陸 追い駆ける者
家に帰ると、玄関の前に紫苑が立っていた。
「お帰りなさい晃一さん。おや、厄介な客がくっ付いていますね」
俺は息を切らしていた。地面にへたり込む。校門を抜けた所で待ち伏せされていて、必死に逃げて来たのだ。本当に地元民でよかった。
かさかさと土蜘蛛がやって来た。血のように赤い瞳が光る。そんな目が八つもあるのだから、気持ち悪いどころのものではない。もはやグロテスクという表現のほうがぴったりと言えるだろう。
「紫苑様、どうにかできるんだろ、神様なら。おまえの頼みを聞いてやったんだ、俺のことも助けてくれよ」
お面をしていない紫苑が眉根を寄せる。
「殺生は嫌いです」
「目の前で俺が妖に食われてもいいのかよ」
土蜘蛛は様子を窺うように黙っているが、興奮した荒い呼吸音が聞こえる。虫なのにこんなに聞こえていいのだろうか。
紫苑は土蜘蛛を一瞥し、溜息をつく。
「貴方に死なれては困ります。やっと見付けた私の手掛かりなのに」
俺を通り過ぎ、紫苑は土蜘蛛に歩み寄る。
「立ち去りなさい。この者を食らわば、神の怒りに触れますよ」
その言葉と同時に、強い風が吹き抜けていった。紫苑の黒いロングジャケットが風を孕んで広がる。加工がしてあるのか、裏地がただの黒ではなく青に緑に光る綺麗な色をしているのが見えた。
土蜘蛛は動かない。しばらく睨み合っていた両者だったが、やがて諦めたのか土蜘蛛が帰って行った。
……助かった。
「ありがとう紫苑様」
「……いえ。追い払っただけです。今の私ではこれが精一杯なのです。退治できれば良いのですが……」
漆黒の瞳が震えた。ゆらゆら動くのを見ていると、吸い込まれそうになる。
「朝見送るだけでは不十分ということなのでしょうか……」
「ん? 朝? 朝いたっけ?」
「あ、ああいえ……。お気になさらず」
何だか怪しいな。
考え事をしているのか、紫苑は腕組みをしながら首をひねっている。
ざわざわと木が揺れ動く。遠くの方からセミの鳴き声が聞こえる。初夏の木漏れ日が黒ずくめの神様に落ちている。
絵になりそうな光景だ。とは思うが、俺にはこれを絵にできるほどの画力はない。
何かに納得したのか、紫苑はうんうん頷いた。
「私はひとまず帰りますね」
「えっ」
強い風が吹いて、俺は反射的に目を瞑る。
目を開けると、そこに紫苑の姿はなかった。
「ただいま」
「お兄ちゃんお帰りー」
家に入ると、小学生の妹が駆け寄ってきた。ポニーテールをふりふり揺らしながらやって来て、俺に飛びつく。低学年ならまだしも、五年生になってこんなに兄に懐いていていいのだろうか。クラスのやつらにブラコンとかってからかわれていないことを祈る。
「明香里、母さんは」
「お買い物ー。タイムセールだって。おやつ適当に食べていいって」
そう言って妹は俺から離れると、居間へ向かった。
「ねえお兄ちゃん、一緒にゲームやろう」
居間から声がする。
「着替えたらな」
二階にある自室へ行くため、俺は階段に向かう。階段へ行くには居間の前を通らなくてはいけないのだが、そこで呼び止められた。据え置きゲーム機のコントローラーを手にした妹が、少し不思議そうに俺を見上げる。
「朝さ、何かカラスに追いかけられてたけど大丈夫だった?」
「は?」
「お兄ちゃんの後ろ、しばらくついて行ってたよ」
ゴミ収集の日にゴミ袋を持っているところを見られでもしたのだろうか。まさか目を付けられたとか。こいつは食べ物運ぶ人だ。みたいな。
「大丈夫ならいいや。早くゲームしよっ」
それとも……。いや、まさかな……。