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フローラル  作者: SATO


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10/11

10.身分違いの恋だとしても

 まったくの予想外だった。

 夕べ、四日後の土曜日に冴島さんと会う約束をしたのだが、その日を待たずとも、翌日あっさりと冴島さんに会えたのだった。

「いやあ、仲直りおめでとう! 心配してたんだよ。なあ、野上?」

 ここは駅前にある和風居酒屋。

 二階のお座敷席はゆったりと広く、モダンできれいな内装だ。乾杯すると、コタさんが上機嫌でビールを喉に流し込んだ。

 冴島さんと野上さんは少し不服そうにグラスに口をつけた。

 それにしても、なぜわたしまで呼ばれたのだろう。

 夕方、冴島さんから電話があり、コタさんが一緒に飲もうと言ってきたそうで、こうして四人でテーブルを囲んでいる。

「咲都ちゃん、遠慮なく飲んでね。今日は野上のおごりだから」

 コタさんがお通しのめかぶを食べながら言う。

「なんで僕? まあ別にいいけどさ」

 野上さんが冷静に答えた。

「あたり前だろう。咲都ちゃんを悩ませた原因が野上にあったんだから」

「僕じゃなくて瑠璃だよ。僕は関係ない」

 どうやらコタさんは、昨日の昼間の出来事を知っているらしい。

「その件なんだけど、コタと野上に世話になったみたいだから、とりあえず礼を言っとくよ。どうもな」

 わたしの隣に座っている冴島さんが気まずそうに言う。

 そっか。わたしがコタさんたちに相談をしたからそれで……。

 事情がわかり、それならおごるのはわたしのほうだと思い、申し出ると、冴島さんに却下された。

「コタは飲む口実がほしいだけなんだよ。こいつ、明日は丸一日休みだから、思う存分飲めるってはりきってたし」

「あっ、バレた? あとね、咲都ちゃんともっと話したいなあと思って」

「あのさ、コタ。さっきから気になってたんだけど。『咲都ちゃん』ってなんだよ?」

「別にいいだろう。この間、咲都ちゃんもそれでいいって言ってくれたんだし」

「彼氏の許可は出てないぞ」

「あっれー、冴島。いつからそんなに独占欲が強くなっちゃったのかな?」

 コタさんがおもしろがってツッコミを入れた。

 野上さんは意味深に笑っている。

 当の冴島さんは完全スルーでビールを飲んでいた。

 わたしは照れくさくて下を向いて話の流れが変わるのを待った。

 やがてコタさんと野上さんが世間話をし出してほっとしていると、頼んでいた料理が運ばれてきた。

「お仕事は大丈夫だったんですか?」

 鶏のから揚げを取り皿に取り分けて冴島さんの前に置く。

 冴島さんはから揚げをほおばりながら、「まあね」と微笑む。

「どっちにしても今日は実家に顔を出す予定だったから」

「なおさら帰らなくていいんですか? 用事があったんですよね?」

「うん、そうなんだけど……」

 冴島さんは箸を持ったまま考え込んでしまった。

 深刻な問題が発生しているのだろうか。

「本当に大丈夫ですか? 今からでもご実家に行かれたほうがいいんじゃないですか?」

 だんだん心配になってきた。もしご家族の身体の具合が悪いとか、トラブルに見舞われているのであれば、すぐにでも帰るべきだ。

「わたしも今日は帰ります。でもわたしにできることがあれば言ってください。なんでもしますから」

「咲都……」

「遠慮しないでください。心配ごとがあるなら力になりたいんです」

「なら、一緒に来てくれる?」

「一緒にって、ご実家にですか? それはもちろんかまいませんけど」

「じゃあ行こう。コタ、野上、悪いけど今日は僕たち、先に帰らせてもらうよ」

 わたしの手を取り、冴島さんが立ち上がる。つられてわたしも立ったが、わたしになにができるのだろうか。

「まだ来たばかりだろう?」

 コタさんが渋い顔をする。

「コタ……」

 野上さんが静かにいさめる。

「わかったよ。その代わり、埋め合わせよろしく」

 コタさんがあきらめたように言って、それからやわらかく笑った。

「それじゃあまた今度。次は僕がおごるから」

 冴島さんはそう言うと、「行こ」とわたしを引っ張った。

「お、お先に失礼します。ごちそうさまでした!」

 わたしも焦りながら挨拶をして、冴島さんのあとについて歩いた。

 店の外に出ると、走っていたタクシーを止めて、ふたりで乗り込む。冴島さんが運転手に行き先を告げ、タクシーが走り出した。

「ご実家で、わたしはなにをすればいいんでしょうか?」

「座っているだけでいいよ。咲都を両親に紹介したいんだ」

「ちょっと待ってください! 紹介していただくのはいいんですが、今日の今日ですか!?」

 とてもじゃないが挨拶に行く服装ではない。仕事のあと、一度自宅に帰って着替えてはきたけれど、カジュアル過ぎて失礼になる。

 一応スカートではあるけれど、上はラフなニットだし、靴はローヒールだし、髪だって仕事のときのまま、ひとつに束ねているだけ。

「明日ではだめですか? それか、一度家に帰ってちゃんとした服に着替えさせてください」

「服なんてそのままでいいよ」

「よくないです!」

「うちの母親になら何度も会ってるだろう。家でもあんな感じだから心配いらないって」

 小百合社長はとても気さくで、やさしい方。それはそうなのだけれど……。

「でもお父様が……」

 あの冴島物産のトップに君臨している方に初めてお会いするのに、こんなんじゃ第一印象が悪いものになってしまう。それでなくても家柄が違いすぎるのに。

「父のことなら、なおさら心配ないよ。ああ見えて、家では母の尻に敷かれてる人だから。基本、女性には甘いんだよ」

 そんなこと言われてもなあ。ネットなどに載っている写真を見る限り、とても威厳のある方なのだけれど。

 嫌われたらどうしよう。

 しかし無情にもタクシーは走り続け、とうとう冴島さんのご実家に着いてしまった。

 日本建築の豪邸は予想していなかったわけじゃないけれど、やはり目の前にすると足がすくむ。

「咲都?」

「ごめんなさい、緊張しちゃって」

 本当にどうしよう。身体が震えてきて一歩も動けない。

「咲都はいつも通りでいいんだよ。僕を信じて」

 ささやくような声なのに、胸にずしりと響いてくる。胸のなかの不安の渦がゆっくりと消えていった。

 差し出された手を掴む。

 そうだ、これはわたしが自分で選んだ道。迷わないと決めたんだ。

 冴島さんが、「ただいま」と玄関の引き戸を開けると、お手伝いさんらしき女性が迎えてくれた。

「これは秋成様、お帰りなさいませ。今日はご都合が悪くなったとうかがっておりましたが」

「途中で抜けてきたんだ。父さんと母さんは?」

「ええ、ご在宅です。ところで、そちらのお連れ様は?」

「僕の大切な人。咲都、紹介するよ。この人はこの家に住み込みで働いてもらっている喜美江きみえさん。喜美江さん、この子は春名咲都さん」

「初めまして。春名と申します」

 頭を下げて挨拶すると、喜美江さんは安心したように目を細めた。

磯貝いそがい喜美江と申します。冴島家には二十年以上仕えさせていただいております」

 二十年以上も?

 ということは冴島さんの子どもの頃も知っているんだ。

「ついに秋成様も人生の伴侶を見つけられたんですね。とてもおきれいで、気立てのよさそうなお嬢さんで。さすが秋成様ですね」

 ……とんでもないです、ほめすぎです。縮こまりながら、心のなかでつぶやく。

「だろう? すごくいい子なんだ。喜美江さんは一発で気に入ってくれると思ってた」

 冴島さんが無邪気に笑い、子どもみたいだ。喜美江さんに心を許しているように見える。

「どうかした? にこにこしちゃって」

 冴島さんに指摘されてハッとする。

「とても微笑ましかったので、つい。冴島さんも子どもみたいな顔をすることがあるんですね」

「そんな顔してた? まあ喜美江さんは小さい頃は僕の母親代わりだったから。しょっちゅう叱られてたけど」

 それを聞いた喜美江さんは、「そうでしたね」と懐かしむように言う。

「それが今ではこんなに立派になられて……。ささっ、早くお上がりください。旦那様と奥様をお呼びしてきます」

 喜美江さんが小走りで廊下を駆けていった。

 わたしは冴島さんに案内されてリビングに通された。

 ソファに座り、じっと待っていると、まず小百合社長が入ってきて、感嘆の声を上げた。

「春名さん! いらっしゃい!」

「突然おじゃましてすみません」

 立ち上がっておじぎをする。

「ううん、いいのよ。秋成が女性のお客様を連れてきたっていうものだからドキドキしてたんだけど。春名さんだって聞いて、やっぱりと思って。もう感激しちゃったわ」

 ……やっぱり?

 小百合社長の言葉に疑問を持ちながらも聞き返せる状況でもない。そうしているうちにロマンスグレーの紳士がやって来た。

 背筋がピンと伸びる。

 小百合社長が、「夫よ」と紹介してくださった。

「父さん、こちらが春名咲都さん。うちの会社の近くで花屋を経営してるんだ。うちで花の生け込みの仕事も頼んでいるんだよ」

 わたしが口を開く前に、すかさず冴島さんがわたしのことを紹介してくれた。

「初めまして。春名咲都と申します。秋成さんの会社だけでなく、小百合社長にも大変お世話になっております」

「エントランスの生け込みだったね。小百合から聞いてるよ」

 冴島さんのお父様は大企業の社長でありながら、わたしを気遣うように話しかけてくださった。

 声がよく似ている。冴島さんの華やかな顔立ちは、どちらかというと小百合社長に似ているのだけれど、漂う知的な雰囲気や落ち着いた感じはお父様似だ。

「彼女とは真剣に交際してるから。つき合って日は浅いんだけど、ちゃんと将来を見据えてのつき合いだよ」

 ご実家に伺う時点で、こういう挨拶になるのは予想できていた。けれど具体的にふたりで話したことはないので、将来についてあまり現実味を感じることはなかった。

 考えていなかったわけじゃない。だけどそういうことを考えることすらおこがましく思え、真正面から向き合えなかった。

 でもこれからは冴島さんとの将来を真剣に考えていかないといけない。そのことに気づき、自ずと身が引きしまった。

 四人全員が立ったままだったので、小百合社長の「座りましょうか」の声に、全員がソファに腰を下ろした。

 すると、お父様がさっそく口を開いた。

「いやあ、驚いたよ。まさか本当に春名さんと秋成がつき合いはじめるとは」

 ……あれ?

 小百合社長のときにも感じたのだけれど、この違和感のようなものはなんなのだろう。

 冴島さんも同じように感じていたらしい。

「なんだよ、その言い方。父さん、咲都のこと知ってたの?」

「小百合から聞いていたんだよ。いいお嬢さんがいるって。その方をぜひ秋成の嫁にしたいって言っていたんだが、こちらがなにもしなくてもまとまったみたいでよかったな」

「はあ? なんだよ、それ?」

 わたしはもちろん、冴島さんまでわけがわからない様子。

「もしかして母さん、縁談の話がどうのこうの言ってたのって、咲都のこと?」

 縁談とはどういうことだろう。冴島さんにそんな話があるの?

 立派な家柄だし、そういう話はつきものといえばそうなのだけれど。

「だってあなたたち、いい感じだなあと思って。うまくいったらわたしも安心できるし、春名さんならいいお嫁さんになると思ったの」

「小百合がお節介をやかなくても、ふたりは結ばれたってことだな。よかったじゃないか」

「そうよねえ。これでわたしたちも肩の荷が半分下りたわよね」

「まったくだな」

 冴島物産の社長はいったいどんな方なのだろうと思っていたら、品格があって、気さくで、とても素敵な方だ。

 小百合社長とも仲がよくて、こうして見ると普通の夫婦だ。

 喜美江さんが淹れてくださった紅茶を頂きながら、それからも四人で話をした。

「秋成が咲都さんに気があるってこと、わたしはピンときてたわよ」

 小百合社長が得意げに話す。

「いつ見てたんだよ?」

 冴島さんが心底嫌そうな顔をする。

「ふたりで仲よくビルを出ていくのを見かけたのよ」

 たぶん冴島テクニカルシステムズに初めて生け込みに行った日だ。あのとき見られていたんだ。

「それだけでわかるもんなの?」

「あなたを見てたら誰でもわかるわよ。秋成は好意があるのを隠そうとしないじゃない。子どもの頃からほしい物はほしいって主張していたし、気に入った女の子には初対面でもすぐ告白してたわ」

「母さん、余計なことまで言わなくていいよ」

「そうだったわね。でも女の子の話は小さい頃のことよ、春名さん」

 思わず笑ってしまった。

 冴島さんは昔から変わっていないんだなあ。

 たしかに冴島さんはわかりやすい。少し誤解を受ける行動はあったけれど、基本的に感情をストレートに表現するし、物怖じしない性格だ。頭で思ったことを躊躇することなく行動に移せるタイプなのだろう。

「ところで小百合から聞いたんだが、春名さんはお父さんが亡くなってから、だいぶご苦労されたとか」

 お父様に話を振られ、びっくりして小百合社長を見た。

 小百合社長は、父のことを知っていたんだ。

「こそこそ調べるようなことをしてごめんなさいね。実はわたし、春名さんのお父様に生前お会いしているの」

 小百合社長の思わぬ告白に冴島さんも瞬きを忘れ、唖然としていた。

「冴島WESTビルの建築中だった四年前、たまたまお花屋さんを見つけて立ち寄ったの。それが『FLORALはるな』。お父様は、お花の手入れの仕方を丁寧に教えてくださったわ」

「四年前ですと、父の病気がわかる前ですね。あの頃は精力的に働いていました」

 しかしある日突然、父が病に倒れ、そのまま入院。一度は退院したものの、最初の入院から半年ほどで亡くなった。

 なんでそんなにひどくなるまで放っておいたのだろう。身体は相当しんどかっただろうに。当時、父の病気に気づけなかったことを、塔子さんと一緒に悔やんだ。

「それから半年以上経って、もう一度伺ったんだけど。お店をあとにするとき、また寄らせていただきますねと言ったら、近々お店をたたむことになるかもしれませんっておっしゃっていたわ」

「店をたたむ? 父の病気は、入院して初めてわかったことで……」

「お元気に見えたんだけど、あの頃からご自分が病気だとわかっていらっしゃったのかしらね」

「そんな……」

 入院する前から自分の病気のことを知っていたなんて。

 お父さんは自分で手遅れだとわかっていたの? それで店をたたむつもりだったの?

 定食屋の武藤さんの話といい、わたしの知らないところで父はひとりで死と向き合っていたんだ。

「でも春名さんのお母様がお店を継いだのね。そしてあなたも……。あなたのセンスはお父様譲りね」

「そうですか?」

 塔子さんにもそんなようなことを言われたことがあるが、自分ではよくわからない。お手本が父だったから影響を受けているだろうけれど。

「お店の前を通ったとき、アレンジされたブーケを見て、そう思ったわ。そのときはお父様がまだお店を続けていると思っていたの。でもお店にいたのは別の方。娘さんだってすぐにわかったわ」

「わたし、顔は父親似なので」

「そうね、あなたはお父様によく似ていらっしゃる。才能も」

「そんな才能だなんて。わたしにはそんなもの、ありません」

「わたしは感じたわ。だから仕事を依頼したのよ。それにね、縁があるのかもと思ったの。『FLORALはるな』を訪れたこと、あなたのお父様に出会ったこと。そして数年後、あなたのブーケにひと目惚れしたこと」

 小百合社長は両手を固く握り合わせ、目を潤ませていた。

 わたしも父のことを思い出し、目頭が熱くなった。

 小百合社長は話を続けた。

「今こうしてあなたとお話できて、わたしの選択は正しかったんだって思っています。咲都さん、秋成のことをよろしくお願いします」

 それまでの和やかな雰囲気が一変した。小百合社長が母親の顔になる。

 冴島さんはこんなにも愛されて育ってきたんだ。独立した大人といっても息子は息子。なにかあったら身体を張って守り抜くんだという強い意志を感じる。

「こちらこそ、ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

 人を好きになるということは、ときに責任が伴い、とても重いことだ。相手の人生の半分を背負って、自分の人生の半分を預ける。今度はわたしが彼を守る役割を担うのだ。

「そういえば、咲都さんのお母様へのご挨拶はいつしたの?」

 小百合社長が冴島さんに尋ねる。

「これからしようと思ってる。一応、今週の土曜日にと考えてたんだけど」

「母もその日は大丈夫だと言ってました。お待ちしてますと」

 フォローするように言うと、小百合社長が目を丸くした。

「だめじゃない、秋成! うちより先に咲都さんのお母様に挨拶しなきゃ!」

「その予定だったんだけど、母さんが急に縁談の話を持ち出すから。それを断ろうと、咲都を連れてきたんだよ」

「あら、そういうことだったの?」

「どう考えたってそういうことだろう。我々が先走りすぎたんだよ」

 小百合社長の天然ぶりに、お父様がやさしく言葉を発する。

「小百合、これからはふたりをそっとしておいてやるんだぞ。秋成はもう大人なんだから」

「そうねえ。このふたりならきっと大丈夫ね」

 あたたかい家族の雰囲気にほっとする。

 冴島さんは、お父様が小百合社長の尻に敷かれていると言っていたけれど、ぜんぜんそんなことはなくて、妻を愛おしそうに見守る夫の顔だった。


 その後、無事に挨拶を終えたわたしたちは冴島家を出ると、タクシーで冴島さんのマンションへ向かう。

 居酒屋ではほとんど料理を口にしなかったので、ふたりともお腹を空かせていた。時間も時間なので、マンション近くのコンビニで軽くつまめるものを買い込み、リビングのラグの上でくつろぎながら食事をした。

 冴島さんは、「今日は飲みたい気分なんだ」と冷蔵庫から出してきた缶ビールを飲んでいる。わたしにもすすめてくれたが、冴島家で気力と体力をかなり消耗したため、飲んだら起きていられる自信がなく、遠慮した。

「それにしても母さんには参ったなあ」

 珍しくちょっと疲れ気味に言う。

 強引にお見合いをさせられると思っていた冴島さんは、ここ数日気が重い日々だったらしく、それからようやく解放されて安堵しているようだった。

「弟がいわゆる政略結婚ってやつだったからさ、次は僕なのかって」

「それなんですけど、あんなやさしそうなご両親が結婚を強要したとは思えないんですが」

「強要はしてないよ。弟は自ら進んで結婚したんだ。でも僕にもっと……」

 そう言いかけて、口ごもる。

「冴島さん?」

「あっ、いや、なんでもないよ」

 冴島さんは言葉を濁したけれど、わたしには彼がなにを言おうとしたのか、わかったような気がした。

 ──僕にもっと力があったら冴島物産の経営を立て直して、弟に政略結婚なんて選択をさせることはなかったんだ。

 冴島物産の業績がここ数年下がってきていると野上さんが言っていた。

 弟さんはそれで結婚を決めたんだ。

 でも弟さんは犠牲とは思っていないような気がする。冴島さんは冴島さんのやり方で冴島物産を支えていて、弟さんは弟さんなりに考えて選んだ道のように思えた。あのご両親を見て、そう思った。

「冴島さんは家族思いなんですね」

「えっ……」

「冴島さんだけでなく、みなさんがお互いに思い合っているのがわかります」

「ありがとう」

 冴島さんがはにかんで目を伏せた。

「今度、弟にも会ってよ。あいつ今、ヨーロッパ各地を転々としてて、あと一ヶ月くらいは戻ってこないんだけど、帰国が決まったら連絡よこせって言ってあるから」

「はい、ぜひ。会えるの、楽しみです」

 なんだかんだ言っても、今でも兄弟で連絡を取り合って仲がいいんだなあ。冴島さんが信頼している人はいい方ばかり。弟さんも素敵な方なのは間違いない。

「それと、咲都には言っておきたいことがあるんだ。これは両親と弟にしか言ってないことなんだけど」

 そう言って冴島さんが改まるので、わたしは箸を置いて、聞く体勢になる。

「僕は、この先五年を目途に冴島物産に入りたいと思ってる」

「はい」

「冴島テクニカルについても大きく事業再編をはかるつもりなんだ。今後は冴島テクニカルの技術を世界に広げていきたい。そのために必要なことなんだ」

 冴島さんはすでに世界を見据えている。野上さんが言っていた話とも共通するところがあって、冴島さんがこれからどれだけ大きなことを成し遂げようとしているのか、なんとなくではあるけれど想像がつく。

「いいかな?」

「なんでわたしに了解を取るんですか?」

「咲都にも関係あることだから。この意味、わかるよね?」

 ああもう、なんでこの人はものすごいことを軽く言えるのだろう。こっちは緊張して、心臓が大変なことになっているというのに。

「わたしは冴島さんを信じています。正直、会社のことはよくわからないんですが、冴島さんがそう考えるなら、きっとそれでいいんだと思います。わたしは置いていかれないように、ついていくだけです」

「ありがとう。たくさん苦労をかけるかもしれないけど、それでも咲都を手放すつもりはないから。そのことをわかっていてほしい」

「はい」

 冴島さんのいる世界がどんなところなのか、わたしのいる世界とは次元が違いすぎていまいちピンとこない。だから冴島さんはそんなわたしに、そのうち会社にかかわることになるだろうから、いずれは覚悟を決めてねと言っているのだと思った。

「ごめんね、プレッシャーかけちゃって」

「いいえ、とても光栄です」

 わたしがそう答えると、冴島さんはにこりとして、ビールをあおる。それから、ほっとしたように息を吐き出しながら缶をテーブルに置いた。

 冴島さんも緊張していたのかな。そう思ったら、彼も普通の男の人なんだなあと、ますます愛おしくなる。

「僕たちも不思議な縁だよね。親子であの店に引き寄せられてる。咲都の店に行ったきっかけはエントランスの生け込みを見たからなんだ」

「そうだったんですか!?」

「あれを見て花もいいなあって思ったんだよ。小山田さんにどこの花屋かを調べてもらったら咲都のお店だった」

「なにかひとつでも欠けたら出会えていなかったのかもしれませんね」

 わたしが花屋を継がなかったら。塔子さんが花屋を続けていなかったら。父があの場所で花屋を開いていなかったら。あげればきりがないくらいの偶然が積み重なって今がある。

 この偶然に今は感謝しかない。冴島さんに出会えて、本当によかった。


 目を開けると、冴島さんはまだすやすやと眠っていた。

 ふたりで迎えた初めての朝は陽だまりのなかにいるような、やさしいあたたかさに包まれていた。

 本当はもう少しこのままでいたいけれど……。

 冴島さんを起こさないようにベッドから降りて服を着る。それから洗面所で身だしなみを整えた。

 しかし首もとが赤くなっていることに気がつき、なんだろうと思い、鏡に身体を近づけさせた。

「これ……」

 それは紛れもない昨夜の痕跡。

 髪を結んだら見えてしまうかもしれない。だけど困ったなと思いながらも顔がほころぶ。

 リビングに行くと、冴島さんが寝ぼけまなこでソファに座っていた。

「おはよ。起きたらベッドにいないから焦った」

「洗面所をお借りしてました。さすがに黙っては帰りませんよ」

「そっか、そうだよな。咲都はもう僕のものだった……なんて言ったら、コタや野上に笑われるかな」

 冴島さんは自虐的に言うと、照れながら「顔洗ってくる」と洗面所に入っていった。

 寝起きだからかな。いつもより隙があるように思う。心を許してくれているのだと思ったら、喜びがあふれてくる。

 わたしも変に緊張しなくなった。

 こんなふうに少しずつ変化していくのかもしれない。お互いに見せ合って打ち解けていって、かけがえのない安らぎの場所になっていく。

「そういえば……」

 リビングに戻ってきた冴島さんがわたしの髪をかきわけ、首もとを覗き込んできた。

「これ、まずいよな」

「自覚あったんですか?」

「ちょっと強かったかなって思った瞬間があったから。咲都は覚えてないの?」

「……はい」

 夕べは完全にわたしの負けだった。

 意識が混沌としてしまうほど追い込まれ、わたしだけ余裕をなくして、大変なんてもんじゃなかった。冴島さんに圧倒され続け、いったい過去にどれだけ経験してきたのかと、もはや感心するレベル。

 だけどもう少し手加減してほしかった。いくら言っても聞く耳を持ってくれなくて、されるがまま。あんな感覚はそれまで味わったことがないものだった。

 あのときのわたし、大丈夫だったのだろうか。いろいろと。

「次からは気をつけるよ」

「……お願いします」

「もしかして、痕つけたことを怒ってるの?」

「いいえ、キスマークは別にいいんですけど……」

「ああ、なるほど。あのことならぜんぜん気にする必要はないよ。夕べはすごく可愛かったから」

「ちょっ!!」

 考えを読まれた。

 悔しくて軽く睨むフリをする。

 すると、すっと腕が伸びてきて、驚いて固まっていると、目尻を指で下げられた。

「そういう顔は似合わないよ。咲都は、花屋で仕事をしているときのはつらつとした顔もいいけど、僕を見つめて穏やかに笑っている顔はもっと好き」

「冴島さん……」

 わたしも冴島さんのそのやさしい笑顔が大好きだから。

「はい」

 素直に頷いてしまう。

 知らなかった。わたしは冴島さんといるとき、そんな顔をしていたんだ。

 なら、わたしも思っていいのかな。冴島さんのその笑顔はわたしだけが見ることのできるものだと。

 コタさんや野上さん、紅葉さんといるときとは違う顔。そう思ってうぬぼれてもいいですよね。


 一週間後の火曜日。

 いつもの生け込みの仕事のために冴島テクニカルシステムズを訪ねる。台車を押してエレベーターで最上階に上がると、エレベーターホールに小山田さんが待機していた。

「ただ今、社長室は来客中のため役員会議室からお願いします」

「わかりました」

「役員会議室が終わりましたら秘書室までご報告を。社長のお客様はじきにお帰りになられるかと思いますので」

 小山田さんからICカードを預かる。

 すると社長室のドアが開く音がして、そちらに注目すると、恒松社長が出てくるところだった。ちょうど帰られるところらしい。

「あれ? 春名さん、偶然だね」

「恒松社長、先日は大変お世話になりました。きちんとご挨拶できずに申し訳ありません」

「いえいえ、当日はバタバタしてたからね。こちらこそありがとう。ああ、そっか。社長室の花、あれは春名さんが生けていたんだね」

「はい、週に一度、社長室と役員会議室をやらせていただいてます」

「なるほど……。あのさ、もしよかったらちょっと話せない?」

「お話ですか?」

 急に言われて、返事に困った。これから生け込みの作業をしなくてはならない。どうやって断ろう。

「うちの会社でも生け込みの仕事をお願いしたいんだ」

「ありがとうございます。それなら、ご都合のいい日に会社へお伺いいたしますが」

 ありがたいお話だけれど、どちらにしても立ち話というわけにもいかないだろう。わたしもこの状況だと落ち着かないので、別の日にしてもらうと助かる。

 だけど恒松社長は譲らない。強引に話を進めようとしてきた。

「十分もかからないよ。詳しいことは、後日ゆっくりと。それでいいかな?」

「でも……」

 生け込みの作業は予備を含めて時間を取っている。十分ぐらいなら問題ないとは思うけれど、よそ様の会社で別の打ち合わせをするのは気が進まない。

「小山田さん、そういうことだから十分ほど役員会議室を貸してくれる? ちなみに冴島社長は電話中でしばらくかかりそうだよ」

「えっ、あの……」

 わたしがはっきり断らないのをいいことに、恒松社長は小山田さんにまでそんなことを言う。

「かしこまりました」

 小山田さんも立場上だめとは言えない。一礼して秘書室へ戻っていった。

 小山田さんがいなくなると、恒松社長は「行こうか」と歩き出す。

 仕方なくついていくと、そのままふたりで役員会議室に入った。

 恒松社長はわたしのために椅子まで引いてくれるので、そこへ座る。

 一方、恒松社長は椅子に座らず、テーブルに軽く腰掛けるようにして、わたしの隣に立った。そのため、かなり見上げる形になる。

 にやりと笑う恒松社長は、いつもとは明らかに違う雰囲気。そして仕事の話そっちのけで、驚くようなことを口にした。

「この間のレセプションの日、春名さん、なんで泣いてたの?」

「み、見てたんですか!?」

「最初から気づいてたよ。春名さんが陰から覗いてたってこと」

「……すみません」

 本当のことだから言い訳のしようがない。あのときわたしはとっさに柱のうしろに隠れたのだ。

「それはいいんだよ。別に聞かれて困る話はしてないし、見られても別にどうってことない。率直に聞くよ。春名さんは冴島社長のことが好きなの?」

「それは……」

 おつき合いしていますと言ってもいいのだろうか。でもわたしの口から勝手に言っていいのかわからない。冴島さんのお友達にはオープンにできても、仕事関係の人にはどうなのだろう。

「冴島社長は、そこらのベンチャー企業の社長とは違う。あの冴島物産の社長の息子だよ」

「それはわかっています」

「釣り合うって自分で思ってる?」

 恒松社長はどうしてそんなことを言うのだろう。冴島社長の相手がわたしなのが不服なのだろうか。

 でもどうして? 恒松社長には関係のないことなのに。

「身分が違うのは承知しています。交際に反対する人がいるかもしれません。だとしても、わたしは冴島さんと一緒にいたいと思っています」

 もう迷わないと決めた。誰になにを言われても、この恋を貫きたい。

「今はいいけど、将来的に不安にならない? 結婚となると、冴島家の一族はもちろん、冴島物産の重役たちがどう思うかな?」

「それでも──」

「俺はどうかな?」

「はい?」

「俺にはないよ。しがらみとか、冴島社長の背負っている面倒くさいもの全部」

 当惑するわたしに恒松社長の手が伸びてくる。輪郭を撫でられているのに、わたしはなにが起こっているのか理解できない。顔が近づいてきて、ようやく頭の片隅で逃げなきゃと思い立ったけれど、身体が硬直したみたいに身動きできなかった。

「逃げないってことは、このままいいってこと?」

「……あ、あの、なぜなんですか? わたしに好意があるわけじゃないのに」

 恒松社長はこれまでわたしを口説いたり、誘ってきたりすることはなかった。わざわざわたしに声をかけなくとも、彼のまわりにはセレブできれいな人が山ほどいる。

「それはね、悔しいからだよ。冴島社長はなんでも持ってるのに、春名さんみたいないい子まで手に入れちゃって。それに実は昔から冴島社長のこと、あんまり好きじゃないんだよな」

「でも飲み仲間だって……」

 冴島さんはそう言っていた。

「酒ぐらい飲むよ。IT業界の動向はもちろん、それ以外の情報もくれるから、彼は」

「利用してたってことですか?」

「そんなふうに言われると、まるで俺が悪者みたいに聞こえるけど、冴島社長も俺を利用している。お互い様だって、お互いに思ってるから」

 恒松社長は高笑いすると、わたしの顎をぐっと持ち上げる。

「やめてください!」

 そこでようやく身体に力が入り、顎にあった手を振り払って立ち上がった。その反動でキャスターつきの椅子が後方の壁にぶつかって、鈍い音を立てた。

「咲都!」

 声が聞こえたと同時にドアが開く。

「冴島さん!」

 彼が大股で近づいてくる。かと思ったら、わたしを恒松社長から守るようにして抱き寄せ、怯えていたわたしを落ち着かせるように頭を撫でた。

「来るのが遅くなってごめん」

「いいえ、冴島さんのせいじゃありませんから」

 彼は背広を着ておらず、ノーネクタイという比較的ラフなスタイル。

 気温が高い日でも、誰かと会うときは必ずといっていいほど背広を着用している冴島さんにしては珍しい。つまり恒松社長とは、それだけ気心が知れた仲ということなのだろう。

 だけど恒松社長にとっては、上辺だけの関係だったと思わざるを得ない。

「咲都、本当に大丈夫? 無理してない?」

「はい」

 大きく頷く。

 でも怖かった。まさか冴島さんの会社の会議室で、あんなことになるとは思いもしなかった。

 小山田さんが冴島さんに知らせてくれたのだろう。彼女はいつも的確に冴島さんに情報を伝えてくれる。とても有能な秘書だ。

 視線を感じて見ると、恒松社長が楽しげに口角を上げていた。

「恒松社長、いったいどういうおつもりですか? 彼女を怖がらせることをするなんて。場合によっては御社との取引も考え直させていただきますよ」

「まあまあ、そう怒らないで。俺はね、ただ春名さんがどこまで本気で冴島社長を好きなのかってことを確かめようとしただけだよ」

「嘘ですよね? 単純に僕へのいやがらせですよね?」

 いやがらせ?

 そんな子どもじみたことを大の大人がすることではない。

 恒松社長ってそんな人だったの?

 がっかりしていると、恒松社長がふき出した。

「おふたりがあまりにもうらやましくてね。いやあ、冴島社長の本気を初めて見ましたよ。そんな人だとは思わなかったなあ」

「別に否定はしませんよ。その通りなので」

 相変わらず冴島さんはポーカーフェイスだ。

「冴島社長は正直でいいなあ。春名さん、知ってた? 俺、冴島社長に釘を刺されたんだよ。春名さんとは、ぜひとも良好なビジネス関係でお願いしますって」

 良好なビジネス関係とは、言葉通りに受け取っていいと思うのだけれど。それがどうかしたのだろうか。

 すると、いまいち理解できていないわたしを見て、恒松社長が教えてくれた。

「つまり、春名さんにちょっかいを出すなってことだよ」

「えっ?」

「食事に誘うぐらいはいいだろう? って言ったら、すごい睨まれちゃってさ。彼、案外心配性みたいだから気をつけたほうがいいかも」

「は、はあ……」

 なにを気をつけるのかわからないけれど、とりあえず返事をしておく。

 それにしてもそんなやり取りがあったとはつゆ知らず。想像しただけで顔がにやけてしまいそうになる。

 冴島さんをちらりと見ると飄々《ひょうひょう》としていて、やっぱり彼には敵わないなと思った。

「恒松社長、彼女への助言はいらないですよ。彼女は僕を不安にさせるようなことはしませんので。心配なのはあなたがムキになって彼女を追いまわしやしないかということなんですよ」

「なんで俺?」

「自分に興味を持たない女性に免疫がなさそうなので。ショックを受けるのではないかと」

 さすがに言いすぎだと思い、冴島さんを止めようと思ったが、逆にわたしが口を挟むのも失礼なのかもと思い直し、結局やきもきしながら聞いていた。

 だけど恒松社長は気を悪くする様子はなく、「言うねえ」と朗らかに応戦した。

「冴島社長のそういうとこは、好きなんだよね。ギャップっていうの? 礼儀正しい常識人なのに実は傲慢な野心家。いつもドライで人並みの幸せにさほど興味がなさそうな顔して、家族とか友達とかそういうのを妙に大事にしてる。なんでも持ってるくせに、とうとう最愛の人まで手に入れちゃったんだ」

「僕はごくごく一般的な思考の人間ですよ。世の中の人間はたいていそんな感じだと思いますが」

「それそれ! 誰もが持っているでしょう的な言い方。だけど、現実はそうじゃないんだよなあ」

「そんなふうに言っても、どうせたいして悔しくなんでしょう?」

「まあね。もうしばらく自由でいたい。結婚はぜんぜん興味がないんだよ」

 ふたりの冷静な会話をハラハラしながら聞いていた。

 これって喧嘩しているわけではないんだよね?

 恒松社長のセリフから、実はふたりは敵同士なのかもと思ったのだけれど、そういうわけでもないのかな。わたしには理解しがたい。友達という感じではないから、強いていえばライバルみたいなものなのだろうか。

 少し離れた所に立っている小山田さんは慣れているのか、涼しげな顔で、すっと背筋を伸ばしていた。

「いずれ、そういう人と出会えば考え方が一八〇度変わりますよ」

 冴島さんがわたしに視線を移してくるものだから、心臓の鼓動が跳ね上がる。

 そういうことを表情ひとつ変えずにさらりと言えるのがすごい。

「ほんと、冴島社長は変わったよな。てっきりこちら側の人間なのかと思ってたんだけど」

「残念でしたね」

「ほんとだよ。一緒に遊んだら楽しそうだと期待してたのにさ」

 喧嘩のように見えたけれど、だんだんとふたりが楽しそうに見えてきた。

 ずっと聞いていて思ったのだが、恒松社長は冴島さんのことをよく理解しているのかもしれない。このふたり、実はものすごく気が合うんだ。

 わたしが見たことのない冴島さんの傲慢な野心家の一面。でもそういう一面があるのは当然。大勢の社員のトップに立つとはそういうことなのだと思う。

 それからエレベーターホールまで来て、恒松社長を見送った。

「急に来て悪かったな」

「いいえ。本来ならこちらから伺わなくてはいけないところをわざわざお越しくださり、ありがとうございました」

「ライブ配信、好評だったから、また機会があれば頼むよ」

「ええ、ぜひ。こちらこそよろしくお願いします」

 恒松社長がエレベーターのボタンを押した。すぐに扉が開く。

「春名さんもまたね。そうだ! 生け込みの件、近いうちに詳細をメールするから、提案書送ってくれるかな?」

「承知しました」

 わたしたちが見送るなか、恒松社長はエレベーターに乗り込んだ。

 エレベーターの扉が閉まらないよう、ボタンを押していた小山田さんが恒松社長におじぎをした。

「小山田さんはふたりのこと知ってた?」

 扉が閉まる直前、くだけた口調で恒松社長が言う。けれど小山田さんは上品な笑みを浮かべ受け流していた。

「なんだ、知ってたんだ? 参ったな」

 扉が閉まると、冴島さんが小山田さんにあっけらかんと言う。

「隠すおつもりもなかったようでしたが。春名さんが初めて来社された日も下心丸出しだったこと、覚えていらっしゃらないんですか?」

「ああ、そんな会話があったね。でもあのとき以外はいつも通りに振る舞っていたつもりだったんだけど」

「会食以外で女性と昼食を摂られるのも社長らしくないというか、わたしが秘書についてからは初めてでしたので大変驚きました」

「それだけ?」

「社長が日曜のスケジュールを別の日に振り替えてほしいとおっしゃるのも珍しいなと思いました。しかも月に二度も。とくに先々週の予定はだいぶ前から入れていたものでしたのに」

「よく覚えてるね」

 先々週……。その日はベイエリアまでドライブをした。あの日のデートは、日曜日が定休日のわたしのためにわざわざスケジュール調整をしてくれていたの?

 そうだよね。冴島さんはわたしよりも断然忙しいだろうし、大きな責任も背負っている。それなのにわたしは、日曜日に会えたのを普通のことのように思っていた。

 そんなこと、深く考えなくてもわかるはずだったのに。負担になっていなかっただろうか。

「申し訳ありません、春名さん。スケジュールの話は失言でした。責めるつもりはまったくなくて……」

 小山田さんはわたしを傷つけたと思ってしまっている。

 小山田さんのせいではないのに……。

「責められているなんて思ってませんから。なので気になさらないでください」

「お気遣いありがとうございます。でも、むしろ進んで休暇を取るようになられてよかったと思っているんです」

「えっ……」

「社長は放っておくと仕事に没頭してしまうので、こちらで適度にお休みを入れるようにしていたのですが、勝手にそこに予定を入れてしまうほどでしたので」

「そういうことだから。咲都は気にしないでよ」

 また考えていることが顔に出ていたのだろう。小山田さんに続き、冴島さんもフォローしてくれた。

「それでは春名さん、さっそく作業をお願いしますね」

 小山田さんがきりりと促し、わたしは気を引きしめた。

「咲都、僕の部屋から頼むよ」

 冴島さんのあたたかい笑顔に、わたしは「はい」と頷いた。

 わたしは人に恵まれている。だからこんなにも充実した気持ちで仕事ができる。

 社長室で作業をはじめようと準備をしていると、冴島さんがダークブラウンの木目調のロッカーを開け、ネクタイを締めはじめた。

 どうやら外出するみたいだ。顔つきがまるで違う。

 いつものやさしげなものではなく、気合の入った精悍せいかんな表情。ちょっと近寄りがたいような気迫も感じた。

 これが仕事をしているときの冴島さんだ。

 そのときドアがノックされた。

「社長、そろそろお時間です」

 開いたドアから小山田さんが声をかけてくると、冴島さんは「わかった」と背広を羽織った。

 その一連の動作が格好いい。

 だけど、ふいに目が合って、見とれていたのがバレてしまった。

「すみません、つい……」

「なにが?」

 あれ? もしかして気づかれていなかったの?

「な、な、なんでもないです! お、お気になさらずに……」

 慌てて否定したけれど、これではあまりにも挙動不審だ。

 冴島さんは釈然としていない様子。とっさに状況を把握したらしい小山田さんがこらえきれないとばかりに笑い出した。

 やだ、こんな状況……。なんとなく立つ瀬がない。

「社長、正面玄関に車を待たせてありますので、準備が整いましたらお願いします」

 小山田さんはそう言うと、さっさとドアを閉めてしまった。

「なんだよ、あれ? 咲都、どこかおかしいとこある?」

 冴島さんは自分が笑われたと思っているみたいで、わたしのほうに向き直り、身なりを気にし出す。

「あっ、ちょっとそのままで……」

 わたしは手が汚れていないのを確認すると、少し曲がっていたネクタイを直した。

「ありがと」

「いいえ、どういたしまして」

「なんかいいね、こういうの。実は憧れてたんだ」

 甘い声と一緒に冴島さんからふわりといい香りがしてきて幸せな気分になった。

「じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 社長室で冴島さんを見送るなんて変な感じだ。

 軽快に出かけていく姿からは、しがらみや理不尽な圧力なんてものは感じない。上手に隠して、彼は今日もさわやかな笑みを浮かべていた。


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