7.幸せの裏側
ジュエリーショップのレセプション当日。冴島さんとのデートから四日経過していた。
その間、彼から一切の連絡がなかった。
どうやら冴島さんはつき合っている彼女にまめに連絡をしないタイプらしい。会えないのは仕方ないにしても、電話やメールぐらいしてくれてもいいのに。
自分から連絡できないことはしっかり棚上げしちゃっているわたしもわたしなのだけれど。仕事中かもしれないし、それだと嫌がられるかな。頻繁に連絡するのを束縛だととらえてしまう人だったらどうしようとか。マイナスのことばかり浮かんで、自分から連絡をできなかった。
午後二時。
会場内の生け込みが終わり、最後に店の出入口にフラワーリースを設置していた。そこへ恒松社長がやって来て、店先で立ち止まった。
「ご苦労様、春名さん」
「恒松社長、今日はよろしくお願いします」
レセプションの開始時間は午後四時。恒松社長は会場チェックのために早めに来たのだろう。彼はさっそくフラワーリースを黙って眺めた。
大丈夫だろうか。ドキドキしながら彼の言葉を待つ。
「いい色合いだね」
ふっと自分の顔がほころび、ほっと胸を撫で下ろす。
「ありがとうございます」
シックな紅紫色とやわらかなスモーキーピンクの二種類のバラに、グリーンの葉をあしらったリースをフラワースタンドに固定して、ウエルカムボードにアレンジした。
事前打ち合わせのとき、出入口に花を飾りたいと言われた。店の前にはスペースがなく、会場もそう広くないため、取引会社からのお祝いの花はお断りしているそうなのだが、特別な雰囲気は出したいので花は飾りたいそう。そこでフラワーリースを提案したら、恒松社長は気に入ってくださり、即採用となったのだ。
「リースってもっとカジュアルなイメージがあったんだけど、意外に高級感があるな」
「バラの品種や色を変えると、可愛らしい感じにもなります。今回はお店の雰囲気に合わせて落ち着いた色を選びました」
我ながらいい感じに仕上がったのではないかと思う。わたしは自信を持って答えた。
「すごくいいよ。さすが冴島社長がすすめるだけあるな。なるほどね……。でももう少しインパクトを出せないかな?」
ここで思わぬだめ出し。
このままでいいと思うんだけどな。でも恒松社長は満足していない。
「それなら白いバラを加えてみましょうか?」
紅紫色のバラが主張しすぎて逆に色のトーンが暗くなってしまったかもしれない。だけどそこに白色を加えると変化が生まれ、すべての色の発色がよくなるような気がした。
「白いバラなんてあるの?」
「車に積んであります」
「用意がいいね。じゃあ白いバラを加えてみて。俺もその案、いいと思う」
恒松社長は会場に入り、わたしは車に白いバラを取りにいく。
予備で多めの切り花を持ってきておいてよかった。そう思いながら現場に戻り、バランスを見ながら白いバラを挿し込んでいった。
そして……。
「こっちのほうが断然いいねえ」
「さっきとぜんぜん違いますね」
再び現場に戻ってきた恒松社長と仕上がりを確認しながら、想像以上の出来に自分でも驚いていた。これも恒松社長のこだわりのおかげだ。
これが本物のプロというものなのか。妥協せず、もっといいものを追及しようとする姿勢は見習わなくてはならない。
冴島さんが言っていた『刺激』。業種は違ってもクリエイティブなところは共通しているから、学ぶところはたくさんあるような気がした。
するとそこへ。
「ほんとだね、このリース、すごくいいよ」
やわらかな声がして、わたしの胸が一気に高鳴った。
冴島さんだ!
王道の濃紺スーツを完璧に着こなし、今日もオーラを放っている。凛々しくて、立っているだけで絵になるから、つい見とれそうになる。
「ありがとうございます」
「調子はどう?」
透き通ったきれいな瞳に見つめられ、幸せな気持ちがあふれてくる。
「はい、順調です」
冴島さんは「それはよかった」と笑みを浮かべると、今度は恒松社長に挨拶をする。
「恒松社長、新ブランドの立ち上げ、おめでとうございます」
「ありがとう。レセプションは欠席すると言ってたけど、都合がよくなったのかい?」
「いいえ、少し時間ができたのでうちの社員の様子を見に。夜のパーティーのほうには予定通り出席いたします」
「冴島社長自ら会場チェックとは、これまた珍しいな。本当にそれだけかな?」
「ええ、たまに現場にも足を運ぶようにしてるんですよ」
「なるほど……」
冴島さんと恒松社長の会話を、わたしは少し緊張しながら聞いていた。
このツーショットをこんな間近で見られるなんて、かなりレアなんじゃないだろうか。
冴島さんもすごい人だが、恒松社長も大物だ。彼の経歴をインターネットでこっそり調べたら、数々の有名女優や一流モデルなどのブライダルジュエリーのデザイン制作、海外でのエキシビジョンの開催など、予想以上に華々しかった。
冴島さんは恒松社長に案内されて会場に入っていった。
なかの様子をうかがうと、冴島さんは恒松社長とは別行動をしており、会場を歩きながら自社の請け負った仕事を細かくチェックしているようだった。
この日のために用意された大きなスクリーンには新作ジュエリーが映し出されていた。また音響などの様々な機材もたくさん置かれ、あちこちで業者の方がセッティングしている。
そんななか冴島さんは一角にある長テーブルにあるパソコンの前に立つと軽く操作し、それから画面を見ながらなにかを考えはじめた。そばに冴島テクニカルシステムズの社員の方が立っていて、その様子を緊張した面持ちで見守っていた。
やがて難しい顔をした冴島さんがその社員の方に声をかけ、パソコンの画面を指さしながらなにか話している。すると社員の方が自らパソコンを操作しはじめる。しばらくして手を止めた社員の方が冴島さんに確認を求めるが、冴島さんは鋭い目つきになり、さっきよりも渋い顔をした。
冴島さんはさらに別の社員の方にも指示を出す。
「そこのカメラを一メートルぐらい左に移動させて、高さをもっと上にできる? そこだと会場に人が入ったとき影になるかも。あと通信装置の位置も調整する必要があるな。通信速度がベストになる位置をさがして」
会場にはいくつかカメラが設置されている。その確認をしているようだった。社員の方が冴島さんの指示を受けてテキパキと作業をしていた。
社長室以外で仕事をしている姿を初めて見た。やっぱり格好いいなあ。専門的なことなので、わたしには内容がさっぱりわからないけれど、それからも冴島さんの指示は続く。専門用語が飛び交い、会場が一気に緊迫したものとなる。
「冴島社長っていい男だよなあ」
「えっ、あっ、恒松社長!」
「今、見とれてたでしょう?」
いつの間にか恒松社長がわたしの隣に立っていた。恒松社長は、わたしの心をすっかりお見通しらしく、ニヤニヤしている。
「いいえ、別にそういうわけでは……」
意味がないとわかってはいるけれど、一応否定してみる。
「隠さなくてもいいよ。彼のファンは大勢いる。うちのスタッフにも何人かいるよ。今だってほら……」
恒松社長の見ている方向に顔を向けると、数人の女性スタッフが冴島さんに熱い視線を送りながら、こそこそとなにか話している。
でもこういうのは最初からわかっていたこと。今さらやきもちを焼いたり、不安がったりしてもしょうがない。
「女に不自由しなさそうな人間がひとりの女に本気になったら、どんなふうに変わるんだろうな」
「冴島社長は変わらないと思います。穏やかな人ですから」
「そうかな? たとえ相手が俺でも容赦なく歯向かってくるに決まってる」
「あの、おっしゃっている意味がわからないんですが」
いったいなんの話なのだろう。冴島さんが恒松社長に歯向かうって……。そんなことあるわけないのに。
「いつも朗らかに笑っている人間ほど、怖いものはないって意味。内に秘めたるものは意外に強情で、ときに激しいものじゃないかな」
「えっ?」
やっぱり意味がわからず首を傾げるが、恒松社長はそれ以上のことは教えてくれなかった。
それから少しして、冴島さんは次の仕事先へ向かうため店をあとにした。レセプション終了後のパーティーには出席すると言っていたので、相変わらず忙しそうだ。
ちなみにパーティーはここではなく、ホテルで行うそうだ。そのホテルで一番広い会場で、レセプションに出席しない方々も数多く招待されているとのことだった。
午後五時半。レセプションは滞りなく終了した。
レセプションの間、わたしは控室で待機していたのだけれど、会場内の様子が控室のモニターにライブ配信されていて、リアルタイムで熱気を感じることができた。顧客以外に宝飾業界やファッション業界、またプレス関係者など大勢が招待され、大変なにぎわいだった。
ショップスタッフの方の話によると、ライブ配信はインターネットの環境が整っていれば、誰でも無料で見られるようになっていたそうだ。その段取りをしていたのが冴島テクニカルシステムズだ。いくつかある部署とは別にライブ配信に特化した事業部があって、そこで手がけたものだった。
準備作業を間近で見ていたし、なにより冴島さんがかかわっている仕事なのだと思ったら、余計に感慨深く、今も興奮が続いている。
多くの招待客はパーティー会場のホテルへと移動しているところだった。
わたしの仕事はここまで。ジュエリーショップに残り、生け込みの花の手入れをしていた。
恒松社長から会場内の花とフラワーリースはしばらく飾っておきたいという要望だった。そのため日持ちしない花を取り除いて整え直していた。
取り除いた花は廃棄するため、すべて店に持ち帰る。次にわたしは廃棄する花を車に運ぶ作業をしていた。すると階段のほうから話し声が聞こえてきて、思わず足を止めた。
「瑠璃、今夜はスイートを予約してあるんだ。パーティーのあと、部屋で飲み直さない?」
「お酒を飲むだけ?」
「もちろんだよ。お望みならそれ以外のこともいいよ」
階段を下りながら交わされる男女の怪しげな会話。男性のほうは恒松社長だった。
やだな、立ち聞きするつもりなんてないのに。
だけどやけに色っぽいフェロモン全開の超絶美女に魅了され、目が離せない。
サファイアのような鮮やかなブルーのワンピースドレスは袖つきで露出は控えめ。でも抜群のスタイルのよさと、外国の血が混ざっているようなエキゾチックな顔立ちのせいで、色気のほうが勝っている。
さらに発せられる声は艶めかしく、女のわたしもドキリとさせられた。
恒松社長と一緒ということは、瑠璃さんと呼ばれた女性もセレブなのだろうか。
大粒のパールとダイヤモンドをあしらったボリュームのあるネックレスは、おそらくGlanzの商品。ジュエリーに詳しくないわたしにもわかる。あの輝きはかなり値が張るものだ。
ふたりは出入口に向かっていた。店の前には高級外国車が停まっている。あれは恒松社長の車だ。
「どうしようかしら。明日も早いのよね」
「そう言っていつもはぐらかすんだな」
「はぐらかしてないわ、本当のことよ」
「じゃあ、いつならいい?」
どちらかというと恒松社長のほうが気のある感じだ。
恒松社長は独身らしいので相手もそうならなんの問題もないのだろうけれど。ふたりとも遊び慣れている感じがして、あまり知りたくない世界だ。
「瑠璃!」
そのとき、恒松社長とは違う男性のイラ立った声が聞こえ、わたしは反射的に柱のうしろに身を隠した。
というのは……。
「冴島社長、どうしてここへ? パーティー会場はここじゃないよ」
ホテルでのパーティーに出席するはずの冴島さんがなぜかここにいる。
恒松社長も驚いていた。
「まさかパーティー会場に一緒に行くために、わざわざわたしを迎えに来てくれたの?」
そう言ったのは瑠璃さん。彼女は冴島さんを知っているようだった。
冴島さんと瑠璃さん。ふたりはどういう関係なのだろう。
「君を迎えに来たんじゃない。連れ戻しに来たんだ。まったく、僕がいないとすぐにこれだ。あれほどふたりきりになるなと言ったのに」
この言い方……。これじゃ、まるで瑠璃さんのことで恒松社長に嫉妬しているみたいじゃない。
「これはこれは。冴島社長は監視が厳しいな」
「恒松社長、あれほど言ったじゃないですか。瑠璃を口説くのはやめてくださいって」
「覚えてるよ。でもさあ、一回ぐらい見逃してくれたっていいだろう? それでだめならあきらめるからさ」
恒松社長の手が瑠璃さんの身体に伸びるのが見えた。するとその手をさえぎるように冴島さんが身体をすべり込ませ、瑠璃さんの手首を乱暴に掴んだ。
「ところで瑠璃、なんで君がここにいるんだ? 招待状はどうやって手に入れた?」
「わたしも不思議だわ。どうしてわたしがここにいるってわかったのかしら?」
「そんなことはどうでもいいだろう。僕の質問に答えるんだ」
いつになく厳しい口調だ。少し取り乱しているようにも見える。
「招待状は恒松社長に頂いたのよ。個人的にね」
「それでか……。それを聞いて納得」
「わかったなら、怒らないでよ。男前が台無よ」
「台無しでけっこう。とにかく瑠璃は今すぐ帰るように。パーティーは欠席だ。そういうことですから、恒松社長」
冴島さんが恒松社長のほうを向くと、恒松社長も仕方ないなという顔で苦笑していた。
冴島さんはいつも通りのポーカーフェイスに戻り、恒松社長に小さく頭を下げる。
「それではのちほど」
「ああ、またあとでな。冴島社長」
だけど瑠璃さんは納得できないらしく、冴島さんに抵抗を見せた。
「ちょっと、どうして欠席なの!? 芸能人や有名企業の社長も来るんでしょう? わたし、楽しみにしていたのに」
「いいから瑠璃は黙って」
冴島さんは問答無用に言い放つと、強引に瑠璃さんを外に連れ出した。冴島さんの手は今も瑠璃さんの手首を掴んでいる。
わたしはそれをぼう然と見ていることしかできない。まるで恋人にちょっかいを出され、嫉妬心むき出しで恋人を奪い返す構図だ。
わたしは触れてもらえなかった。水族館でも空港でもディナークルーズでも一度も。幸せの裏側でなにかが足りないと思っていたのはこのことだったのだと、密着しているふたりのうしろ姿を見て気がついた。
恒松社長の言っていたことを思い出した。
──たとえ相手が俺でも容赦なく歯向かってくるに決まってる。
冴島さんが本気になった女性というのは、瑠璃さんのこと?
さっきの光景は恒松社長の言っていたことにまさにあてはまる。
ならばわたしはなんなのだろう。冴島さんの本命が瑠璃さんなのだとしたら、どうしてわたしを好きだと言ったの? 冴島さんが結婚に前向きになったという小百合社長の話は、相手はわたしではなく瑠璃さんなの?
だけどいくら心のなかで叫んでも、その問いに彼は答えてくれない。わたしはしばらくその場所から動けなかった。
涙がこぼれていると気がついたのは、恒松社長の車も走り去って、ショップスタッフの方に声をかけられたときだった。「目にゴミが入ってしまって」とごまかして、急いで片づけを終えると、わたしはジュエリーショップをあとにした。
自分の店に戻ったのは午後七時にさしかかる頃だった。
塔子さんと榎本くんが閉店作業をしてくれていたので、わたしは店の在庫の確認をした。
明日は金曜日で切り花の仕入れ日。今日のレセプションでも大量に消費したため、在庫がだいぶ減っている。今朝、明日配達分の予約が入ったこともあり、その分も踏まえ、多めに仕入れることにした。
「レセプション、どうだった?」
閉店時間の午後七時が過ぎ、レジのお金を数えながら塔子さんが言う。
「恒松社長も気に入ってくださったし、スタッフの人たちにもきれいですねって言ってもらえたよ」
「うまくいってよかったわね。でもその割に元気ないんじゃない?」
「いつも通りだけど」
「相変わらず、すぐ顔に出るわよね」
「そう?」
そのセリフ、最近も冴島さんに言われたなあ。つまり冴島さんの指摘は的確だったということか。
……だからどうってわけでもないんだけれど。
「あなたは昔からそうよ。母親としてはわかりやすくて助かるときもあるけど、お客様の前では絶対にやめてね」
「わかってるよ。仕事のときはちゃんとやってるでしょう?」
「今のところはね」
「なに、その言い方?」
なんだかトゲがあるんですけど。
「別に。でもすごく疲れているみたいだから、今日は奮発して咲都の大好きな鰻でも食べにいく?」
「……うん」
塔子さんはときどき妙に鋭くなる。わたしよりもわたしのことをわかっている。だからいつもなにげなく助けてくれる。
自分が苦しくても、いつも明るくてポジティブ。
父が亡くなった直後こそ激しく打ちひしがれていたけれど、その後の塔子さんは強かった。売り上げが落ち込んでいくなかでも、「どうにかなるわよ」と笑っていたっけ。
しかし現実はそううまくいかない。
冴島さんと瑠璃さんのことが頭から離れなくて、夕べはほとんど眠れなかった。おまけに泣きすぎて、ひと晩経っても身体がだるい。
「咲都、顔色悪いわよ。やだ! 目も腫れてない!?」
「単なる寝不足。朝、早かったから」
「理由はそれだけなの?」
「またその話? いい加減にしてよ。なんでもないから。仕事もちゃんとやる。はい、この話はこれで終わり」
今朝仕入れたばかりの切り花の切り口をハサミで切り戻す水あげの作業を塔子さんとしながら、そんな会話を交わす。
夕べ泣いていたことはたぶんバレている。親子だと遠慮がないから、こういうとき困る。放っておいてほしい。仕事に集中したいのに、これでは余計に思い出してしまう。
それでもなんとか平常心を維持していた。でも正しくは“つもり”だったみたいだ。
その日のお昼近く。店の電話が鳴り、わたしは花屋としてとんでもないミスをしたことに気がついた。
「……忘れてた」
全身の血の気が引いていくようだった。
「忘れてたって……。今日だったの? 毎月末日のはずじゃなかった?」
電話の子機を持った塔子さんがもう片方の手で話し口を押さえながら言う。
「日程が変わって今日になったの。すぐにお届けするって伝えて!」
「わかった」
話を終え、子機を充電器に戻す塔子さんの目が怖いくらいだった。
電話はデイサービスセンターからだった。父が生きていたころからお世話になっている老人福祉施設。月一で開催される利用者の誕生日会のときに花束を配達していたのだが、昨日その予約が入っていたのにすっかり頭から抜け落ちていたのだ。
九月の誕生日の方は三名。そのなかのおひとりがパンジーの花を希望されており、今朝仕入れたそれをバックヤードに保管していたのだが、それっきり花束の制作もしていない。
「大きな仕事に気を取られて、ほかのことがおろそかになったんじゃないの?」
「違う! わたしはどんなお客様も平等に……」
だけど実際にミスをした。言いながらも自信がなくて声が小さくなっていく。
「お誕生日にうちの花を楽しみにしてくださっている方もいらっしゃるのよ」
「そんなこと、わかってるよ。今朝まではちゃんと覚えてたの。その分の仕入れもした。でもいろいろ忙しくて、疲れてもいたし……」
「言い訳はいらない。その代わり、今自分がなにをすべきかを考えなさい」
塔子さんの言葉を噛みしめる。
わたしは毎月の仕事として流れ作業のように扱っていなかっただろうか。誕生日の人たちにとって、今日はみんなにお祝いされる特別な日。それを忘れることはとても失礼なことだ。
贈る側の施設の職員の方たちだって、誕生日を迎える方々に喜んでもらえるよう、この日のために準備をしていたのに水を差してしまった。
「花束を届けに行ったとき、今月誕生日の人、一人ひとりに謝罪してくる」
誕生日会には間に合わないが、今から花束を作って届けに行けばきっと会える。それでミスがノーカウントになるわけではないけれど、それがわたしの示すことのできる誠意だと思った。
「──さん? 咲都さん?」
「ん? あっ、ごめん! なに?」
店先でしゃがみながら鉢物の手入れをしていたら、榎本くんに呼びかけられ、自分がぼーっとしていることに気がついた。
時刻は午後六時過ぎ。立ち上がると自分の影が長く伸びた。日がだいぶ傾いていた。
「マイルド商事さんから枕花の注文がファックスで届きました」
「わかった」
いけない。ちゃんと仕事に集中しなきゃ。反省しながらファックスを受け取る。
それからマイルド商事さんに確認の電話を入れ、枕花の準備をした。
枕花とは亡くなった方の枕もとに飾る花のこと。故人と親しい間柄の場合に贈るものだ。
花を贈るのはお祝いのときだけではない。故人に花を供える風習は、はるか昔からの習わし。長い年月、人は花とかかわりを持ち続けているものと考えると感慨深い。
デイサービスセンターに花束を届けに行ったけれど、わたしの気分は晴れることはなかった。
職員の方を通して花束を渡してもらったあとに謝罪した。だけどひとりのおばあちゃんが最後まで不機嫌なままだった。パンジーの花を希望された方だった。
職員の方の話だと花がとても好きな方らしく、今日を楽しみにしてくださっていたらしい。
半年ほど前に旦那様を亡くされ、その旦那様が生前、庭で育てていたのがパンジー。そのためパンジーに深い思い入れがあったそうだ。
職員の方は、「次回から気をつけてくだされば」とやさしく言ってくださった。だけど、あのおばあちゃんにとっての次回は一年後で、そもそもやり直せばいいということでもない。
そこまで考えて思った。わたしは自分が罪悪感から解放されたかっただけなのだと。笑顔で許してもらいたくて謝ったのだ。
「じゃあ、行ってきます」
「よろしく。気をつけてね」
「はーい」
さっきの枕花は榎本くんが配達してくれることになった。フットワークが軽く、車の運転も上手なので安心してまかせられる。
「わたしもしっかりしなきゃ……」
こんなふうに自分に言い聞かせるのは、今日だけで何度目だろう。
「ほんと、嫌になる」
「なにが嫌になるんですか?」
「うわっ!」
「すっ、すみません! 驚かせてしまって」
榎本くんが配達に出かけてすぐのことだった。開いていた店のドアから樫村さんが顔を覗かせていた。
「樫村さんでしたか。いらっしゃいませ。こちらこそ大きな声を出してしまって申し訳ありません」
「なにかあったんですか? 元気もないみたいですが」
「いえっ、なんでもないです! あのう……今のなんですが、できれば聞かなかったことにしていただけると助かります」
「いいですよ。その気持ち、よくわかりますから」
樫村さんに会うのはこの店で冴島さんともめたあの日以来。二週間以上経過している。
今日はいつものビジネストートバッグではなく、黒いキャリーバッグを手にしていた。狭い店内のため、樫村さんは店先にそれを置いてから、なかへ入ってきた。
「もうお店には来てくれないと思っていました」
「この間は中途半端な謝罪になってしまったので、ちゃんと謝ろうと思って伺いました。騙して近づいて申し訳ありませんでした。謝ってすむとは思っていないんですが、嫌な思いをさせてしまい反省しています」
「そのことだったらもういいんです。怒ってませんから」
「ありがとう。あれから平栗さんに改めて取材を申し込んだんですが、やはり断られてしまいました」
「そうですか……」
「でもあきらめずに何度でもトライします。春名さんにも言われましたけど、誠意を持ってお願いすれば、いつか話だけでも聞いてもらえると信じてます」
誠意……。そういえばわたしは樫村さんにそんなことを言っていた。
誠意とはいったいなんなのだろう。
でも樫村さんの誠意とわたしのそれは根本的に違うような気がする。
樫村さんが平栗さんにこだわるのは、平栗さんの作る製品の素晴らしさを紙面に飾りたい、世の中の人に紹介したいという純粋な情熱によるものだ。そのなかには仕事のやりがいという自己満足も含まれているのだろうけれど、そこに悪意はない。
けれどわたしの場合は、許してもらうという目的を果たす手段でしかなかった。
「がんばってください。平栗さんに樫村さんの想いが伝わるといいですね」
どんなに熱い情熱を持っていても努力が実らないときもあるかもしれない。だけど、それでもいつかと信じてがんばり続けることは大切なことだと思う。
わたしはあのおばあちゃんの楽しみにしていた気持ちを台無しにしてしまった。わたしに、その“いつか”は来るのだろうか。おばあちゃんの気持ちを癒やしてあげられる日が……。
「では、そろそろ行きます。これから沖縄なんです」
樫村さんが腕時計を見ながら言う。
だからいつもより大きい荷物だったのか。といってもキャリーバッグは機内持ち込みサイズのコンパクトなものだけれど。
「ご旅行……という感じではないですね」
「そうなんですよ、残念ながら取材です。遊ぶ時間なんてぜんぜんないくらい、きつきつのスケジュールですよ」
と言いながらも、その声は弾んでいた。
「それは大変そうですね」
「いつものことです。あの、また寄らせてもらっていいですか?」
「はい、ぜひ!」
避けることなく、これまで通り来店してくださるのはうれしい。樫村さんのことは人として素敵だと思っているし、仕事が好きなことが伝わってきて、もっといろいろな話を聞いてみたいなと興味がわく。
「よかった」
樫村さんが口もとをほころばせた。
「なにがですか?」
「出禁になるかと思っていたから」
「しませんよ。いつでもいらしてください」
「ちなみに春名さんへの気持ちは本物ですから」
「……本物?」
「あの告白は本気です。でも脈なしだってわかっちゃったからあきらめます。こればかりはしょうがない。でも気が変わったら教えてくれるとうれしいな」
樫村さんは言うだけ言うと、「それじゃ」とキャリーバッグを手に、さっさと店を出ていってしまった。
わたしは店先に出て見送ることも忘れ、その場でぼーっとしてしまった。
照れていたのだろうか。途中から一度も目が合わなかった。
やさしい人なんだなあ。少しでもわたしに負担をかけないよう、終始明るく努めてくれたに違いない。
それから少しして榎本くんが配達から戻ってきた。
「今戻りました」
「お帰り」
「枕花はご遺族の方に直接受け取っていただけました」
「ありがとう。お疲れ様」
わたしはアレンジメント制作をしていた。
透明のガラスビンにカラフルにアレンジしたブーケを挿し、陳列棚に並べていく。
別の棚には部屋のインテリアの参考になるようにグリーンピックや多肉植物の寄せ植えポットを並べ、小さなグリーンガーデンを作る。
コタさんが言っていた屋内緑化を思い出し、それとは次元が違いすぎるけれど、いつもよりグリーンを多めにしてみた。
いずれも販売促進のためのもの。雑貨屋さんに入る感じで、花屋も気軽に覗いてほしい。そんな想いをこめている。
実際、店の前を通った方がふらっと入ってこられることもあり、なかなか効果がある。
「可愛らしさとさわやかさ。おしゃれ感満載ですね」
榎本くんがうんうんと頷いていた。
「本当? 大丈夫かな?」
「売り上げアップ間違いなしです!」
「榎本くんがそう言うのなら素直に信じてみるか」
「安心してください! 俺、売れるか売れないかっていうの、不思議とわかるんですからね」
根っから明るい榎本くんと話していると元気が出てくる。
閉店まであと少し。はりきって残りの作業を終えた。
すると会社帰りらしき女性がふらりと入ってきて、さっき並べたばかりの多肉植物の鉢植えを、好奇心いっぱいにあれこれ見ている。わたしが手入れの方法を説明すると、思ったよりも手がかからないことが決め手だったらしく、ふたつの鉢植えを買い求めくださった。
そのお客様がお帰りになったあと、ドアを閉めながら榎本くんが得意げに言った。
「ね? 俺の言った通りでしょう?」
「そうだね」
「きっと、もっともっと売れますよ」
「だといいけど」
「ほら、さっそくお客様がいらっしゃいましたよ」
そう言われて店の窓のほうを見ると、熱心に店先の花を眺めている男性が見えた。
「野上さん……?」
「お知り合いですか?」
「うん、冴島社長のお友達なの」
駆け寄ってドアを開けると、「やあ」と野上さんが片手を挙げ、柔和な笑みを浮かべた。
野上さんはバランスのいいすらっとした体躯なので立っているだけで存在感がある。くわえて腰がやわらかく、それらがどことなく冴島さんを思い出させ、途端に胸が苦しくなった。
「近くまで来たから寄ってみたんだ。それと、お祝いの花の配達もお願いしたいんだけど」
「ありがとうございます。なかへどうぞ」
花の配達なら電話でもかまわないのに。しかも一度しかお会いしていないのに、わざわざ足を運んでくれるとは、なんて律儀な人なのだろう。
「なんのお祝いですか?」
「取引先の副社長が社長に就任したんだ。それで胡蝶蘭を贈りたいんだよ」
確認したら都内の会社ということで、車だと店から十五分もかからないところだ。
「明日の午後一にはお届けできるかと思いますが、ご希望の配達日時はありますか?」
「早いほうがいいな」
「かしこまりました。では明日の午後一にお届けしますね」
それから新社長の名前と正式な役職名、住所などの確認をする。野上さんも慣れたもので、立て札の文字を細かく指定してくれた。
「野上さん、あの……」
会計を済ませ、落ち着いたところでふと思い立ってわたしから声をかける。
「ん?」
野上さんは一瞬だけ不思議そうな顔をしたけれど、すぐになにかを悟ったようにじっとわたしを見つめた。
野上さんも冴島さんと同様に勘の鋭い人だ。近くに榎本くんがいて言葉に詰まっているわたしを見かねてこう言ってくれた。
「お店が終わったあとでもいいよ」
「でも……」
わたしの話を聞いてくれるつもりなんだ。だけど時間を作ってもらうのはさすがに図々しくないだろうか。
「車で来てるから、その辺の店で仕事しながら待ってるよ」
「いいんですか?」
悪いと思いながらもわたしはすっかりその気だ。
「もちろん。コタの店は行ったことある?」
「いいえ、ありません」
「せっかくだし行ってみない? そこで食事でもしながらでどう?」
「はい、よろしくお願いします」
野上さんが名刺を差し出す。最低限の情報のみ記載された肩書もない、モノクロのとてもシンプルな名刺だ。
そういえばフリーランスのソフト開発者だと言っていた。だからやろうと思えばカフェなどでも仕事ができるのだろう。
あとでこちらから電話する約束をして、野上さんとはいったん別れた。
彼にはとても不思議な魅力がある。やさしい話し方や表情からのんびりとした印象を受け、親しみやすいけれど、洞察力があって、たぶん相当頭の切れる人だ。
この人なら、わたしの悶々としたこの状況を打破するヒントをくれるかもしれない。なんの確証もないけれど、そんな気がした。




