エスカレーターとおばさん
私が私立の中学校へ通うためにいつも使っている駅にはエスカレーターが備え付けられていて、みんな左には一段空けて立ち、右側は歩いている。でも、通勤の時間が同じくらいなのか、いつも右側で立ち止まって、しっかり手すりを掴み、歩こうとしない女性がいる。もう中年で、小さな体を、垢じみた洋服の中に収めている。
私はその女性が嫌いだ。皆がルールを守っているのに、彼女一人のせいで乱されている。あまりに周囲に気を使わない服装をして、(垢じみたというより、汚いって言った方が正しい)みじめに背中を丸めて、周りに迷惑をかけている。
いつもの事なので、そのおばさんのことを知っている人の大部分は、運悪くおばさんの後ろに立ったりしても、もう呆れ返って何も言わずに立っているけど、たまに何か言う人もいる。ほとんどがおじいさんと若い男性だ。
「あんた、そんなとこで立ち止まるんじゃないよ。迷惑でしょうが!」
とか、
「早く行けよ!」
とか。
一度だけ駅員がやってきた。おじいさんがエスカレーターを昇り切ったところでおばさんを捕まえ、説教し始めたのだ。
「私はね、いつもこのエスカレーターに乗ってるけどね、あんたみたいな人は初めて見たよ! 周りの人のことを考えたことがないの?」
とかなんとか。だいぶ論理の飛躍が入っているけど。
で、ずっと話してるもんだから、(おばさんは一言も発しなかった)誰かが駅員を呼んできた。
「何かありましたか?」
おじいさんはおばさんがエスカレーターで右側に乗っていたにもかかわらず、歩こうとしなかったことを説明した。怒気を抑えきれないようで、荒々しい口調だった。
「事情は分かりました。不愉快な思いをさせてしまって大変申し訳ございません。私どもの方からも注意をいたしますので、今日の所はご勘弁ください」
おじいさんはかしこまった態度に毒気を抜かれたのか、「冗談じゃないよ、まったく……」とつぶやいてその場を離れて行った。
駅員はそれを見送ると、おばさんのほうに向きなおった。厳しい表情をしている。おばさんは下を向いていて、顔がよく見えない。
顔あげろってんだ。
「ご存じなかったのかもしれませんが、エスカレーターの右側は皆さんお歩きになります。急いでいる方もいらっしゃいますので、次回からお気を付けください。よろしいですか?」
胸がすっとした。ようやくちゃんと注意してくれた。
そう思ったら、私の後ろから、突然ちゃらい声が聞こえた。
「それはちゃうやろ」
振り返ると、金髪のお兄さんだった。
「お前はこの放送が聞こえんのか?」
耳を澄ますとエスカレーターのほうから「……エスカレーターでは危険ですので黄色い線の内側にお立ちになって、手すりにつかまってください。危険ですので、歩いたりしないようお願い申し上げます」という音声が聞こえてきた。そういえばいつも流れている。
「そのおばさんは律儀にこの放送を守ってたっちゅうことやろ。お前、駅員のくせになに言うとるねん」
駅員は顔が青ざめていた。先輩らしい駅員が彼の後ろにいて、その人の顔色を恐る恐る窺った。先輩駅員は能面のような顔で明後日の方向を見ていた。
中年のサラリーマンみたいな人が横から怒鳴った。
「お前は黙ってろ! どうせ親の金で遊びまわってんだろ!」
お兄さんの格好から判断したらしい。どうなんだろうか。
「残念やったな。俺の作ったアプリがそこそこ売れたんで、俺は今小金持ちなんや。ちゅうか仮に俺が親の金で遊びまわってたとしても、俺が言ってることの正当性は微塵も揺らがんやろ」
中年のサラリーマンは何も言えなかったが、なぜか怒ったような顔をしていた。
「で、どうなんや。後ろで傍観決め込んでるおっさん。ちゃうんか? 正しいのはこのおばさんで、間違ってるのがそこの駅員と、さっきのじいさんやろ。黙ってないでなんか言うてみいや」
先輩駅員は顔をみんなのほうに戻すと、苦々しげに口を開いた。
「ああ、そうだよ。その人は何にも悪いことはしていない」
ただし、その口調はどことなくすっきりしたものだった。
さっきからじっと黙って床を見つめていた小さなおばさんはその言葉を聞くとゆっくりと歩きだした。目線の先は変わらず、床を見ている。でも、不思議と誰ともぶつからない。皆が避けていくわけでもない。前から人が来て、ああでも、おばさんから避けた。前から歩いてきたお兄さんが避けようとする前にだ。なんだ、じゃあ前は見えてたのか。
おばさんが去って行ったので、みんなてんでバラバラのほうへ動き始めた。私は動けずにそこに固まって小さなおばさんの背中をずっと追い続けた。やがておばさんの背中が沢山の人の中に消え、そこに立って私とおばさんを見比べていた関西弁のお兄さんが去り、二人の駅員が世間話をしながらどこかへ行ってしまってから、私はようやくおばさんが行った方とは反対に、学校へ行くために歩き出した。
私はそのあとエスカレーターの右側を歩くのを一切やめた。かといって右側で立ち止まったりはしていない。右側に乗れなくなったという方が正しい。もちろん友達とかと歩いていて、彼女が先に右側を歩きだしたら、しょうがない、ついていくけれど、一人でいるときは絶対に乗らなくなった。怖いのだ。どこかであのおばさんが見ていて、実は心の中で、鼻で笑われていることがあるんじゃないかと考えると。