6.慣れない恋人関係
週明けの火曜日。
月曜日だった昨日は祝日だったため、昨日の午前中に予定していた冴島WESTビルのエントランスの生け込みは、今日の午後に変更になった。
午前中は予定通り、冴島テクニカルシステムズに伺った。
役員会議室の予約の都合で、そちらの生け込みを先に終わらせ、次に社長室へと移動する。
「社長は外出中なので、気兼ねなくどうぞ」
社長室のドアの前で小山田さんに言われ、残念な気持ちを隠して笑顔を作る。
けれど会えるかもしれないと期待していた分、落胆が激しい。隠しきれなかったさみしさを小山田さんに見破られてしまった。
「お身体の具合でも悪いんですか?」
わたしよりも高い身長、さらにヒールの高いパンプスを履いているため、小山田さんが視線を合わせるように少しだけ前屈みになる。だけどわたしにしてみると、目鼻立ちの整った美しい顔が目の前にあるため妙にドキドキしてしまい、変なテンションになってしまった。
「いいえ、ぜんぜん元気です! 調子はとてもいいです!」
無駄に元気アピールしたせいで、小山田さんが苦笑している。
「それでは終わりましたら声をかけてください」
「はい……、よろしくお願いします……」
恥ずかしくて声が小さくなっていく。そんなわたしに小山田さんはにっこりと微笑み、秘書室に戻っていった。
わたしも仕事モードに気持ちを切り替え、花材一式の入った台車を押して社長室に入る。
花器は毎回変えている。前回はボルドーのダリアをメインにし、花器は渋みのあるブラウン。かなりインパクトの強いものだった。
今回はアンティーク調のベージュの花器。頭のなかにイメージを作り、黙々と花を飾っていく。
集中しているせいか、時間が経つのはあっという間。ふと腕時計を見ると、もうすぐ一時間が経とうとしていた。
今日はピンクのスイートピー、薄紫のトルコギキョウ、白のレースフラワーとワックスフラワーを組み合わせ、やさしい感じにしてみた。
「よし、できた」
少し離れたところからも仕上がりを確認する。
それから後片づけに取りかかった。忘れ物をしないのはもちろん、床や壁、調度品に葉や花粉などを残さないよう細心の注意を払う。
すべての作業を終えると、小山田さんに作業終了を報告するため秘書室に立ち寄る。だけど、社長室を確認してもらい、ふたりで部屋を出たところで、冴島さんにばったり会った。
「社長、今ほど生け込みの作業が終了しました」
小山田さんが事務的に報告する。
「ありがとう。春名さん、お茶でも飲んでいかない?」
冴島さんはそう言うと、小山田さんに目配せする。彼女は会釈をしてからこの場から立ち去った。
「なかへどうぞ」
ドアを開けて促され、遠慮するのも失礼だと思い、社長室に入った。
「ちょうどよかったよ。話があったんだ」
冴島さんは背広を脱いで、ソファの背もたれに無造作にかけると腰を下ろす。
わたしも向かい側に座った。
「お話ってなんですか?」
世間話ということでもなさそうだ。彼の目はとても楽しそうに輝いている。
「仕事の話だよ。知り合いの店でレセプションがあるんだけど、その会場の生け込みをやってみない?」
レセプションということは公式のイベント。随分と本格的のようだ。
「それはありがたいお話なんですが、会場はどれくらいの規模ですか?」
あまり大きな会場だと難しい。日曜日なら店の定休日だから、塔子さんと榎本くんの三人でなんとかできなくもないけれど。
「ジュエリーショップなんだけど、お店自体は大きくないから大丈夫」
「それなら、ぜひお願いします!」
「そうくると思った。詳しいことは打ち合わせで確認してもらいたいんだけど。僕が今言える情報は、今度ジュエリーの新ブランドを発表するらしくて、そのときに新作ジュエリーをお披露目するんだって」
「うわぁ、素敵ですね」
聞けば、関東を中心にいくつか店舗があり、レセプションは都内にある本店で開催されるらしい。そこは路面店で、店内をレセプション会場にセッティングして、お得意様や関係者を招待するそうだ。
冴島テクニカルシステムズも会場の通信系の仕事を請け負っているらしく、聞くまでもなく信頼性の高い仕事で、さらに魅力的に感じた。
「じゃあ、春名さんのことを連絡しておくよ。あとで向こうから電話があると思うから、僕のことは抜きで進めてくれてかまわない」
「わかりました。精いっぱいやらせていただきます」
そこへ小山田さんがアイスコーヒーを運んできてくれた。まだ外は夏の名残が残る空気。氷がカランと鳴って涼しげだ。
冴島さんは喉が渇いていたらしく、グラスに口をつけて勢いよくゴクゴクと飲んでいる。わたしは添えてあったストローをグラスに挿してから頂いた。
「お知り合いというのは、そのジュエリーショップの社長さんですか?」
「うん、デザイナーもやってる。たまに飲みにいく仲なんだけど、もともとはうちの会社の顧客として知り合ったんだ。けっこういい男だよ」
「あっ、男性なんですね。てっきり女性かと思ってました」
「三十代独身で顔もよくて、金もまあまあ持ってる。黙ってても女性が群がってくるよ」
類は友を呼ぶとは言うけれど。相変わらず、冴島さんのまわりにはレベルの高い人がいるんだな。
ジュエリーデザイナーの美的センスやこだわりは相当なもののはず。期待に応えられるようがんばらないといけない。
それからいったん店に戻り、昼休憩を終えた午後。わたしは再び冴島WESTビルに来ていた。
午後はエントランスの生け込み作業だ。
キク科でオレンジ色をした丸い花のピンポンマム、ブルニアレッドなど華やかな色合いの花々のなかにサンデリアーナのグリーンを添えていく。
そして全体のバランスをみながら作業も終盤にさしかかった頃、冴島さんのお母様である小百合社長が通りかかった。
「今回もきれいね」
「ありがとうございます、小百合社長」
「あら、このお花、菊に似ているわね」
「そうなんです。いわゆる西洋菊で、ピンポンマムといいます。オランダで作られた品種なんです」
「へえ、そうなの。菊にもいろいろな種類があるのね」
小百合社長は花に顔を近づけてピンポンマムに興味を示した。
こうして見ると、冴島さんは小百合社長の息子さんなのだなと改めて実感する。花の香りを嗅ぐ横顔もそっくりだ。
「そういえば、うちの秋成なんだけど、心境の変化でもあったのかしら? 急に社長室に花を飾るようになっちゃって」
「ご覧になられたんですね」
「ええ、さっき寄ってきたところなの。春名さんにお願いしてるって聞いて、びっくりしたわ」
小百合社長はまだ知らない。わたしと冴島さんがおつき合いしていることを。
それを知ったら、今の反応の何倍、いや何十倍驚くのだろう。……その前に認めてもらえるのだろうか。
小百合社長はわたしのような業者の人間にもやさしい。お高くとまった感じはなく、いつも朗らかで親しみやすい。この人があの冴島物産の社長夫人とは、初めてお会いしたときはなかなか信じられなかった。
だけど息子の交際相手となると、やさしい笑顔のままというわけにはいかない……よね?
「春名さん、どうかした?」
「す、すみません。なんでもないです」
慌てて笑顔を作って取り繕う。
「ねえ、春名さんはどう思う? あの子の心境の変化は、やっぱりなにかあったのかしら?」
「さあ、どうなんでしょう」
「一番驚いたのは、結婚にも前向きになったところなのよね」
「結婚……」
いきなりのワードにそれ以上言葉が続かない。
冴島さんとはまだおつき合いがはじまったばかりで、結婚の話なんて当然したことがない。それどころか、まだまだ恋人同士にはほど遠い感じだ。
「冗談で、どなたかいい人でもできたのかしらって言ったら、まんざらでもない顔をするのよね」
「でもそれだけでは、結婚とはならないような……」
「秋成には常々、二十五を過ぎてからおつき合いする女性は結婚を前提にねって言ってるの。彼女ができたことを隠さないってことは、そういうことなのよ」
小百合社長は興奮気味に話す。
だけど、わたしにはわからない。冴島さんがそこまで考えてくれているのかなんて。
わたしだって、そんな先のことを考える余裕はないし、そんな未来は想像がつかない。
「どんなお嬢さんなのかしら? これまで一度もおつき合いしている女性を紹介してもらったことがないから気になるわ」
小百合社長はなおも続ける。わたしはやっぱり答えられなくて、曖昧に笑ってごまかすだけ。
「秋成って、昔らからちょっと気難しいところがあるのよ。簡単に人を信用しない。心を許す人間は、今でもごくわずかしかいないわ」
「意外です。たくさんお友達がいらっしゃって、顔も広いようだったので」
「愛想だけはいいのよ。それが秋成の特技と言ってもいいわ。だけどそれは表向きのものでしかないの」
わたしが見てきた冴島さんも社交的でやさしくて笑顔の多い人。
だけど言われてみれば、ほかの女性やお友達と話しているときは普段とは違う雰囲気だった。まったく隙がないのだ。完璧すぎて本音が見えない。
野上さんやコタさんと一緒にいるときはリラックスして楽しんでいるようだったし、気に入らないことがあると素直にそれを顔に出していたので、微妙なギャップは感じていた。
ふと誕生日パーティーのときの野上さんの言葉を思い出す。
冴島さんのまわりには常に大勢の敵がいると。冴島さんはそんなことを気にする様子もなく明るく振る舞っていたけれど、あれは表向きの冴島さんだったのだろうか。
もしそうだったのなら……。
人を簡単に信用できないのは野上さんが言っていたように、なにか策略があって近づいてくる人が多かったからだ。だから常に警戒していないといけない。そのため、そういう人を瞬時に嗅ぎ分ける能力が自然と身についたのかもしれない。
そして、それと同時に自分の本音を隠すことも覚えてしまったのだと思う。
「冴島社長は小百合社長にとてもよく似ていらっしゃいます。品格があって、おやさしいです。表向きというより、誰も傷つけないように振舞っているのではないでしょうか」
「どうしてそう思うの?」
「冴島社長ほどの方になりますと、いろいろな人が寄ってきます。ですが、冴島社長が本気になったら、たいていの人は敵いません。だから無駄に事を荒立てないよう、穏便に振舞っていらっしゃるんだと思いました」
「あの子をそんなふうに言ってくださる人は初めてだわ。ありがとう」
小百合社長は目を細める。
それは母親の顔だった。息子を誇りに思い、心から愛していることが伝わってくる。
「秋成の彼女が春名さんだったらいいのに」
「えっ!?」
突然、小百合社長が爆弾発言をする。
わたしは瞬きを忘れてしまうほど動揺してしまった。
小百合社長はいたってまじめな面持ちで、からかっている感じではない。
「驚かせてごめんなさいね。だったらいいなっていう話よ。冴島家の嫁は、春名さんみたいにまじめで心のしっかりした女性じゃないとね」
「そんな、わたしなんて……」
直接、自分のことを言われているわけではないのに、顔に熱が集まってくる。
でも浮かれてはいけない。あくまでもたとえばの話。わたしが他人だから気軽にそう言えるのであって、決してわたしを歓迎してくれるとは限らないんだ。
わたしはゆるみそうになる顔を必死に引きしめ、そう自分に言い聞かせた。
店に戻り、わたしは塔子さんに冴島さんからジュエリーショップの生け込みの仕事を紹介してもらったことを伝えた。
塔子さんはブランド名を聞いて大興奮。なんでも有名なブランドらしく、そういうのに疎いわたしは塔子さんから教えてもらい、ようやく自分が思っていた以上に大きな仕事なのだと認識できた。
「失敗したらどうしよう。わたし、うまくできるかな?」
「いつものようにやればいいのよ」
「そうだよね。一生懸命がんばるしかないよね」
「だけど、がんばりました、努力しましただけじゃだめなのよ。先方がどんなものを求めているのかをしっかり把握して期待に応えなさい」
「それ、お父さんがよく言ってたセリフじゃない」
「あら、そうだった?」
塔子さんがおどけるように言った。
仕事をしているときの父はストイックだった。普段は穏やかでやさしい人なのに、花に向き合っているときはまるで人が変わる。
わたしが高校生のとき、店内のディスプレイのアレンジメントをやらせてもらったことがあったのだけれど。何度もだめ出しされて、やり直しをさせられた。
──自分が作りたいものを上手に作ればいいってもんじゃないんだ。
結局、わたしの作ったものは採用されず、飾られることもなかった。
つくづく思う。あの頃のわたしはなにもわかっていなかったのだなあと。
自己満足だけでは商売は成り立たない。つまり、自分本位のきれいや可愛いだけじゃだめなんだって。お客様が喜んでくださるもの、満足してもらえるものを作ることが大事なのだと思う。
「大丈夫、咲都はいいものを作ることができるわよ。なんてたってお父さんの血を受け継いでいるんだから」
なんだかんだ言っても、塔子さんに励まされると元気が出てくる。わたしを紹介してくださった冴島さんにも迷惑がかからないよう、しっかり務め上げなければ。
先方から電話がかかってきたのはその日の夕方頃だった。さっそく冴島さんが連絡を入れてくれたのだ。彼に感謝しながら、簡単なコンセプトの説明と打ち合わせ日程を決めて、その日は電話を終えた。
「どうだった?」
塔子さんが電話の内容を気にして尋ねてきた。
「あさって、打ち合わせに伺うことになったの」
レセプションは九日後。来週木曜日の夕方から。思ったよりも急なスケジュールだけれど問題はない。
塔子さんに電話の内容を簡単に説明すると、「店の心配はいらないからね」と言ってくれて心強く思った。
なんだかワクワクしてくる。さっきまでの不安が嘘のように吹き飛び、期待に胸がふくらんだ。
五日後の日曜日。
今日は店の定休日で、午後から冴島さんの運転で東京ベイエリアに連れてきてもらっていた。
夕べ遅くに電話がかかってきた。そのときわたしは寝ようとちょうどベッドに入ったところだった。
でも冴島さんは出先だったらしく、電話越しにバイクのエンジン音や車のクラクションが聞こえてきて、聞けば仕事関係の人との懇親会の帰りだという。
こんな遅くまで大変だなあと思っていたら、ふいに「ドライブでもしようか」と言われ、図々しくも行き先をリクエストしてしまった。
同年代の女性がしているようなベタなデートをしたくて、人気の水族館を満喫し、それから羽田空港に立ち寄った。
ライトグレーのカジュアルなニットを着こなしている冴島さんは親近感がある。仕事のときも気さくな雰囲気をまとっているけれど、それよりも無防備だ。
わたしたちは飛び交う飛行機を展望デッキから眺めていた。
「旅行なんて、もうずっとしてないなあ」
「どれくらい?」
「OLだった頃に行った北海道の社員旅行が最後なので、二年近くですね」
「空港に来るのもそれ以来?」
「そうなんです。飛行機に乗るのも数えるほどしかありません。冴島さんはお仕事でもよく飛行機に乗っているでしょうから、珍しくもなんともないですよね」
「そんなことないよ。いつ見ても何度見ても飛行機は格好いいなって思うよ。子どもの頃、パイロットに憧れたなあ」
冴島さんは懐かしむように遠くを見た。
轟音とともに飛行機が離陸し、それを負う瞳は少年みたいに好奇心に満ちている。
「冴島さんってパイロットに向いてそうですね」
「そう?」
「冴島さんには誰もが認める高い能力があります。でもそれだけではなくて……」
言っていいものか迷う。躊躇しているわたしに気がついた冴島さんが、「かまわないよ」と続きを促した。
「努力家なところでしょうか」
「へえ、初めて言われた」
「といっても、そういう姿を見てきたということではなくて。きっとそうなんだろうなっていう想像です」
単に一生懸命がんばっているということではない。目標を達成するために必要なことをやり続ける。じゃないと二十代であれほどまでの功績を残せない。
わたしだってそれなりに努力しているけれど、いまだに同じ場所であがいている。当初の目標とはかけ離れたところにいて、正直言うと冴島さんがうらやましくて仕方がない。
「努力家ってあまり人に言われたくない言葉だけど、たしかにそうかも。自分で言うのもなんだけど人よりも努力はしてきたかな」
「だけど冴島さんの場合、そういうのを感じさせないからすごいと思います」
「言ってること、矛盾してない? 感じないのにわかるんだ?」
「わかりますよ。努力なくしては大きな会社のトップに立てませんから」
「僕の場合は、生まれ育った環境がよかっただけだよ。絶好の手本が身近にいた」
「以前、冴島さんは親の七光りを受けて仕事をしてきたとおっしゃっていましたけど、そんな甘い世界じゃないことぐらい、わたしにだってわかります」
冴島ブランドの力を利用してきたのも事実なのだろうけれど、冴島さんにはもともと素質があったのだと思う。
「持論というか、あくまでもわたしの勝手な思い込みですが。特別のなにかを持っている人が努力をすることで天才やカリスマになるんだと思っています」
「春名さんは意外に大胆なことを言う人だね」
「ごめんなさい。やっぱり失礼ですよね。わたしったら偉そうに……」
「いや、気分を害したとかじゃないんだ。僕のこと、そんなふうに見てくれていたのかと思ったら、なんかうれしかった」
明るい陽射しのなかで、冴島さんがさわやかという言葉がぴったりの笑みをこぼす。
やっぱり格好いいなあ。
つい見入ってしまったら、向こうもじっと見つめてくる。慌てて正面を向いたけれど、視線はずっと感じたままだった。
「最初は自由になりたいって思ったからなんだ」
突然、冴島さんが話しはじめる。わたしは意味がわからず、彼を見上げた。
「僕が冴島家を飛び出した理由」
「え?」
「大学生のときに、生まれて初めて父に反抗したんだよ。冴島物産を継ぎたくないって言ったら勘当された」
勘当のことは以前にも聞かせてもらった。あのときは詳しいことは聞かなかったけれど、お父様との間で複雑な事情を抱えていたのだけはわかった。
冴島さんは遥か遠くに目をやり、静かに続きを語った。
「僕は父が嫌いだった。小さい頃から興味を持ったものをすべて取り上げられて、代わりに家を継ぐためにいろんなことをたたき込まれた」
「それで反発を?」
「溜まりに溜まったものが爆発したんだろうね。そしたら、生活費も学費も親に出してもらってるくせに文句を言うなって説教されたんだよ。なら自立してやるって思った。自分の力を試したいっていうのもあったし」
「そして今はお父様に認められている。やっぱりすごいです、冴島さんって」
わたしが誇らしげに思うのも変だけれど、そんな人がわたしを選んでくれたのだと思ったら自信につながる。
人をうらやましがってばかりいてもはじまらない。見習うべきところを見習って、わたしもちゃんと成長していかなきゃ。
「そろそろ行こうか。身体を冷やすといけないから」
昼間は気温が高めだったのに、日が傾き、風が涼しくなってきたところだった。
でもこんなに気温が下がるとは思わなかった。あいにく上に羽織るものを持ってきておらず、半袖のカットソーだけだと肌寒い。
「いろんな店があるから、少し覗いてみる?」
「はい、行ってみたいです」
前にもここに来たことがあるけれど、もうだいぶ前のこと。久しぶりにショッピングをしてみたい。
こうして展望デッキから離れ、エレベーターに乗り込んだ。ターミナルビルにあるショップをまわり、それから有名スイーツ店で塔子さんへのお土産を買った。
「お母さんは甘いものが好きなの?」
「はい、親子そろって甘いものに目がないんです。でもデートのときに同居している母親にお土産を買うなんて変ですよね」
「そんなことないよ。そういうことなら僕からもプレゼントさせて」
「そんな、気を使わないでください」
だけど冴島さんはほかの店のスイーツもすすめてくる。「いらないですから」と断っているわたしの目の前で次々と支払いをしていき、あっという間に両手が紙袋でふさがってしまった。
「こんなにたくさん……。ありがとうございます」
せっかく買ってくれたのだし、全部おいしそうだし、なにより楽しそうな笑顔を見せられると太ってもいいやと思えてしまう。いや、よくはないのだけれど、厚意を無駄にしたくない。
だけどその後、そのこととは比べものにならないほどの展開がわたしを待っていた。
夜になり食事に行こうということになったのだが……。招待されたのが貸切りのディナークルーズ。乗船客はもちろんわたしたちだけ。
夕べ、思い立ったように誘ってきたのにばっちり予約を入れていて、お金の使い方と段取りのよさに驚かされる。わたしにとって、まったくの規格外だ。
当然、冴島さんにとってはこんなことはたいしたことではない。わかっているつもりだったのに、もやもやしたものが胸のなかに広がっていった。
わたしはここにいていいのだろうか。そんなことがふと頭をよぎった。
「口に合わない?」
食事が運ばれてきてからも、そのもやもやはなくならなくて、メインの牛肉の赤ワイン煮をひと口食べたあと、ついぼんやりとしてしまった。冴島さんが異変を感じたらしく、心配そうな顔をしていた。
「味はとてもおいしいです。ですが、あまりにも豪華で」
牛肉にナイフを入れながら笑顔を作る。
海の上とは思えないほどのゴージャスな船内レストラン。貸切りなのでふたりで食事をするには広すぎる。窓の外の景色も非現実的で、どうしてもこの空間に馴染めず、落ち着かなかった。
やっぱり住む世界の違う人だ。
「普通のレストランでよかったんですよ」
「僕がそうしたかったんだよ。できれば他人にじゃまされたくないからね」
「じゃま?」
「プライベートの食事のときぐらい、人目を気にしたくないから。レストランの個室でもよかったけど、せっかくベイエリアに来たんだし、海の上がいいかなと思ったんだ」
「人目を気にしたくない」と聞いて、思いあたる節があった。水族館でも空港でも、やたら注目されていて、わたしも幾度となく視線を感じた。
あの視線は冴島さんのオーラに惹きつけられた人たちのものだ。立っているだけで存在感があるから、どうしても目立ってしまう。
冴島さんレベルまでいくと、気にもならないくらいに慣れているのだとばかり思っていた。
メディアにも顔出ししているし、大学教授や経済界の話題の人たちが出席しているシンポジウムの動画までが大手配信サイトで無料公開されている。そもそも人に見られることにあまり抵抗を感じない人だと思っていた。
「こう見えても目立つのは嫌いなんだよ」
「はい?」
「そう言いたげな顔してたから」
からかうように顔を覗き込まれる。
「そ、そんなことありませんから!」
首を振って否定すると冴島さんは声をあげて笑った。
完全に思考を読まれている。
「春名さんは正直でいいなあ。すぐ顔に出るよね」
「そうですか? あまり言われたことはないんですが」
客商売をしている身としては聞き捨てならないセリフだ。冴島さんのように常に落ち着いて穏やかでいたいと思っているのに。
「僕の前では正直でいてよ」
急に声のトーンが変わり、心配そうに語りかけてきた。
「冴島さん……」
「不安なことがあったら遠慮なく言ってほしい」
「それも顔に出てました?」
「一瞬だけどね。でも何度か」
わたしはハッとした。
今だけではない。これまで一緒に過ごしてきた時間、わたしはずっと心の奥を見破られていたのだ。
少し足が疲れたなと思ったら、タイミングよく「お茶でも飲もうか」とカフェに誘ってくれた。人混みに戸惑っていると、「あっちに行ってみる?」とその場所から連れ出してくれた。
冴島さんはわたしが思っている以上にわたしを見ていてくれて、想像していたよりも誠実な人だった。
なにも気にすることはない。目の前にいる冴島さんを信じていればいいんだ。
それからの食事の時間は最高に楽しかった。冴島さんの学生時代の思い出をたくさん聞かせてもらい、運ばれてくるコース料理は完食。
今日は車で来ているため、残念ながらお酒は飲めなかったけれど、アルコールが入っているのかと思うくらい、冴島さんは陽気に笑っていた。
食事を終えると船のデッキに出て、海風にあたりながら夜景を見た。レインボーブリッジや高層ビル群の光に魅了され、その美しさに言葉をなくす。
そのとき、肩がふわりとなにかに包まれた。
「冷やすといけないから」
肩にかけられたのは肌触りのいいストール。シルクのようななめらかさで、薄手の生地なのに不思議とあたたかく感じた。
「これって……」
「プレゼント。船に乗る前に急きょクルーズ会社に頼んで用意してもらった」
いつの間にそんな手配までしていたのだろう。空港のターミナルビルでわたしがトイレに行っているときだろうか。どちらにしてもそのときしか思いつかない。
だけど、こんなに尽くしてもらっていいのかな。わたしはもらうだけもらって、なにも返せていない。
「ありがとうございます。これ、大事にします」
「よかった、受け取ってくれて」
「えっ?」
「“頂けません”って突っ返されるかと思ったから」
「……うれしかったので」
ストールを選んだのは別の人だけれど、用意をしてくれたそのやさしさがうれしい。
心があたたかくなっていく。
だけど、いつもわたしを見てくれているのだと思ったらドキドキして、嫌でも意識してしまう。
もう、こんなに好きなんだ。
決して強引じゃなかった。うまい具合に誘われて、気づけば冴島さんの存在はわたしの心を大きく占めていた。彼の言葉や仕草、そして表情に一喜一憂させられているのがその証拠だ。
「どうかした? もしかして船酔い?」
「い、いいえ! ぜんぜん平気です」
「じゃあ照れてるだけかな?」
からかうように言われ、またも思考を読まれているのだとわかった。
わたしは図星でなにも言い返せない。
「僕の前では正直でいてほしいって言ったよね?」
改めてこの至近距離に戸惑う。間近で顔を覗き込まれ、思わず一歩あとずさりした。
「そうですけど。恋愛なんて久しぶりですし、えっと、その……あまり経験が豊富というわけでもなくて……」
さっきよりも少しだけ開いた距離。だけど冴島さんがその分をすかさず詰めてくる。わたしは顔を見られなくて、夜の真っ黒な海に視線を移した。
冴島さんのことを好きという気持ちが急速に大きくなっていくことに、わたし自身が追いついていけないのだろうか。わたしも自分の熱い想いを伝えたいのに、いざとなると怖くなってしまう。
おかしいな。こんなはずではなかったのに。どうして怖いと思ってしまうのだろう。
「僕もどうしていいのかわかんなくなる」
「えっ?」
少し困ったように言うので、びっくりして冴島さんを見上げた。
わたし、なにかしたのだろうか。なんとなく冴島さんの気を悪くさせてしまったような気がした。
だけど冴島さんは甘く微笑みながら言った。
「春名さんのこと、現在進行形でどんどん好きになっていくよ。まさか自分がこんなにも誰かに夢中になるとは思ってもみなかった」
夜でよかった。とろけそうな彼の声を聞いているだけで、心臓がバクバクして大変なことになっている。もし明るいところできれいな顔が目の前にあったら直視できないと思う。
わたしは心を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。
そんなわたしをよそに、冴島さんはだんだんと余裕を取り戻したみたいで、海風を気持ちよさそうに受けながら夜景を眺めていた。
「そういえば、『Glanzの件はどうなった?』
冴島さんが思い出したように言った。
そうだった。うっかり報告し忘れるところだった。今日会ったときにこの話をしようと思っていたのだと、急いで頭を切り替えた。
『Glanz』とは、冴島さんに紹介していただいたジュエリーショップ。三日前にデザイナーでもある恒松社長と打ち合わせをしてコンセプトや予算、デザインなどを話し合った。
そのことを簡単に説明すると、「がんばって」と応援の言葉をかけてもらった。
「恒松社長っておしゃれで陽気で、あとなんていうか……」
ジュエリーデザイナーだけあって美意識が高く、洗練されたファッションとアクセサリーを嫌みなく身にまとっていた。おまけに華やかな顔立ちと上品な身のこなし。さらに巧みな話術までそなわった人だった。
こんなふうに言葉を並べると紳士的でパーフェクトな男性に思えるだろう。けれど、そうでもなくて……。ひと言で表すと“チャラい”。それがしっくりくる。
「もしかして口説かれた?」
冴島さんにギロリと睨まれる。
「いいえ、それはないです。お仕事の話しかしていませんから」
「よかった。でもまあ、春名さんは口説かれても応じない人なのはわかってるけど」
「やっぱり、そういう方なんですか?」
紹介していただいた方をそんなふうに言うのも失礼だけれど、実際にお会いしてショックだったので。
「ちょっと自由すぎるところはあるかな。でも才能も実力もある人なのは間違いないよ」
「それはわかります」
頭の回転が速くて、飲み込みも早い。わたしの言いたいことをすぐに理解してくれて、生け込みのデザインのヒントをいくつもくれた。
おかげで打ち合わせは短時間ですみ、それなのに内容の濃いものだった。
「うちのビルで仕事をするときとは、また違う刺激がもらえるといいね」
「すでに刺激を頂きました。どんなふうに飾ろうか、デザインを考えるだけでわくわくします」
「成功を祈ってるよ」
「ありがとうございます。精いっぱいがんばります」
楽しい時間は本当にあっという間だった。船が港に着いて下船すると、そのまま車に乗り込んだ。
首都高に入り、わたしの自宅へと向かう。
「しばらく忙しくて、ゆっくり会えないかもしれないんだ」
ハンドルを握っている冴島さんがなんでもないことのようにさらりと言う。
変なタイミングで仕事モードになってしまうんだなあ。それだけ忙しいということなのかもしれないけれど、もう少し残念そうに言ってほしい。
さみしいと思っているのはわたしだけなのかな。
だけどその不満を悟られないよう一生懸命強がった。
「わたしのことは気にしないでください。お仕事大変でしょうから」
「春名さん、あのさ……」
冴島さんがなにかを言いかけてやめる。
「どうかしました?」
「いや、なんでもないよ」
にっこりと微笑まれると、納得いかなくてもそれ以上聞くことができない。
それから冴島さんは観葉植物の手入れのこと、プライベートの旅行の話などの話題をおりまぜながら、あたり障りのない話をした。
それはそれで楽しかったけれど、心に引っかかりを感じたまま。けれどそうこうしているうちに自宅に着いてしまい、そのまま車を降りた。
「今日は楽しかったよ」
「わたしも楽しかったです。帰りも車の運転、気をつけてください」
「うん、ありがとう。じゃあ、おやすみ」
「あ、はい……。おやすみなさい」
冴島さんの車が静かに去っていく。
ひとりになったら急に寒気を覚えた。肩から羽織っていたストールを胸の前でしっかりと合わせる。
この間とは違い、今日の帰り際はけっこうあっさりだったなあ。それともいつもはこんな感じなのだろうか。気にしなくても大丈夫なのかな……などと考えてみるが、胸のなかには虚無感が渦巻いていて心細くなっていく。
望み通り。ううん、それ以上に素晴らしいデートだったし、「好き」という言葉ももらえたのに、なにかが足りない。
だけど、こんなふうに思うのは失礼だよね。これ以上、なにを望んでいるのだろう。贅沢すぎる。
わたしたちはつき合いはじめたばかり。きっとこれからなんだ。これから少しずつふたりの関係を築いていくんだ。
今日の楽しかったことを思い出しながら、わたしはそう思い直した。




