4.思いもよらない告白に
月曜日の午前中は冴島WESTビルのエントランスホールでの生け込みの日。
幸いなこと(?)に冴島社長に偶然会うことはなく、仕事を終えて店に戻ってきた。
すぐに塔子さんが奥の事務所で昼休憩に入る。しばらくすると、いつもお世話になっている平栗さんがやって来た。
「やあ、咲都ちゃん。調子はどうだい?」
「ええ、なんとかやってます」
「そうか、それはよかった。あっ、いつものを頼むよ」
「はい、かしこまりました」
平栗さんは腕利きの革製品職人。商店街でオーダーメイドの革製品専門店を経営している。小さい店だけれど、平栗さんの作るものは高い品質を誇り、向こう半年は予約待ちのほどの人気だ。
そして彼は父の高校時代からの友人でもある。そのため父が亡くなってからも、うちの店をとても気にかけてくれて、商店街にあるお肉屋さんのタイムセール情報を教えてくれたり、「頂きものなんだけど食べきれそうになくて」と果物や地方の銘菓をおすそわけしてくれたりする。
今日はいつものように、神棚に供える榊を買いにきてくれた。
「今日もコーヒーを飲んできたんですか?」
「ああ、ナポリタンも一緒にね。なんだか急に食べたくなってね」
平栗さんは近くの喫茶店で出しているブレンドコーヒーが大好きで、その帰りにたまにうちの店に寄ってくれる。
「わかります。わたしもときどき無性に食べたくなるんです」
「てっちゃんも同じこと言ってたな」
「ナポリタン、好きでしたからね」
“てっちゃん”とは、わたしの亡くなった父、春名 哲史。
父が生きていた頃は、父も一緒に喫茶店に通っていたらしいけれど。今はひとりでのんびりとコーヒーを楽しんでいるそうだ。
「お金、ここに置いとくよ」
榊を包装紙に包んでいると、平栗さんがキャッシュトレイに千円札を置く。
「ありがとうございます」
先にキャッシュトレイの千円札をレジにしまい、お釣りをお渡しした。平栗さんはお釣りを受け取ると、本革製の小銭入れにお金をしまった。
小銭入れはもちろん平栗さんが作ったもの。
そして店のキャッシュトレイもそう。
レッドブラウンのそれは、わたしが店長になったお祝いにプレゼントしていただいた。もちろん平栗さんのハンドメイドで、店名も刻印してくださった。
本革は使い込むと味わい深くなる。しかも世界でただひとつのものなので、手入れをしながら大切に使っている。
「あっ、平栗さん! いらっしゃい」
昼休憩を終えた塔子さんが店に出てくると、さっそく平栗さんに気がついて声を弾ませた。
「塔子ちゃん、こんにちは」
塔子さんを“塔子ちゃん”と呼ぶのは平栗さんくらい。平栗さんは父と同い年なので、塔子さんとひとまわり違う。そのため、いい年した塔子さんをそう呼ぶのだ。
「いつもお買い上げいただいて、ありがとうございます」
「品ぞろえがだいぶ豊富になったね。咲都ちゃんも立派になって、これからが楽しみだね」
「父親譲りでほんとよかったですよ。咲都がいなかったら、どうなってたことやら」
塔子さんが明るく笑い声をあげる。
今でこそ能天気な塔子さんだけれど、父が亡くなってしばらくは抜け殻みたいだった。まともに食事をとらず、見る見るうちに痩せていったため、平栗さんがいたく心配してくれた。
こんなふうに言うと塔子さんはなんて頼りないのだろうと思うかもしれないが、わたしは塔子さんがいてくれるから、こうして仕事をがんばれている。店をしっかり守るだけでなく、家事のほとんどを塔子さんがやってくれているおかげで、わたしは店のことに集中でき、自宅でも勉強する時間がとれるのだ。
「またね、塔子ちゃん。咲都ちゃん」
「ありがとうございました」
平栗さんが榊を手に帰っていく。わたしと塔子さんは店の外に出て、その背中を見送った。
火曜日の午前中。社長室の生け込みに伺ったら、冴島社長は外出中で、昨日に引き続き、今日も会うことはなかった。
「本日の作業、すべて終わりました」
予定通りに作業を終え、秘書室にいる小山田さんに報告すると、彼女が社長室を確認しに行く。
するとドアを開けるなり、「うわぁ」と感嘆の声をもらした。
「一気に秋らしくなりましたね」
「メインはボルドーのダリアです。花器も渋みのあるブラウンにして、落ち着いた感じに仕上げました」
小山田さんは社長室に入ると、「きれいですね」と感慨深げに言った。
「花って前は興味がなかったんですが、もらうとうれしいものですね」
「どなたからかプレゼントされたんですか?」
「ええ、夫から」
「素敵な旦那さん。ご結婚されていたんですね」
よく見ると薬指に指輪がある。先週会ったときは緊張していて、そこまで目がいかなかった。
「先月、一年目の結婚記念日だったんです。花をプレゼントされたのなんて初めてでしたし、サプライズするような人でもないので、その分余計に感動してしまって……」
小山田さんの、見とれるほどきれいな横顔の頬に赤みがさしていた。
幸せそうだな。
こういう顔を見てしまうと、うらやましいなと思う。こんな感情は久しぶりだ。
おかしいな。大切な人へのプレゼントだとおっしゃって花を買っていかれるお客様をこれまでもたくさん見てきたのに。どうして今になって、こんなふうに思うのだろう。
そして、その日の閉店間際。午後七時にさしかかろうとしている頃だった。
早番の塔子さんは先にあがり、榎本くんは閉店作業に取りかかっていて、わたしは本日最後のお客様である常連の樫村さんの対応をしている。
深紅のバラを束ね、ラッピングしてリボンを巻く。
今日は少し気合が入っているような? 樫村さんがバラの花を選ぶのは初めてだ。
記念日のプレゼント? それともまさかのプロポーズ?
手を動かしながらなにげに視線を上げると、樫村さんが緊張気味にわたしの手もとを見つめていた。
バラのラッピングを終えると、それを樫村さんにお渡しする。それからレジカウンターのうしろに置いてある小さい花器からオレンジ色の実をつけたホオズキを数本手に取った。
「これ、サービスです。いつも買っていただいているので」
「ホオズキなんて懐かしいなあ」
「花瓶に入れて、毎日お水を換えてください。一週間はもつと思います」
「ありがとう。飾らせてもらうよ」
樫村さんはうれしそうに言ってくれた。さっきまでのピリピリした緊張感が薄れ、いつもの朗らかさが戻ったようだった。
喜んでもらえてよかった。
十日ぶりぐらいの来店だった。仕事もお忙しいだろうに、また来ていただけて本当にありがたい。
そんなことを考えながらホオズキを包装紙に包んでいると、ふいにレジカウンターに名刺を置かれた。
「扇出版さん?」
「はい、僕の勤め先です」
扇出版といえば、誰もが一度は聞いたことのある老舗の出版社だ。
「樫村さん、出版社さんで雑誌編集のお仕事をされているんですね。すごいなあ。やっぱりお忙しいんですか?」
「そうですね。ライターもしているので毎日締め切りに追われてる感じです。だから花を飾って癒やされたいなと思って」
「それでうちの店に来てくださるんですか?」
「ええ、まあ」
素敵なパートナーの方に買っていかれるのかと思っていた。それが自分のためだったなんて。あまりにも意外でぽかんとしてしまった。
「あの、春名さん」
「は、はい」
樫村さんが改まるように姿勢を正すので、わたしもピンと背筋を伸ばした。
「たぶんもう気づいているかと思うんですが、春名さんのことを前からいいなと思っていました。今度ふたりで食事に行きませんか?」
そう言った樫村さんは、ついさっきお渡ししたバラの花束を差し出してきた。
「えっ、わたしに!?」
こんなふうにお客様から好意を示されるのは初めてだった。うれしいというより戸惑いのほうがはるかに大きい。
以前、樫村さんのことで榎本くんにからかわれたことがあったけれど。まさか現実になるとは思ってもみなかった。
「お気持ちはありがたいんですが、お食事はちょっと……。すみません」
どうしよう。樫村さんのことをどうしても恋愛対象として見ることができない。数ヶ月前からうちの店に通ってくれていたのに、一度も胸がときめいたことがないのだ。
「いきなり誘ってしまったんで驚かれたと思います。なので、今すぐおつき合いしてほしいとは言いません。何度かデートして、それで判断してくださってかまいません」
思ったよりも積極的にこられて、彼の顔を直視できない。
樫村さんはきっといい人なのだろうけれど、まっすぐに気持ちをぶつけられると少し怖い。
せっかく好意を抱いてもらっているのに。わたしは今、ここから逃げ出したくてたまらない。
「だめですか?」
「……ごめんなさい」
「やっぱり、つき合っている人がいらっしゃるんですか?」
「いいえ、いませんが」
「それなら、ぜひお願いします!」
再びバラの花束を差し出され、ついに頭まで下げられた。
さっきまで店内にいた榎本くんの姿が見えない。
もしかして気を使っているつもりなの?
「困ります、頭を上げてください」
レジカウンター越しだから、まだなんとか耐えられるけれど、それ以上近づかれたら……。
そのときだった。
「こんばんは」
ドアが開く音とともに声がして、見ると白のワイシャツにグレーのネクタイ姿の冴島社長がいた。
わたしがすがるような目をしていたからなのかもしれない。冴島社長はわたしに向かって大丈夫だよというふうに頷くと、樫村さんの手もとにあるバラの花束を見て、彼に鋭い目を向けた。
「じゃましちゃったかと思ったけど、どうやらそうでもなかったみたいだな」
樫村さんがドアの前に立っている冴島社長を振り返る。冴島社長がにやりと笑みを浮かべた。
「実は僕のほうが先に口説いてたんだよね。悪いけど彼女をあきらめてくれないか?」
「初対面の相手に随分と失礼じゃないか? 僕は三ヶ月以上も前から彼女のことを……」
「好きなら、なぜそれを自覚したときに行動を起こさないんだよ? 躊躇しているうちにほかの男に取られるって思わなかった? まあ、その前に君じゃどっちみちだめだけどね」
「君になにがわかるんだよ?」
「彼女の反応を見て気づきなよ。怖がってるんだけど」
樫村さんが再びこちらを振り返る。わたしは取り繕うこともできなくて、思わず目を逸らしてしまった。
その瞬間ばさりと音がして、視界の端にバラの花束を持つ樫村さんの腕が力なくぶら下がるのが見えた。
「ごめん、怖がらせるつもりはぜんぜんなかったんだ。ただ、この三ヶ月間、このお店に通い続けて、嫌われているふうではなかったから期待してしまったのかもしれません」
樫村さんが申し訳なさそうに言うのを聞きながら、そんなつもりはなかったけれど、思わせぶりな態度を取っていたのだろうかと考えていた。
ふとレジカウンターに置いてあるホオズキが目に留まり、そういえば前にも一度サービスでおまけの花をつけたことがあったのを思い出した。それ以外にも軽く世間話をしたり、鉢物の水やりや手入れの仕方の相談にものったりした。
でもそれらはほかのお客様にもしていることで、決して樫村さんを特別扱いしたわけではない。
「店側が客に親切にするのはあたり前だろう。それを自分に好意があると勘違いしてしつこく迫るなんて、ストーカーの一歩手前だって」
「そんな言い方しないでください」
さすがにストーカーはないだろう。慌てて冴島社長を制止する。
だけどそんなことは無意味だった。今度は樫村さんが語気を強めた。
「見ず知らずのあなたにストーカー呼ばわりされるなんて心外です。僕のことをどうこう言う前に、ご自分はどうなんですか?」
意外にも樫村さんも負けていなかった。温厚な性格だと思いきや、なかなか迫力のあるもの言いをする。
「どうって……。僕は君とは違うよ」
「なにが違うんですか? あなただって春名さん狙いでここに来たんですよね?」
冴島社長がハッとしたように目を見開いた。けれどすぐにポーカーフェイスに戻り、こちらに歩み寄ってきた。
「もちろん、春名さん狙いだよ。でも……」
冴島社長が歩きながらそう言いかけて、いったん言葉を止めた。そして三人が顔を見合わせる位置に立つ。さっきよりも近い距離にひやひやしていると、冴島社長は話の続きをする。
「僕がこの店に来るのは、純粋に彼女に惹かれているからだ」
「それは僕だって同じです」
「そうかな? 君の目的はほかにあるんじゃないの?」
「意味がわからないのですが」
「平栗 勲が目的なんだろう?」
平栗さん?
どうしてここで彼の名前が出てくるのだろう。話の脈絡がまったく見えない。
「……なんのことやら。僕にはさっぱりわかりませんが」
「ここまで言ってるのに、まだとぼける気かよ? いい加減、認めなって。平栗勲とコンタクトを取るために、彼が可愛がっている春名さんに近づいたって」
突然の展開に頭がついていかない。
平栗さんに近づくため? わたしは騙されていたの? でもどうして?
次々に疑問が浮かんだ。
たしかに平栗さんは有名な革製品職人だ。そんな平栗さんと親しくさせてもらっているのも事実。
だけど、わたしが間に入る必要性がわからない。平栗さんに興味があるのなら直接お店に行けばいいのに……。
「樫村さん、どういうことですか? さっきのも全部嘘……?」
目的はわからないけれど、好きでもない相手をデートに誘うなんて。どうしてそこまでしないとだめなの?
「違うんです、春名さん。僕は──」
「なにが違うんだよ? 彼女を騙そうとしたくせに」
「それは違う! 僕は本気で……」
「往生際が悪いな。僕は君に会うのは今日で二度目なんだけど、一度目のときを覚えてる?」
苦々しい顔をした樫村さんとは真逆で、冴島社長は口角がピッと上がり、清々しい笑顔だった。
こんなときなのになんだか楽しそう。冴島社長は勝ち誇ったように話を続けた。
「僕が初めてこの店に花を買いにきた日、君はこの近くで電話をしていたんだ。聞くつもりはなかったんだけど、勝手に耳に入ってきたものでね。相手は出版社の人間だよな? 内容から察するに、おそらく平栗勲の取材の件」
樫村さんはバツの悪い顔をするが、観念したのか、遠慮なく悔しさをあらわにした。
「取材?」
わたしは冴島社長に尋ねる。
「そう。春名さんと平栗勲が家族ぐるみのつき合いだから、それを利用して彼に取り入って取材を申し込もうとしたんだ」
「ああ、それで……」
わたしはようやく事態を飲み込むことができた。
「春名さんに口添えをしてもらいたかったんだよな?」
冴島社長が樫村さんに確認するように尋ねると、樫村さんが耐えかねたようにすっと下を向く。その様子を見て図星なのだとわかった。
「僕も半信半疑だったんだけど。平栗勲が大の取材嫌いだと知って確信した。君があの日の電話で、『いざとなったら春名さんに頼んでみる』と言っていた意味がようやくわかったんだよ」
それがバラの花束を渡して告白という展開になるとは、さすがの冴島社長も予想していなかったそうだが。
「色恋を利用するなんて、君は最低だよ。春名さんに本当のことを話して口添えを頼んだほうがまだましだったと思うよ」
衝撃的な事実にめまいを覚えた。それと同時にふつふつと怒りがこみ上がってくる。
「たしかに平栗さんは取材を一切お断りしていたみたいでした。でもだからって……」
そういう理由で花を買っていたなんて、こんな悲しいことはない。
平栗さんの取材嫌いは、この辺りでは有名な話だ。十年以上前に一度テレビ取材を受けたことがあったのだけれど、それ以来断るようになったそうだ。
「樫村さん、わたしが口添えしても、平栗さんは取材を受けないと思いますよ。過去に散々な目に遭ってますから」
「……散々な目に?」
樫村さんが恐る恐る尋ねてくる。
「はい。インタビューの答えにダメ出しされて撮り直しを強要されかけたそうです。あと、取材クルーの方がテレビに映るのを嫌がる昔なじみのお客様を追いまわしたらしいんです」
実際の放送ではお客様へのインタビューはカットされていたが、代わりにテレビ局側が用意した偽の客のインタビューになっていた。
ほかにも工房のお弟子さんを叱りつけるシーンがほしいと言い出してきて、断ると、直接お弟子さんたちにマイクを向け、平栗さんに叱られたエピソードを無理やり聞き出そうとしていたそうだ。
当時、父からその話を聞き、やらせは本当にあるのだと思ったものだった。
「結果的に、最初に聞いていた趣旨からどんどんはずれた内容になっていったそうです」
昔、番組を見た父が言っていた。あれでは単なる頑固な職人だと。
機能性、使い勝手のよさ、何年も使い続けることのできる丈夫さや飽きのこないデザイン。そういったこだわりをとことん追及し、だけどそれらをこれ見よがしに見せつけず、さりげなく忍ばせている人なのにと父は憤っていた。
当時、高校生だったわたしにはよくわからなかったけれど、今ならわかるような気がする。
作り手の思いのこもったものだけれど、そういったものを押しつけたいんじゃなくて、革製品そのものをもっと見て知って触れてほしい。そして気に入ってくれたなら長く愛用してほしい。それだけでいいのだ。
わたしだってそうだ。
わたしの陰の苦労なんてどうでもいい。考え抜いたこだわりに気づいてもらえなくたってかまわない。
花卉農家の人たちが育ててくださった花々をきれいだなと愛で、寿命まで大切にしてもらえたら、わたしの花屋としての役割を果たせたような気がするのだ。
わたしは樫村さんにきっぱり言った。
「わたしは樫村さんの力にはなれません」
「春名さん、僕は──」
「どうしても取材をしたいのなら、平栗さんの思いにもっと寄り添ってください。誠意を見せて説得すれば平栗さんもきっと取材を受けてくれると思うんです」
樫村さんはなにか言いたげだったけれど、それをさえぎって訴えた。わたしだってここまでばかにされて、黙っていられない。
「もし春名さんが君を好きになったらどうするつもりだったんだ?」
相変わらず喧嘩腰の冴島社長が、樫村さんに食ってかかる。
「どうするって?」
「自分の欲のために無関係の人間を騙して、それで用が済んだら彼女を捨てる気だったのか?」
「捨てるなんて、僕はそんなことはしない」
「なるほどね。ついでに彼女も手に入れられたら儲けもんってことか」
「そうではなくて……」
樫村さんは歯切れの悪い言い方だった。
否定しようとしているけれど、そう言いきれないようだった。
「言っとくけど、未遂で終わってよかったと思いなよ。僕ぐらいの地位にある人間だと、君を業界から追放することぐらいたやすいことなんだから」
「そんな権限がどうしてあるんだ?」
「君の勤め先である扇出版の社長とは二年ほど前からゴルフ仲間で、先月は息子さんの結婚式にも招待していただいた。ここまで言えばわかるかな」
冴島社長の容赦ない言葉に息を呑んだのは樫村さんだけではない。これ見よがしに権力を振りかざす人を初めて見た。
でも、ここまで強くいさめるのはわたしのためなんだよね。やり方はほめられたことじゃないけれど、この人なりの正義感なのかもしれない。
「まあ、追放とかそんな下衆なことは実際にはするつもりはないけど。君の出方によっては気が変わるかもしれないってことだけは覚えてて」
冴島社長は冷静に語る。
樫村さんはそこでようやく気づいたようだった。
「どこかで見たことあると思ったら、冴島テクニカルの冴島社長でしたか」
「僕の顔、知ってるんだ?」
「弊社の雑誌の企画で、以前インタビュー記事を掲載させていただいたことがあるので」
「そうだったね。あのときの担当者はたしか鵜川さんだったかな」
「鵜川は上司です。気づけずに申し訳ありませんでした。雑誌に掲載した写真とあまりにもイメージが違うので」
樫村さんが少し焦りを見せる。
「なかなかさわやかな青年だっただろう。でもあれは表向きの顔だから」
冴島さんは相変わらずの余裕っぷりだ。
「参ったな。冴島社長が相手じゃ、僕が敵うわけないよな」
樫村さんが下を向く。
すっかり気落ちしたようで、わたしはかける言葉が見つからなかった。
それから樫村さんは、「本当にごめん」とわたしに頭を下げると、そのまま目を合わせることなく店を出ていった。
ひどく後味が悪い。
「嫌な思いをさせちゃったね」
冴島社長が申し訳なさそうに言う。
「いいえ、教えてくださって感謝しています」
「本当は、こんなことになる前になんとかできればよかったんだけど。春名さんが平栗さんとそこまで親しかったなんて、小山田さんに聞くまでわからなくて」
「小山田さんがどうして?」
「彼女に頼んで平栗さんのことを調べてもらっていたんだよ。どうしても気になってね」
「それで樫村さんの魂胆の筋書きに気づいたんですね」
「そういうこと」
誰かに利用されるなんて考えもしなかった。いい人だと思っていたから、軽く人間不信に陥りそうになった。
だけど肩を落としたうしろ姿を見てしまうと、同情の気持ちも芽生えてくる。
「樫村さん、大丈夫かな」
思わず、口に出してしまった。
「やさしいね」
「そんなことないですよ。わたしも自分の感情のまま言葉にしてしまいましたし」
冴島社長はいつの間にかレジカウンターの前に立っていて、静かにわたしを見ていた。
「大丈夫?」
一歩引いて距離を保ってくれ、わたしを気遣ってくれているのがわかる。「大丈夫です」と、なるべく表情をゆるめて答えると、冴島社長は安心したように微笑んだ。
「そういえば、今日はなにか?」
まさか樫村さんのたくらみを察知してというわけではないだろう。
すると冴島社長は「そうそう」と本来の目的を思い出したようで、目を輝かせた。
「この間は逃げられちゃったもんだから、どうしようか迷ったんだけど」
「その節はすみません……」
マンションでの醜態を思い出し、いたたまれない気持ちになった。
「それはいいんだよ。可愛かったから」
「そんな……。ぜんぜん可愛くないですから」
やだな、こういうの苦手なんだよ。
オフィス街のOLなら、合コンやら社内恋愛やらで男性に慣れている人も多いだろうけれど、わたしはそうじゃない。若い男性のお客様もたまにいらっしゃるけれど、たいてい恋人や奥様へのプレゼントなので、ときめくこともなければドキドキもしないのだ。
「耳まで真っ赤。だから、そういうところが可愛いんだよ」
「嘘!?」
両手で耳をふさぐと、「ごめんごめん」とたいして悪いと思っていない声で言われる。
「真っ赤というのは冗談。でも可愛いは本当。だからまた会いたいと思った」
ほんの少し照れているように思えた。はにかみながら言うので、冴島社長以上にわたしがドキドキしてしまう。
樫村さんのときとは違う感情が胸の奥でくすぶっている。混乱しているのは事実だけれど、逃げたいとは思わない。
でも素直に喜べない。だって彼は住む世界が違う人。
好きになったとして、そこに明るい未来があるのだろうか。そもそも彼はわたしに本気なのかもわからない。
「からかわないでください」
「そんなことするほど暇じゃないよ。わざわざ、ここにも来ない」
「なんでわたしなんか……」
「随分と失礼なこと言うね。そのセリフ、自分を下げてるんだろうけど、僕の気持ちをばかにされてる感じがする」
「そんなつもりで言ったんじゃありません。冴島社長ほどの方がどうしてわたしに興味を持ったんだろうと思っただけです」
「気になってしょうがない子がいて、もっと知りたいと思った。でも安易な気持ちでこんなことを言ってるんじゃない。僕なりに悩んだよ。そんな僕の覚悟を考えてくれないの?」
張りつめた空気に思わず後ずさりしたら、逃がさないとばかりに手を取られた。
冴島社長の手が熱い。
でもこの大きな手で包み込まれていると、なんだか恥ずかしくなってくる。
年中荒れているわたしの手は、毎日ハンドクリームで手入れをしてもひび割れてガサガサ。午前中についた植物の樹脂が手のひらに茶色く残っている。
冴島社長の身近にいる女性は、おそらくみんな華やかで、頭のてっぺんからつま先まで完璧に磨きあげられた人たちばかりのはず。だからどうしても一歩踏み出すことができない。
ゆっくりと手を引こうとすると、さっきよりも強く握られた。
「離してください」
「逃げようとするからだよ」
「でも、わたしの手、汚れてますし。それにガサガサなので恥ずかしいです」
「花屋で働いているんだから、あたり前だろう。きれいだよ、この手はたくさんの人に喜びや癒やしを与えてきたんだ。むしろ誇りを持つべきだよ」
冴島社長は一瞬たりとも目を逸らさず、怖いくらいに真剣な口ぶりだった。
逃げるなと、その目が訴えてくる。
「今日はちゃんと返事をもらいたいんだ。今度の土曜日、僕の誕生日なんだよ。だから──」
「えっ、お誕生日なんですか!? おめでとうございます!」
そういえば今月が誕生日だと前に言っていた。
「ありがとう……って、誕生日はまだなんだけどな」
「あっ、そっか。そうですよね」
「おめでとうって言葉、できれば当日に聞きたい」
握られた手はそのままで、冴島社長はさらに続けた。
「それで、僕のマンションに大学時代の友達が集まることになってるんだ。夜の七時からなんだけど、よかったら春名さんもどうかな?」
ふたりきりじゃないんだ。
ほっとしたような気もするけれど、なにかがちょっと引っかかる。もしかして、わたしの本音は冴島社長とふたりきりで過ごしたいということなのだろうか。
「この年で誕生日パーティーなんて恥ずかしいんだけどさ、それはあいつらの口実で、単にみんなで集まって飲み食いしようってことなんだよ」
「大学のときのお友達と今でも交流があるんですね」
「不思議とね。いろんなやつがいておもしろいよ。一流企業に勤めてるやつもいれば、つい最近まで海外でバックパッカーしてて無職のやつもいる。共通しているのは、みんな経験豊かってことかな」
「この間、デリバリーを頼んだ洋食屋さんもそうですよね」
「そいつも来るはずだよ。この間、会えなかったから紹介するよ」
だからおいでよと、小首を傾げてくるものだから、つられて「はい」と言いそうになった。
「でも土曜日は店の営業日で……」
閉店は夜の七時だけれど、そのあと掃除などのもろもろの作業がある。下手をすれば、伺うのは夜の九時を過ぎてしまうかもしれない。
「遅れてもかまわない。お店が終わってからでもいいよ」
熱心に誘ってくれるので断りきれない。どうしようかと迷っていると店の奥から物音がした。見ると、榎本くんがこちらに猛突進してくる。
「榎本くん、どうしたの?」
というか、今の今までどこに行っていたのという疑問のほうが先なんだけれど。とりあえずそれは置いておく。
「咲都さん! 土曜日の店番は俺にまかせてください! 咲都さんは早めにあがって、ぜひ誕生日パーティーに出席しましょう!」
さては奥で話を全部聞いていたな。
まったく。わたしのプライベートが榎本くんに筒抜けだなんて立場上どうなのだろう。なんだかこの先やりにくい……。
「なに言ってるの? 土曜日は居酒屋のバイトがあるから残業できないでしょう?」
「その日はシフトをずらしてもらいます。大丈夫です、多少の時間変更は了承してもらえるはずなんで」
たしかに榎本くんにはレジ締めもまかせられるし、要領もいいから、ひとりで閉店作業もできると思う。
だけど慶弔や商店街の集まりなどのやむを得ない用事ならまだしも、わたしの個人的な理由で仕事をまかせてしまうのは気が引ける。アルバイトの榎本くんにそこまで負担をかけたくない。
「気持ちはありがたいけど、そこまでしてもらわなくても大丈夫」
「遠慮しないでください。俺、咲都さんにもっと人生を楽しんでほしいんです」
「十分楽しんでるよ」
「もちろん、花屋の仕事に情熱をそそいでいるのはすばらしいと思います。でもそれはそれ。これからは恋愛とかオシャレとか、女の子らしいことにも目を向けてほしいんです」
「別にそういうのに興味がないわけじゃないんだよ。今はそれよりも店のほうが大事なの」
「それがだめなんです。仕事は仕事、プライベートはプライベート。あんなイケメンに誘われているのに、それを断るなんてもったいないですって」
榎本くんは普段からわたしに男っ気がないことをからかっていた。いつもはそれを笑って受け流していたけれど、本気でわたしのことを心配してくれていたんだ。
誕生日か……。思いきって行ってみようかな。特別な日だし、やっぱりお祝いしたい。
「ありがとう、榎本くん」
「じゃあ、誕生日パーティーに行くんですか?」
「うん。でも万が一忙しいと困るから、わたしと入れ替えで塔子さんにも入ってもらうようにするね」
「塔子さんも一緒なら安心です。だから咲都さんは店のことは気にせず楽しんできてください!」
榎本くんは満面の笑みで元気よく答えた。
思い返すと、わたしは自分の時間を過ごすということをもう随分としていない。最後にオシャレをして出かけた日はいつだったかも思い出せないくらいだ。
榎本くんに言われるまで、自分の今の立場ではそういうことをしちゃいけないと思っていたのかもしれない。でもいいんだよね。わたしだって、普通に楽しんでいいんだよね。
「冴島社長、土曜日は喜んで伺わせていただきます」
「ありがとう」
ずっと黙ってわたしたちのやり取りを聞いていた冴島社長が、とびきりやさしい面持ちになる。
「当日、迎えに行くよ」
「そんな大丈夫です。冴島社長は主役なんですから」
「さっきも言ったけど、僕の誕生日っていうのは、みんなが集まるための口実だから。酒と料理さえあれば、僕なんていてもいなくてもいいんだよ」
わたしに気を使ってというのもあったのだろうけれど、本当に気楽な集まりなのかもしれない。
大学時代の友達と今でも交流があるなんて、どれだけ仲がいいのだろう。わたしはみんな疎遠になってしまった。年賀状のやり取りぐらいでしか交流がない。
「あとさ、手ぶらでいいからね」
「えっ?」
「プレゼントはいらないから。そのことはみんなにも言ってある。それに春名さんと過ごせるだけでうれしいから。俺には十分すぎるくらいだよ」
冴島社長はとろけてしまいそうなほど甘くささやいた。見上げた先にある瞳はわたしを見つめている。
冴島社長はパワーのある人だ。遠慮していると飲み込まれてしまう。わたしはもはや恥ずかしさを通り越して、負けるものかという反発心で見つめ返していた。
「あのー、おふたりさん。俺がいることをお忘れじゃありませんか?」
「えっ、あっ! やだっ、ごめん。別に忘れてたわけじゃなくて……」
「それにその手、いつまで握ってるんですか?」
「や、やだ!」
榎本くんに言われ、初めて気がつき、急いで握られていた手を引っ込めた。
でも慌てているのはわたしだけのようで、冴島社長は涼しげな顔でちっとも動じていない。
どれくらい手を握られていたのだろう。
数十秒? 数分?
でもそんな感覚もなくなってしまうくらい、冴島社長に夢中になっていたのは事実だ。
「お互いに見惚れてたって感じでしたけど。でも店のなかでは勘弁してくださいね。そういうのはふたりきりの場所でお願いします」
榎本くんは言い終わると、すっきりした顔で店先の鉢物をしまいはじめた。
「もう、榎本くんたら……。すみません、生意気な口をきいて」
「いや、彼には感謝してるよ。覚悟はしてたけど、かなり苦戦しちゃったから」
「苦戦だなんて、そんな……。誘っていただいてうれしいです」
榎本くんのおかげで、わたしはすっかりクールダウン。でもそのせいで、自分のことを冷静に見つめることができた。
冴島社長はストレートに気持ちをぶつけてくれるけれど、わたしにそれだけの価値があるとは思っていない。家柄も才能も見た目の美しさも、すべて彼のほうが圧倒している。
だからいまだに信じられないというか、ピンとこない。
なんだか夢のなかにいるみたいで……。
わたしの連絡先を伝えると、冴島社長はそれをスマホに登録していた。
「僕の番号はわかるよね?」
「前に頂いた名刺にあった番号ですよね」
「なにかあったら連絡して」
「わかりました」
名刺は大切に保管している。いつも持ち歩いている仕事用の手帳に挟んであって、そんなことをしていた時点でわたしの心は冴島社長に傾いていたのかもしれない。
冴島社長が帰ったあと、榎本くんが言った。
「立ち聞きしちゃってすみません。最初、樫村さんといい感じになりそうだったから、うまくいけばいいなあって思ってたんです。でも裏に魂胆があったんですね」
「ううん、いいの。それに榎本くんは、わたしのだめなところも情けないところも知ってるんだから、今さらだよ」
手を握って見つめ合っているところまで見られてしまっては開き直るしかない。
「だけど冴島社長が来てくれてよかったですよね。咲都さんが騙されずにすんだんですから」
「そんな人には見えなかったのにね」
「そうなんですよね。咲都さんのこと、本気で好きっぽかったのに。俺の勘、はずれちゃいましたね」
榎本くんがほうきで手早く掃除を開始する。わたしはレジ締めをし、今日の売上金の確認をした。
今日はそれほど忙しくなかったので、売り上げもそれなり。がっくりと肩を落としながら明日の仕事の段取りを考える。
朝一で仕入れに行って、そのあと水あげ。予約品の製作もあるので、今日よりも忙しくなるのは確実だ。
よし! 明日は今日よりも売り上げアップを目指すぞ!
「榎本くん、掃除が終わったら今日はもうあがって」
「わかりました。咲都さんもあがりですか?」
「わたしは陳列用のアレンジメントを作ってから帰る」
「俺も手伝います」
「ううん、大丈夫。その分、明日はうんと働いてもらうから」
「了解です」
白い歯を見せ、笑みをこぼす。このさわやかスマイルは天性のものだ。
つくづくいい子だなと思う。榎本くん目的で店に来る女の子もちらほらいるけれど、お客様に手を出しているふうではなく、プライドを持って仕事をしているのがわかる。フリーターにしておくのはもったいない。
いつか、本人が希望するのなら榎本くんを社員にできるようがんばろう。
わたしは新たな決意を胸に、もう一度気合を入れた。




