勘違いしちゃってたんじゃないかって」
冴島さんがどうして? わたしがそんなふうに思わせてしまったの?
なんだか信じられなくて冴島さんの顔を見つめることしかできない。
冴島さんがおもむろに箸を置く。よく見ると、すでに定食を食べ終わっていた。
わたしときたら半分以上残っている。
「す、すみません。急いで食べますね」
「ゆっくりでいいよ」
とっさに話題を変えてしまった。
冴島さんは気にする様子もなく微笑んでくれる。
箸を持つ手が震えそうだ。彼の視線から逃れるように冷めたお味噌汁をすする。
「今夜、会える?」
急にそんなこと……。うれしいけれど、できればお味噌汁をすすっているときに言わないでほしかった。
お味噌汁を飲み込んで、「はい」と返事をする。
今日は残業の予定だったけれど、残った仕事は明日の開店前にやればいい。ようやく会えるんだ。このチャンスを逃したくない。
わたしは視線を合わせる。
「うれしいです、会えるの」
「僕も」
甘い声で即答されて、その余裕にやっぱり負けたと思いながら目を伏せた。
「咲都」
「えっ!?」
突然、下の名前で呼ばれ、反射的に顔を上げた。
「名前で呼んでみたかったんだ。いい?」
「はい、もちろんです」
顔が一気にほてり、もう食事どころではない。胸がいっぱいになって、涙が浮かんできた。
だって幸せなんだもん。好きな人に名前を呼ばれることがこんなにも感動することだったなんて、初めて知った。
「反省してる。誤解だったとしても、それだけ咲都を追いつめてたってことだよね」
わたしの涙を見て、さすがの冴島さんも困ったように眉尻を下げている。
わたしは涙をぬぐい、「違うんです」と必死に否定するも、ますますこぼれてきてしまい自分では手に負えない。そのうちまわりのお客様にまで注目されてしまった。
「どうした? 喧嘩かい?」
とうとう見かねた店主の武藤さんがテーブルまで来る始末。
わたしは泣きながら「喧嘩じゃないですから」と言うのだが、武藤さんは怖い目で冴島さんをまじまじと見た。
「ちょっと兄ちゃん、どんな理由なのか知らないけど、女の子を泣かせちゃだめだよ」
「武藤さん、誤解なんです」
勘違いしている武藤さんを止めようとするも、「おじさんにまかせな」と聞く耳を持ってくれない。
しかも「兄ちゃん」だなんて。彼があの冴島物産の創業者一族であることを知ったら、きっと腰を抜かすだろう。
「俺は咲都ちゃんが赤ん坊の頃から知ってるけどよ、まじめでがんばり屋で親孝行で、本当にいい子なんだよ」
「武藤さん、やめてください。これは──」
「咲都ちゃんは黙ってろ。かわいそうに、こんなに泣いて」
すると冴島さんの顔が引きしまる。そしてきっぱりと言った。
「もう泣かせませんから。彼女を幸せにするとお約束します」
冴島さん? 違うのに……。
違うんです。わたしが泣いたのはうれしかったからで。ずっと不安で本当に裏切られていたら自分はどうなってしまうのだろうと怖くてたまらなかったから、今のこの時間が幸せで安心できるんです。
だけど、うまく言葉にできない。
武藤さんは一瞬呆気にとられていたけれど、冴島さんの真剣な言葉に心を動かされたようだった。
「男に二言はないな」
「もちろんです」
「今度泣かせたら、商店街の連中が黙っちゃいないからな。みんなで咲都ちゃんの恋愛を応援しようって一致団結したところなんだよ」
商店街のみんなで? しかも、わたしの恋愛を応援?
わたしって、そこまでされるほど心配されていたの?
「武藤さん、いくらなんでも大袈裟ですよ。もう子どもじゃないんですから」
「なに言ってんだよ、咲都ちゃん。ようやくできた彼氏が変な男だったらどうするんだよ?」
「変な人じゃないので安心してください」
「でもつき合って、まだ半月ぐらいなんだろう? そんなんで相手のことがわかるもんか」
「わかります──っていうか、つき合って半月ってどこからそんな情報を?」
冴島さんとここに来たのは一ヶ月ほど前のことだ。
「そんなの決まってんだろう。塔子ちゃんから聞いたんだよ」
「お母さんが?」
商店街の集まりがあったときに嬉々《きき》として語っていたらしい。
この間の日曜日のデートから帰ったあと、塔子さんに「どうだった?」としつこく聞かれ、そのときに少し前からおつき合いしていると報告をしたのだけれど。なにも商店街の人たちにまで言うことないじゃない。
「冴島さん、すみません」
「みんなに愛されてるんだね。でも僕のこの気持ちは誰にも負けないよ。これからは不安にならないくらいに、咲都のことを大事にする」
「冴島さん……」
「そういうことです。なのでご安心を」
冴島さんが武藤さんからのプレッシャーを軽々とはねのけた。
言い方はやわらかいのに自信に満ちた顔。逆に武藤さんがたじろぐほどだった。
「兄ちゃん、顔に似合わず男気があるなあ。そこまで言うなら信じるよ。とにかく咲都ちゃんをよろしく頼むな。俺は咲都ちゃんの父親からなにかあったら力になってほしいって言われてんだよ」
「お父さんが!?」
驚きのあまり、武藤さんの腕をすがるように掴み、詳しく聞かせてと目で訴える。
武藤さんには日頃から商店街の運営のことなどでお世話になっているけれど、父も個人的なおつき合いはそれほど深くなかったはず。それなのにわたし個人のことを頼むだなんて、違和感がある。
武藤さんは少しさみしそうに微笑むと、静かに話しはじめた。
「春名さんはもし自分が死んだあとに咲都ちゃんが花屋を継ぐことがあったら、どうか面倒を見てやってくれって頼みにきたんだよ」
自分が死んだら……。そんなこと、わたしの前では言ったことないのに。
「知りませんでした。父がそんなことを言っていたなんて」
花屋の仕事に関しては厳しくて、店を手伝うわたしにだめ出しばかりだった。わたしに期待なんてしていないふうで、だからわたしは父に花屋になりたいと言ったことがなかった。
「俺だけじゃないよ。商店街のみんなに……一人ひとりに頭を下げてたよ。痩せ細った身体で、青白い顔で……。春名さん、どんなに心残りだったか。本当は自分でいろいろ教えたかったんだろうな」
「お父さん……なに言っちゃってんだろう。最後までわたしのこと……ぜんぜん信頼……してなかったんじゃない」
涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。反抗的なことを口にしながらも本音はうれしくてたまらない。
わたしが花屋になるってどうしてわかったの? お父さんが生きていた頃は、花屋になろうなんてこれっぽっちも考えていなかったんだよ。
「僕も力になるよ。お父さんのお店、がんばって守っていこうね」
冴島さんのやさしい声が胸に響いてくる。
「はい、がんばります。こんなふうに支えてもらっているわたしは幸せ者です」
店を潰すものかと毎日朝から晩まで仕事をして、家に帰ってからも花の勉強をして、ひとりでがんばっているつもりでいた。けれどそれは傲慢な考えだった。
わたしはたくさんの人に支えてもらっている。平栗さんをはじめとする商店街の人たちがいつも見守ってくれていたのだ。
「すみませんでした。あんな醜態を見せてしまって」
定食屋の帰り、商店街を歩きながら冴島さんに謝ると、彼が無言のままわたしの手を掴み、ぎゅっと握ってきた。
「ひ、昼間ですよ!」
だけど離したくないので、わたしも握り返す。
「たまにはいいじゃない? あっ、でも手をつなぐのは初めてか」
「そうですね、初めてですね」
「つないでよかった?」
「いちいち聞かないでください。わかってるくせに……」
「ちょっと意地悪だったね。困ってる顔も見たくてつい。だって可愛いから、咲都」
ここまで言われると開き直るしかない。それに冴島さんはこんなふうにからかいながら、わたしを一歩ずつ近づけさせてくれているんだ。
遠慮しないで。不安にならないで。そんな想いをつながれているこの手から感じる。力強いのにやさしく包み込んでくれる。
「ありがとうございます」
「なにが?」
「手をつないでくださって」
冴島さんがつないでいた手を一度離し、再びわたしの手を取ると指も絡ませた。
「わたしも自信をなくしていました」
定食屋で冴島さんもそんなことを言っていた。結局、具体的な話を聞くことはできなかったけれど。
「日曜日のデートの帰り際、なんとなく距離を感じたんです。その日の冴島さんはやさしくて、わたしを楽しませようとしてくれていたのに……」
「ああ、あのときか。あのとき、ちょっと怖くなったんだ」
「どうしてですか?」
わたし、なにかしたのだろうか。普通に話せていたと思うのだけれど。アパートに送ってもらうまでの道のりも、いい意味でドキドキしていた。
「船の上で咲都に避けられたような気がして怖気づいたんだよ」
「船で? わたし、避けた覚えはないんですが」
「わかってる。咲都はたぶん戸惑っていたんだと思う」
「あっ……」
船のデッキでストールを肩にかけられて、すごくいいムードになって、気持ちも高ぶっていた。冴島さんを真正面から見られなくなって、きっとそのとき避けるような態度をとってしまったのかもしれない。
「たしかに戸惑っていました。でも悪気はなかったんです。ああいう雰囲気に慣れてなくて」
「でも僕も男だから。大事にしたいと思う反面、無性に自分のものにしたくなるんだ」
切ない声に胸がしめつけられる。
でもこれが冴島さんの本音。わたしが知りたかった冴島さんなのかもしれない。
「あのときは咲都の気持ちがまだ僕の気持ちに追いついていなかったのかもしれないね」
「そんなことないです。あのときもわたしは本当に冴島さんのことを好きでした」
「じゃあ、なんで僕のところに飛び込んできてくれなかったの?」
「え……」
「僕がそんなに信用できなかった?」
「まさか! 信用してました。冴島さんの気持ちはちゃんとわかっていましたし、誠実な人だとも思っていました」
でもわたしの気持ちは彼に伝わっていなかった。冴島さんはわたしの感情を読み取ることが上手なはずなのに。
でもそれもわたしのせいだ。短期間で急激に冴島さんを好きになったせいで、自分でも混乱して、好きという気持ちを伝えることが怖いと感じていたから。
もしかして距離を作っていたのはわたしのほうだったの?
だけど冴島さんとこうして話してみて、ようやく気がついた。
そうだ、その通りだ。わたしが臆病だったから、ずっと冴島さんを傷つけていたんだ。自信を失わせてしまった。
「そんな悲しそうな顔をしなくていいんだよ。それでも僕は咲都の気持ちが完全に僕に向いてくれるまで待つべきだったんだ。だから余計に自分を情けなく思ってしまった」
「……違う。違うんです」
「咲都?」
「わたしはあのときすでに冴島さんのことを心から好きでした。好きで好きでたまらなくて夢中だったんです。それなのにそれを自分で認めることが怖かった……」
認めたら想いを止められなくなる。そうなったらきっと苦しくなると思い込んでいた。
でも冴島さんはこの想いを受け止めてくれる人。それがわかったから、もうがまんしない。この気持ちを伝えるのは今だ。
「冴島さんが、わたしの気持ちを重く感じてしまうんじゃないかって、それが怖かったんです」
「咲都の気持ちが重いなんて、思うわけないだろう」
「自信がなくて。冴島さんが素敵すぎて、わたしにはもったいなくて、それで……。だけどもう大丈夫です! 自分の答えをちゃんと見つけられました。まだ不安なこともありますけど、逃げません。ずっとそばにいたいです!」
わたしが熱く語りすぎたせいで、冴島さんはきょとんとしていた。だけどすぐに余裕を取り戻し、楽しげに口角を上げる。
「今の想定外だった。熱烈な告白だね」
「可愛げなくてすみません」
「ううん、どんな咲都も可愛いよ」
相変わらず、さらりと言ってのける。
こんな余裕を見せつけられるたびに過去の女性の影がちらつくけれど、まっすぐに見つめてくれる瞳に嘘は見えない。
わたしは冴島さんが与えてくれるものを素直に受け止めればいいだけ。信じて一緒に歩いていけばいいんだ。
その日の夜遅く、冴島さんのマンションにおじゃまさせてもらった。
結局、冴島さんの仕事が忙しく、わたしも残業で、会えたのは午後九時半をまわった頃だった。
外で食事をして、こうして冴島さんの部屋に来たのはいいけれど、ふたりきりになった途端、妙に意識してしまい目が泳いでしまう。
「疲れた?」
ソファが軽く揺れ、ローテーブルにあたたかい紅茶が置かれた。
思いのほか近い距離に冴島さんの顔があって困ってしまう。
「いいえ。そう見えますか?」
「なんか元気ないみたいだから」
退屈そうに見えたのだろうか。わたしは明るく振る舞う。
「大丈夫です! ぜんぜん元気です!」
「無理することないよ。今日はいろいろあったからね。でもどうしても会いたかったんだ」
「わたしもです」
素直になるのはけっこう大変だ。慣れなくて、まともに顔を見ることができない。ごまかすように出された紅茶を飲んだ。
「咲都」
「はい?」
「僕も緊張してる。でもこれが人を好きになるってことなのかなと思うんだ。あとは自然の流れにまかせて、緊張がいつの間にかなくなって、ただ一緒にいるだけで満たされる関係になっていくんだと思う」
冴島さんがゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
深い想いのこもった言葉は胸の奥をじんわりとあたたかくしてくれる。やっぱりわたしはこの人のことが好きだ。
この先の未来もずっと一緒に……。そうだったらいいなと思った。
肩を抱かれ、わたしも冴島さんに寄りかかるようにして肩にちょこんと頭をのせた。
冴島さんは他愛もない話をしてくれた。朝ごはんは食べない派だけれど、牛乳が好きで毎朝飲んでいるとか、仕事から帰ったら観葉植物に話しかけながら霧吹きで葉っぱに水をかけてあげているとか。
「パキラやポトスは葉っぱにほこりがたまりやすいので、霧吹きで水をかけるとき、ときどきでいいのでやさしくほこりを取り除いてあげてください」
「わかった、今度からそうするよ」
こうして話していると不思議と緊張がほぐれていった。きっとこうやって少しずつふたりの関係が変化していくのだろう。そんな気がした。
穏やかに過ぎていく時間は心地いい。仕事の疲れなんて吹き飛んでしまうし、活力がわいてきて明日もがんばろうと思える。
「咲都、時間は大丈夫?」
「時間?」
「あと十五分で十二時になるよ」
「もうそんな時間!?」
慌てて身体を離す。
時間が過ぎるのをあっという間に感じる。いつも一日が二十四時間じゃ足りないと思いながら過ごしているけれど、それ以上の速さだ。
明日の早朝は切り花の仕入れに行かなくてはならない。残念ながらタイムリミットだ。
「泊まってく?」
真剣な顔に息を呑む。
もちろん泊まりたい。でも現実はそう甘くない。仕事を優先しなきゃならないときもある。
「ごめんなさい。明日は仕入れの日で朝早くて……」
「そっか。じゃあ土曜の夜は? あとその日、できれば咲都のお母さんにご挨拶したんだけど」
「挨拶ですか?」
「おつき合いさせていただいてますって。そういうの、ちゃんとしたいんだ」
びっくりするくらいの誠実さに胸が熱くなる。冴島さんはわたしのことをそこまで真剣に考えてくれているんだ。
「わかりました。土曜日の夜だったらわたしも大丈夫です。母にも話をしておきます」
冴島さんは、「よかった」ともう一度肩を抱いて、愛おしそうにわたしの頭に頬をすり寄せた。
こんなふうにされたら、ますます帰りたくなくなってしまう。
「引き留めちゃだめだよな。送るよ」
名残惜しそうに身体を離す。けれど、それはわたしも同じだった。
それから駐車場へ向かったのだが、冴島さんは駐車場までわたしの手を離さないでいてくれた。
ふたりで車に乗ると、運転席の冴島さんが急に黙り込んで、じっとわたしの目を見つめた。なんとなくキスされるのかと思った。
わたしたちはまだキスをしたことがない。これまで一度も。
わたしは了承の意味でドキドキしながらその目を見つめ返す。けれど冴島さんはプイッと正面を向いてしまい、「今日はやめとくよ」と言ってエンジンをかけた。
わたしは拍子抜けしたような、でも安心したような、複雑な気持ちだった。
わたしも自信がない。一度ここでキスをしてしまったら、きっとそれだけではすまないと思う。
アパートの前に着いたときも、お互いに未練たっぷりで、さすがに顔を見合わせて笑ってしまった。
「参ったね。もっと時間がほしいよね、お互いに」
「そうですね」
おやすみのキスの代わりに手を握られる。受ける印象とは違って、大きくていかにも男の人の手という感じの冴島さんの手は、わたしの心を安定させてくれる。
車を降りると、「またね」と軽く言って、冴島さんは車を走らせた。
今日は楽しかった。短い時間だったけれど、わたしの心はたくさんの愛で満たされていた。




