1.恋をしましょう!
八月最終日の金曜日。午後七時過ぎ。
本日最後のお客様をお見送りするために花屋の店先に出る。
黒の半袖ポロシャツに白のパンツというラフな格好の男性。だけど手には有名ブランドのビジネストートバッグを持っている。キャメル色のレザーは大事に使い込んだ色合いだった。
年齢は二十代後半ぐらいだろうか。いや、かなり落ち着いた雰囲気だから、もしかしたら三十代かもしれない。
二ヶ月ほど前から来店するようになり、三回目の来店のとき、「樫村といいます」と自ら名乗ってくれた。
バッグを持つ手とは反対の手には、今しがたうちの店で買い求めてくださった、さわやかな青い色をしたデルフィニウムの小さな花束がある。
奥様へのプレゼントかな。でも結婚指輪はしていない。なら恋人にあげるのかもしれない。
奥様なのか、恋人なのかはわからないけれど、彼女はきっと幸せに包まれた穏やかな生活を送っているんだろうな。
樫村さんの素朴なやさしい笑顔を見ながら、今日もそんなことを思った。
「いつもありがとうございます」
「また寄らせてもらいます」
「はい、お待ちしています」
すっきりとした短髪のうしろ姿は細身。背筋がすっと伸びて姿勢がいいので、さほど背は高くないのにそれを感じさせない。
樫村さんは足取り軽く、駅のほうへ歩いていった。
「最近よくいらしてますね、樫村さん」
そう言ったのは、アルバイトの榎本正親くん。
「ありがたいよね。ああいうお客様も一人ひとり大切にしていかないと、うちみたいな小さいお店は潰れちゃうから」
「でも最近は固定客もついてきてますし、売り上げも少しずつ伸びてきてるじゃないですか」
「ううん、まだまだだよ。もっともっとがんばらないと」
売り上げが伸びてきているといっても、それまでがひどかっただけで、経営は今も厳しいものがある。
「大丈夫ですって。咲都さんのアレンジメント、じわじわ人気が出てますから」
店先に並べてある鉢物を店内にしまいながら、榎本くんが言う。
榎本くんは高校を卒業してからも定職に就かず、ずっとフリーター生活をしている。
年齢はわたしよりも四つ下の二十二歳。うちの店で働きはじめて三年ほどになる。
車の運転もできるから配達もこなすし、花のアレンジメントもうまい。茶髪で見た目も言動もチャラいけれど、仕事に取り組む姿勢はまじめで欠勤もしないので、すごく頼りになるし、大事な即戦力だ。
『FLORALはるな』
それがうちの店の名前。名字が春名なので、それが由来。
現在、わたしと塔子さんと榎本くんの三人で店を切り盛りしている。
塔子さんは基本的に早番。榎本くんには遅番をお願いしている。
塔子というのはわたしの実の母。お客様の手前、店では名前で呼んでいる。
店は三階建ての雑居ビルの一階。都内のオフィス街のメインストリートから一本奥の路地裏にある小さな商店街にひっそりと佇んでいる。
駅までは歩いて十分もかからないし、オフィス街が近いので、立地はそれほど悪いとは思っていない。けれど駅前に大きな花屋ができて、お客のほとんどはそちらに流れてしまっている。
そんなわけで、残念ながら現実は花の持つ華々しさや艶やかさとは正反対。地味に細々と営業をしている。それでも経営できているのは、商店街の人たちがご贔屓にしてくれるのと、この辺りの企業からの依頼がちらほらとあるからだ。
「ちょっと思ったんですけど、あのお客様、咲都さん狙いじゃないですか? 咲都さんに会うために花を買いにきてるって感じですよ」
「そんなわけないでしょう。毎回お花を買っていくだけだよ。誘われたことも一度もないんだから」
「まじめそうな人だから、言い出せないだけかもしれませんよ。あっ、俺がいたから誘えなかったのかも」
「ばかなこと言わないの」
そんなことあるわけない。髪を振り乱し、メイクも落ちて、泥やら樹液やらで汚れたエプロンを身につけた色気のないパンツスタイルのわたしを、きれいだとか可愛いとか思う男性なんているわけない。
「咲都さん、ずっと彼氏いないんですよね?」
「……べ、別にほしいとも思ってないもん」
「そんなこと言わないで、恋をしましょうよ。咲都さんってまだ二十六でしょう」
「恋なんて……。どこにそんな暇あるの?」
これでも一応オーナー店長。朝から晩まで働きづめ。オフィス街にあるから定休日は日曜日だけれど、その日曜日だって花や鉢物の世話があるから、店に顔を出すことも多い。
「そんなこと言ってたら、この先もずっとひとり身ですよ」
「もう……放っておいてよ。榎本くんに心配してもらわなくても大丈夫。それよりほら、さっさと店じまいするよ」
わたしも榎本くんと一緒に鉢物を店のなかに運ぶ。
今は恋愛することは考えられない。この店を維持していくだけでいっぱいいっぱいで、恋なんてとてもとても……。そもそも出会いすらないんだから。
もともとこの店は父が独身時代にオープンさせ、それから数年後、塔子さんと結婚して一緒に営んでいた。だけど三年前に父が病気で亡くなり、しばらくは塔子さんがオーナー店長としてなんとか守ってきた。
もちろん、わたしも必死に塔子さんを支える努力をした。中学生の頃から店を手伝ってきたので、基本的な知識と経験はあった。
でもやがて限界がきてしまう。そのため父が亡くなって一年半後、わたしはそれまで勤めていた会社を退職し、花屋を継ぐ決意をした。
大学卒業後、二年間勤めていた会社を退職しようと決意したのは、塔子さんに店をまかせておけなかったから。
この仕事は肉体労働で、とにかく忙しい。今はわたしと塔子さんと榎本くんの三人でまわしているけれど、はっきりいって人手が足りない。だけどアルバイトの人を追加で雇うことは予算的に無理な話で、それだけぎりぎりの経営状態の店を、塔子さんはかつて潰しかけてしまった。
残念ながら、塔子さんには商才がなかった。接客やアレンジメントは立派にこなせても、仕入れや経理はほとんど父が行っていたため、店の経営の仕方を知らなかったのだ。
わたしはどうしてもこの店を守りたかった。父の残してくれたこの店を。そして、まだ四十代後半の塔子さんの生きがいを失くすわけにもいかなかった。
「あの、もう閉店ですか?」
店先で鉢物の最後のひとつを手に取ったときだった。遠慮がちな声がして、かがんだまま見上げると、スーツ姿の若い男性が立っていた。
うちの店はオフィス街からほど近い場所にあるから、さっき帰ったお客様のように男性客が来ることはたまにある。けれど、このお客様はこれまでの男性たちとは出で立ちがどことなく違う。貫禄というか、品格があるというか……。
たぶん、両方が備わっている。長身でスラッとした体型。遠慮がちと言っても、人あたりがよさそうな軽やかな口調と、わたしをまっすぐ見つめる自信に満ちた微笑み。スーツだって身体のラインに合っていて、オーダーメイドなのかなとなんとなく思った。
「よろしいですよ。どんなものをご希望ですか?」
立ち上がって尋ねる。
「花束なんだけど、アレンジをお願いできる?」
「ええ、もちろんです。なにかのお祝いでしょうか?」
「誕生日なんだ」
お客様はそう言うと、少し恥ずかしそうにはにかむ。
このお客様も奥様か恋人へのプレゼントかな。
どちらにしても誕生日プレゼントなのだし、きっとある程度親密な関係の方なのだろう。
「なかへどうぞ」と店内に招き入れると、お客様はおずおずと入ってきて、店内を軽く見まわした。
「どなたへのプレゼントですか?」
アレンジもお願いされたので、お相手を知る必要がある。性別、年齢、できればどんな関係なのかもわかれば作りやすい。
だけどすぐに返答がなく、どうしたのだろうと様子をうかがっていると、お客様は「母へ」とだけ答え、目を伏せた。
さっきからとても居心地の悪そうな様子。もしかして花を贈ることに慣れていないのだろうか。
もっとも日本人は男女関係なく、多くの人が花を贈るのは日常的なことではないのだろうけれど。このお客様は花を持っている姿が様になる感じ。女性の誕生日にバラの花束をプレゼントしそうな雰囲気なのでちょっと意外だった。
「お花の種類や色合いのご希望はありますか?」
お客様は店内の花にちらりと目を向けたけれど、案の定「おまかせするよ」という返事。
わたしはあまり踏み込まない程度に、お母様の情報を聞き出すことにした。
するとどうやら活動的な方らしく、お仕事もされているとか。花もお好きで、最近になって生け花も習いはじめたそうだ。
なるほど。このお客様はわたしとそう年齢は変わらない感じだから、お母様の年齢はおそらく四十代後半からせいぜい六十代前半。
お仕事をしながら習いごともこなすということは、きっと若々しい方なのだろう。それなら華やかな色合いがいいかもしれない。
「予算は一万円ぐらいで」
「かしこまりました。ご予算内でお作りしますね」
今朝仕入れた切り花のなかから数種類の花を選ぶ。
鮮やかなピンクのガーベラ、やさしいピンクのバラ、上品なピンクのユリ。少し個性的になるようにピンク系でアレンジしようと思った。
「お母様はピンク系の色はお好きですか?」
花のアレンジメントとしてはわりあい好まれる色だけれど、念のため確認してみる。
「好き……だと思うよ。昔はよくピンクの着物を着ていたから」
「和服がお好きなんですか?」
「どうなんだろうな。仕事柄、着る機会は多いけど」
どんなお仕事なのだろうと気になるけれど、これ以上尋ねるのは遠慮しておこう。
わたしはこのお客様とお母様に喜んでもらえるよう、心を込めて花束を作る。ドット柄の白いチュールとグレージュのペーパーでラッピングして、最後にブラウンのリボンを巻いた。
「こんな感じでよろしいですか?」
「ああ、すごくきれいだ。花もいいけど、ラッピングもおしゃれだね。こういうの、あんまり見たことないな」
「ありがとうございます。お花が引き立つようなラッピングを心がけています」
うちの店は、包装紙とリボンについて、こだわっているほうかもしれない。色はもちろん、材質や柄もいろいろと取りそろえている。経費はかかるけれど、こういうところで他店との差別化を図らないとリピーターのお客様の確保が難しい。
「これなら、きっと母も喜ぶよ。あの人、年甲斐もなく、こういう乙女チックなの好きそうだから」
店に来たばかりのときの居心地の悪そうだった顔が嘘のよう。気持ちが楽になったようで、白い歯を見せ、本当に気に入ってくれたことが伝わってくる。
この仕事をしているとき、様々な場面でやりがいを感じるけれど、こんなふうに目の前でお客様の笑顔を見ているときも幸せだなと感じる。仕事がきつくても、もっとがんばろうと思える。
あとはお母様が気に入ってくれればいいんだけど。
会計のときにメッセージカードを添えられてはどうかと提案してみたら、少し考え込み、恐る恐るといったふうに受け取っていた。
その様子を見て、余計なことを言ってしまったかなと反省する。
だけど、「ちょっとテーブル貸してね」と言って、背広からペンを取り出すのを見て、胸を撫で下ろした。
お客様はさらさらとペンを走らせ、カードにメッセージを書き込んでいた。
わたしはカードの文字を見ないよう、横を向く。
ふいに榎本くんと目が合った。なんだか彼がにやけているように見えるのは気のせいだろうか。
ちゃんと仕事しなさいと目で訴えると、榎本くんは、はいはいわかりましたとでも言うように肩をすくませ、掃除に取りかかった。
「こんなもんかな」
お客様はメッセージを書き終えたらしく、ひとりごとのようにつぶやく。
わたしはお客様が満足げな顔でカードをそっと花束のなかに入れるのを見届け、微笑ましい気持ちになった。
「ありがとう」
「えっ?」
急に向けられた笑顔と言葉にドキッとする。
笑うと少し可愛い。大人の男性に可愛いという形容詞はおかしいかもしれないけれど、無邪気な感じがして、思わずこちらも笑顔になってしまう。
なんなのだろう、この破壊力は。一瞬にして心を持っていかれる。
「こういう機会でもないと、自分の母親に手紙なんて書かないからね。プレゼント、花にしてよかったよ。アクセサリーやバッグも悪くないけど、いろんなものを持っている人だから、どれもピンとこなかったんだ」
その言葉に目頭が熱くなる。
お客様が満足げによかったと言ってくださった。自分が少しでもこのお客様の役に立てたのなら、それは本当に喜ばしいこと。
いろいろな想いを抱え、いろいろな方が花を買いにくる。お祝いごとだけでなく、お仏壇やお墓にお供えするために買いにこられる方もいるし、お亡くなりになった方のための枕花をお届けすることもある。
日常の癒やしになるときもあれば、誰かの人生の節目に寄り添うときもあって、自分がその手助けや橋渡しになれることが誇らしくもあり、おこがましくもある。
お客様は花束を手に、「それじゃあ」と言って帰っていく。路地を抜け、オフィスが立ち並ぶ大通りのほうへ歩いていった。
わたしはいつものように店の外に出て、頭を下げてお客様を見送った。
「すごく格好よかったですね、今のお客様」
店のドアを閉め、振り向くと、榎本くんがニヤニヤしながら近づいてきた。
さっきもそうだったけれど、なにを言いたいのだろう。
「たしかに格好いい方だよね。だからってお客様のことをあれこれ詮索しちゃだめだよ」
「詮索したくもなりますよ。だって咲都さんのこと、かなり気に入っていたみたいでしたから。いやあ、咲都さんモテモテですね」
「なんでそうなるの? 花を買って満足された、それだけのことでしょう?」
「いやいや、それだけじゃないですって。さっきのお客様はどこの会社の人だろう? 靴はピカピカで、高そうな時計をしてたから、きっと大手ですよ」
「時計まで? よく見えたね」
「昔から視力と体力だけは自信あるんで。その代わり、勉強はまるっきりだめなんですけど」
榎本くんはいつもこんなふうに自分のことをおちゃらけて話すけれど。
わたしは榎本くんをかなり買っている。彼には商才があるような気がする。数字に強いし、発想も豊かだし、人に可愛がられ、コミュニケーション能力も高い。
なにより先のことを考える能力がある。榎本くんはなぜか新しくオープンした店が繁盛するか、それほどでもないかをあてられる。なんでも立地などから集客率が瞬時にわかってしまうらしい。
実際過去に、オープンして一年ほどで撤退した居酒屋やラーメン屋、クリーニング店を言いあてた。
なんだそれ、マーケティングの天才か。
そんな彼がなんでうちの店で働いてくれているのかは謎だが、言い換えれば榎本くんはうちの店にとっての座敷童的な存在。少なくとも榎本くんがいるうちは、うちの店は潰れないだろうと密かに思っている。
「樫村さんもいいですけど、あのお客様も捨てがたいなあ。咲都さんはどっちがタイプですか?」
「その話、まだ続いてるの? いい加減にしてよ、わたしは──」
「恋愛してる暇なんてないって言うんでしょう? そのセリフ、聞き飽きました」
「だったら……」
「いいえ、咲都さん、恋をしましょう! 恋愛が仕事の妨げになるなんて、そんなことないと思います! むしろ活力になるって俺は思ってます!!」
これでもかというくらい力説され、なにも言えなくなってしまった。
わたしって、そんなにさみしい女に見えるのだろうか。仕事は大変だけれど楽しい。今はそれだけで満足しているのにな。
恋かあ。
自分のなかでは結婚もまだ先のことだという認識でしかない。晩婚化の時代、わたしとしても結婚は三十代になってから考えてもいいと思っているくらいだ。
でも世間の目は少し違うのだと、二十六歳になった今、ひしひしと感じてはいる。
やっぱり榎本くんの言うように恋ぐらいはしないとだめかな。同年代の人たちのなかにはすでに結婚して子どももいる人だっているのだから。
それにしても、みんなどうやって相手と出会っているのだろう。わたしの場合、出会いといえば店にいらっしゃるお客様ぐらいしか……。
「咲都さん?」
ぼんやりとしていたわたしに、榎本くんが心配そうに声をかけてきた。
「ううん、なんでもない。さあさあ、仕事仕事!」
わたしはごまかすように大きな声を出す。
スーツ姿のさっきのお客様の笑顔が浮かんだのはなんだったのだろうと思いながら、閉店作業を再開した。




